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石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

北の関ヶ原20  南会津の九々布城

2008年05月16日 | 北の関ヶ原

天地人直江兼続20南会津下郷、交通の要衝にある九々布城 

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県南会津郡下郷町 会津若松ICより50分

080429_026慶長5年(1600)に家康の会津進攻に備え、直江兼続は、弟の大国但馬に命じ、鴫山城などの改修と防塁の鶴ヶ(ガ)渕城を築きます。また、交通の要衝である下郷町には、佐藤氏を派遣し、九々布城を築きます。二重土塁と竪堀で総構えとなる城造りが特徴です。案内看板はありません。林道から山道を入りますが、笹藪く歩けないところがあります。

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北の関ヶ原19  兼続・景勝も通った米沢街道

2008年05月15日 | 北の関ヶ原

天地人直江兼続19兼続・景勝も通った若松・米沢間の米沢街道 

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県耶麻郡北塩原村 会津若松ICより30分

2080509_055_2080509_011_2 慶長3年(1598)に会津に入った上杉景勝。直江兼続は会津若松の若松城大手口に最も近いところに屋敷をもらいます。そして、支配地として米沢6万石をもらいます。会津若松と米沢との間で、唯一の街道が米沢街道です。米沢では会津街道と呼びます。街道は、村道となり、真冬でも通行が可能で、松の古木があります。会津と米沢の境には、高さ3mと4mの境壇(塚)が東西に広場を挟んであります。車では鷹ノ巣ミズバョウの場所までで、それからは徒歩で30分。道の形はありますが、笹藪で歩けません。

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北の関ヶ原18  上杉景勝母の菩提寺跡

2008年05月13日 | 北の関ヶ原

天地人直江兼続18、会津若松の上杉景勝、生母の菩提寺跡 

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県会津若松市 会津若松ICより15分

080503_002 慶長3年(1598)に会津に入った上杉景勝、母の菩提寺を城下の西に建てます。曹洞宗の東昌寺で、戊辰戦争で焼失し、今はありません。屋敷は住宅となっています。この寺に関する看板や説明版、案内書はありません。

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北の関ヶ原17  会津若松の直江兼続清水

2008年05月12日 | 北の関ヶ原

天地人直江兼続17、会津若松にある兼続清水 

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県会津若松市山鹿町 会津若松ICより15分

08029_004 慶長3年(1598)に会津に入った直江兼続、屋敷は若松城の大手口に面する西側にありました。直江兼続の屋敷は蒲生忠郷時代の町野長門守の屋敷で、1町四方。屋敷跡には、兼続清水跡があります。清水は、別な場所にありましたが、建物の建設で移動し、昭和の戦後に現在地へ移されたものです。直江兼続や兼続清水に関する看板や説明版、案内書はありません。

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北の関ヶ原16  直江兼続会津の屋敷跡

2008年05月12日 | 北の関ヶ原

天地人直江兼続16、直江兼続、会津若松の屋敷は1町四方 

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県会津若松市山鹿町 会津若松ICより15分

08029_002慶長3年(1598)に会津に入った直江兼続は、屋敷を城の大手口に位置する場所にもらいます。蒲生忠郷時代には、町野長門守の屋敷で、城のある東向きの大町通りに面していました。屋敷は、改造せず、そのまま使用していました。直江兼続の看板があります。

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