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合間の博物館旅日記

博物館を回りながら日本各地を旅をする過程の壮絶な日記。(2005.4-9月)
旅終了後は適当に随時更新の予定。

地獄名人戦 その後

2013-10-25 01:25:38 | 明大将研
合宿は年に2回あり、地獄名人戦も2度行われた。

春合宿の地獄名人戦決勝は、1年の森本と間瀬の間で行われ、間瀬が地獄名人のタイトルを取った。

しかし、この時私は直前に腰を怪我して自宅療養中のため参加できず。前名人の藤田君も不参加のため、自分たちの間では間瀬君を真の名人とは認めがたい雰囲気があった。

翌年。

新たに1年生部員も十数名入部した。

夏合宿は、前回の7日間を上回る、実に10日間という長期日程となった。(流石に長すぎるということで翌年からは元に戻ったが…)

前名人の藤田君も参加し、あらたに1年の強豪も多数迎え、今年こそ真の地獄名人が決まると、当時すでに「お笑い将棋」の世界に目覚め、地獄名人マニアになってしまった私は、当事者であるにも関わらず、来るべき地獄名人戦が楽しみで仕方ないという体質へと変貌してしまっていた。

2年では私を筆頭に、蕪木、間瀬、森本、柳岡、中田、藤田。
1年では、縄野、森谷、小林、佐藤、近藤、諸藤……、といった地獄名人候補の強豪たちが、ひしめきあっていたのである。

その結果、決勝は前名人である藤田と、1年の松本君との戦いとなり、結果、松本君が栄えある地獄名人となったのである。


しかしながら、これはまだまだ地獄名人の歴史の序章にしか過ぎなかった。

実はこの時の合宿に参加してない、ある1年生がいたのである。

その彼こそ、後に「永世地獄名人にもっとも近づいた男」と言われた、橋本君であった。

橋本君の「強さ」については、また稿を改めて書きたいと思う。

地獄名人戦

2013-10-25 00:55:09 | 明大将研
合宿の最終日前日、前々日で行われるのが、恐怖の地獄名人戦である。

これはトーナメントによる負け抜き戦であり、大学によっては最弱者決定戦とも呼ぶ。

トーナメント表でどんどん負けていって地下にもぐっていく様が地獄を連想させる。

一方、勝ち抜いて優勝する人は、その反対に天国名人と呼ばれる。

しかし、当然地獄名人戦の方が盛り上がるのはゆうまでもない。


将棋が他のゲームと違うところは、偶然の要素が介入することが全くない、という点だ。
これは、実力がほぼ100%結果に反映されてしまう、ということ。
つまり、私がプロ棋士の羽生さんと1万回将棋を指しても、まず1勝もできない。
これが麻雀なら、1万回も打てば100回くらいは小島武夫に勝ってもおかしくない。配牌とツモさえよければ上級者にも勝てるのが麻雀だ。

しかも将棋では、最後に「負けました」と敗者が告げて決着がつく。
つまり「私はあなたに負けた。あなたの方が私より強い」と認めるという屈辱的な行為が待っている。
自分が「弱い」ということを敢えて宣言せねばならない。

将棋部で弱い人間が部活をやめていく理由の一つは、この「負け」を認める行為が精神的につらいからである。

まして地獄名人ともなれば、部内で一番将棋が弱いという不名誉なタイトルだ。負けることにまだ慣れていない1年生が、戦々恐々となるのはムリもないところであろう。

実際には、本当に一番弱い人間は合宿にさえ参加しないのだが、だとしてもこのタイトルを取ることはできれば避けたい、というのが全部員の本音だ。


当時、合宿では、毎日あったことが巧みに記事となって、壁新聞が作られていた。その中には、地獄名人戦の大胆予想が、あたかも競馬新聞のように書かれているものもあった。当然自分の名前も候補にある。

「負けられない」
一年生当時の自分は、真剣にそう思ったものである。


恐るべき地獄名人戦が始まった。
とはいえ、私の実力では初戦を突破できるわけもなく、トーナメントの下の山に進出することになる。

結果から書くと、この時地獄名人に輝いたのは1年の藤田高明くんだった。
同じ政経学部の友人で、実家は昆布茶の会社をやっている、お金持ちのせがれであった。

同じ1年の森本と私と藤田の3人は仲がよく、一緒に泊りがけで旅行をしたこともある。

われらの仲間から名誉ある地獄名人が輩出された。めでたい。
さっそく名人誕生を祝おうとしたところ、先輩から待ったがかかった。

4年生の田中秀和さんである。

田中さんは前回の地獄名人のタイトル保持者で、「私を倒さなければ真の地獄名人とは認められい」と藤田の前に立ちはだかったのだ。

前名人と新名人の間で、きゅうきょ三番勝負が行われた。
その結果、藤田名人がストレートで2敗し、前名人は「良き後継者を得た」と言って名人位を禅譲。晴れてここに藤田新地獄名人の誕生となったのである。

なお、お二人の名誉のために言うが、秀和さんは決して将棋は弱くない。
なぜかと言うと、私の記憶が確かならば、この時あまたいる強豪を倒して天国名人に輝いたのは、ほかならぬ秀和さんだったのだ。

とにかく私は、自分が地獄名人にならなかったことに安堵しながらも、森本と一緒に藤田名人の誕生を祝福し、即興で「名人の歌」を作った。それは、明治大学校歌の替え歌だった。
歌詞は
♪「おーお、めいじーん。その名ぞ、われ等がフジタ。おーお、めいじーん。その名ぞ、われ等がフジタ」

打ち上げの席で、地獄名人に賞状と賞品が贈られた。

それは「蛸島彰子の将棋入門以前」という入門書。
一ページ目に「駒箱を開けると駒の形をしたものがあります。これが駒です」という、よく分からない解説がしてあるという、謎の本であった。

なお、藤田名人はその後、わざわざ将棋連盟の売店に出向いて、蛸島扇子を購入したりしている。


蛸島彰子の将棋入門以前
※この頃は蛸島さんは美人女性棋士として人気があった。