goo blog サービス終了のお知らせ 

石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

北の関ヶ原5  白河・石阿弥陀防塁跡

2007年02月18日 | 北の関ヶ原

天地人直江兼続5、白河市街地南(まほろんの南)、関ヶ原の「石阿弥陀(皮籠原)防塁」

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県白河市 県文化財センター白河館「まほろん」の南側にある防塁

Scan20001  慶長5年(1600)に上杉景勝は、徳川家康の会津進攻に備え、領国の南側の主要街道に防塁を築いています。白河の南にあるものもその一つ。まほろんのすぐ南の石阿弥陀地区に現在300メートルほど空堀と土塁が残されています。勢至堂峠や馬入峠、母成峠などの防塁と構造は同じで、幅7メートルの空掘、高さ2メートルから4メートルの土塁で直線を基本とした織豊的な土塁と堀になっています。

会津の歴史は「考古学から見た会津の歴史」へ

北の関ヶ原4  上杉氏改修の西山城

2006年12月19日 | 北の関ヶ原

天地人直江兼続4 上杉景勝が慶長5年(1600)に大改修した「西山城西舘」

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県伊達郡桑折町  福島市から20分

424_006 伊達氏の居城ですが、西舘は上杉景勝が慶長5年に伊達政宗の進攻に備え、大改修した石垣ではない、石塁が築かれています。未完成のものです。福島県の南部にある土塁で造られた防塁の石塁版です。防塁は、景勝が朝鮮半島の文禄の役で学んだ技術を応用していると推定されます。

会津の歴史は「考古学から見た会津の歴史」へ

北の関ヶ原3  南会津の鴫山城

2006年09月29日 | 北の関ヶ原

 南会津町田島の鴫山城(しぎやまじょう)  長沼氏の城・直江兼続弟大国氏の城

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県南会津郡南会津町田島 会津若松市・那須塩原ICから1時間

Photo_13 中世から戦国時代、南会津の拠点は、長沼氏の田島、河原田氏の伊南古町、山ノ内氏の金山横田でした。各氏は、今でこそ産業は推定していますが、当時は材木や蝋燭(ろうそく)炭、そして隠れた重要な産物として金があったからこそ栄えていました。拠点となる山城の近くには金の鉱山がかつてありました。また、黒鉱と呼ばれたものは石英、亜鉛、鉛、わずかな銀と銀を含んだ鉱石で、南会津地方で重要な産物でした。南会津の要衝として田島があります。そこにある長沼氏の城が鴫山城です。長沼氏が築きましたが、現在の城は、蒲生氏による石垣の構築、大きな竪堀と二重土塁構築の上杉氏があります。特に大改修したのは慶長5年(1600)の徳川家康の会津進攻に対する上杉氏の防御線として直江兼続が大改修し、弟の大国但馬守実頼が配置されています。 

会津の歴史は「考古学から見た会津の歴史」へ

北の関ヶ原2   南会津山王峠

2006年09月26日 | 北の関ヶ原

 山王峠の石仏と陣地の遺構

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県南会津郡南会津町、栃木県日光市藤原町

Photo_12 福島県と栃木県の境となる国道121号の山王峠は、現在はトンネルとなっています。その前の旧道は、トンネル西側の舗装された旧道の峠を通っていました。江戸時代の峠は、旧道のさらに西にありました。江戸時代の街道は、福島県側では道の形さえ不明になっています。南の栃木県側も藪となり不明な部分もありますが、道の形は残っています。峠の頂上の道は、狭いものです。関ヶ原の時(1600年)、直江兼続は、2万人を配置し、徳川家康の会津進攻に備え、日光市藤原町横川に大規模な防塁を築き、下流にも土塁を築き川を堰き止めた陣(鶴ヶ渕城)を築いていました。その遺構は今でも残っています。たま、峠の頂上には、軍道を長大に築き、防御線を張っていました。会津戦争では、直江兼続が築いた平場、防塁を改修して使用し、また道路をざんごうとして改修し、使用しているようです。峠の頂上の見晴らしの良い場所には、台場跡が数段残っています。江戸時代の峠の頂上には、日光市中三依の大黒屋が建てた馬頭観音の石仏があります。現地までは、福島県側から約1時間栃木県側からは約40分かかります。

会津の歴史は「考古学から見た会津の歴史」へ

北の関ヶ原1 猪苗代湖南、馬入峠の防塁跡

2006年09月25日 | 北の関ヶ原

慶長5年(1600)上杉氏築城 馬入峠の防塁

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県岩瀬郡長沼町、郡山市湖南町 大型車通行不可 道狭し

060828_054 福島県の中央、猪苗代湖の南、郡山市湖南町をとおる国道294号線勢至堂峠の西に位置する県道馬入峠の頂上、標高865メートルに、慶長5年(1600)に上杉景勝が徳川家康の会津進攻に備えて築いた土塁と空掘、内枡形虎口の防塁跡があります。街道を挟んで227メートルあります。土塁の高さは2メートルから5メートル、空掘の幅は7メートル、土塁の上場は1メートルで、一部土塁の外側が二重土塁となっています。戊辰戦争でも会津藩軍が再利用しています。また、峠の会津側には、会津戦争時に掘った2人から3人用の銃座のようなざんごうがいくつかあります。

会津の歴史は「考古学から見た会津の歴史」へ