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石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

北の関ヶ原15  母成峠の防塁と塹壕

2008年05月12日 | 北の関ヶ原

天地人直江兼続15、母成峠は、兼続・景勝時代の防塁と戊辰戦争の塹壕がある。 

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県郡山市熱海町・猪苗代町母成峠 磐梯熱海ICより15分

PhotoPhoto_3 慶長5年(1600)春、上杉景勝と直江兼続は、徳川家康の会津進攻に備え、会津や栃木県の自国の領地内に大規模な防塁や陣地を各所に築いています。戊辰戦争で知られる母成峠もそのひとつ。左の写真が慶長5年の防塁。右の写真が、1868年8月に大鳥圭介や会津藩、新選組など800人が守っていた塹壕です。県道の母成グリーンラインで2ヶ所壊されていますが、それでも約400メートル残っています。看板が広場にあります。台場もあります。また、峠の下には、石垣が積まれた台場が2ヶ所あります。案内書はありません。論文があります。

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北の関ヶ原14  兼続最後の砦、向羽黒山城

2008年04月08日 | 北の関ヶ原

天地人直江兼続14、直江兼続が家康との対じで最後の砦としたのは向羽黒山城。 

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県会津美里町本郷  阿賀川西岸 会津若松ICより15分

060924_064  慶長3年(1598)から5年の2月までの2年間、景勝と兼続は、会津の居城、若松城は改修せず、最後の砦となる山城の向羽黒山城を大改修しました。そのころは、徳川家康との決戦は考えいなかったことから、城は、北側の会津盆地を向いて改修されています。その城は、韓国の熊川倭城を真似て改修されたもので、二重土塁や長大な竪堀、大きな土塁、空掘、堀切、礎石が残されています。面積は50ヘクタールある大規模なもので、国の史跡に指定されています。家康との最後の決戦となるのは、この山城になります。城下には、北に大手虎口があり、町や家臣の屋敷もありました。関ヶ原後に、この城の虎口などは、破城されています。

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北の関ヶ原13  兼続の陣跡、鶴ヶ(ガ)渕城

2008年04月07日 | 北の関ヶ原

天地人直江兼続13、慶長5年、家康を待ち構え、兼続は日光市に大規模な陣と堰き止め湖を築い

会津古城研究会長 石田 明夫

栃木県日光市横川

20051127_113 1600年、家康は、上杉景勝を攻めるために、栃木県へ向かいました。景勝と直江兼続は、戦闘準備をし、兼続は日光市男鹿町に防塁を築きました。土塁や馬出し虎口、堀跡が残っています。なお、会津戦争でもこの遺構は再使用されています。

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北の関ヶ原12  兼続、家康との決戦地は白河

2008年03月29日 | 北の関ヶ原

天地人直江兼続12、直江兼続が家康との決戦場としたのは、北の関ヶ原白河口。 

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県白河市  国道294号線沿い 東北道白河ICより10分

080216 慶長5年(1600)6月から7月にかけて、上杉景勝と直江兼続は、徳川家康の会津進攻に備え、白河市南(県埋蔵文化財センターまほろんのすぐ南)を決戦場とし、皮籠原に大規模な防塁を築きました。現在、石阿弥陀地区に約300メートルにわたり、幅7メートルの空掘と高さ約3メートルの土塁が残されています。土塁は、当時の織豊大名の特徴である上場を平らにし、直線的に築かれ、堀の外に小さな土塁が伴う二重土塁となっています。推定3000メートルから5000メートルを築きました。家康の進攻に備え、会津若松の神指城の築城を中止し、6万人を動員して築いています。守備には安田右京らがあたりました。ただし、現地ではほとんど知られていませんので、地元の人や関係機関に聞いても答えられません。写真をクリツクすると大きくなります。

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北の関ヶ原11  兼続・上杉景勝の道(堂)谷坂陣跡

2007年12月10日 | 北の関ヶ原

天地人直江兼続11、直江兼続・上杉景勝が対家康戦で築いた陣跡

会津古城研究会長 石田 明夫

勢至堂峠入口の太閤道を取り込んだ大規模な「道(堂)谷坂陣跡」は景勝の精鋭部隊八千人が守備 

福島県須賀川市長沼町江花  国道294号線勢至堂峠南側 東北道須賀川ICより30分

慶長5年(1600)上杉景勝と直江兼続は、徳川家康の会津進攻に備え、白河市石阿弥陀や栃木県日光市の横川7山王峠などに防塁を築きます。とくに家康の有力な進攻ルートと想定された白河から長沼、そして勢至堂峠付近が最も厳重に防塁を含め防御施設を造りました。堂谷坂陣跡は、勢至堂峠南側入口に位置し、太閤道の街道を遺構内に複雑にとり込んだもので、土塁、堀切、平場、堀によって防御された大規模な守りの陣跡。『会津要害録』に慶長五年に築いたことが書かれています。景勝は、この陣を築き8000人で、徳川家康の進攻に対し、指揮をしていました。山頂部分まで、削平された移動用に使用する山道が延びています。残念ながら国道294号線の改修工事で遺構の一部が消滅し分断されています。勢至堂峠の頂上部分にも上杉景勝・直江兼続時代の防塁と戊辰戦争の塹壕があります。

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