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合間の博物館旅日記

博物館を回りながら日本各地を旅をする過程の壮絶な日記。(2005.4-9月)
旅終了後は適当に随時更新の予定。

夏季合宿とは?

2013-10-21 04:18:09 | 明大将研
1年の夏の合宿は7日間。信濃学寮で行われた。
ここは明大の施設で、1泊2日3食ついて、実に1500円という安さで利用できた。

場所はJR中央線で山梨県の小淵沢駅まで行き、さらにバスに揺られていくという山の上。

この当時は今から30年前。
パソコンや携帯電話もない時代である。
今の人にはピンと来ないかもしれないが、ワードプロセッサーさえなかったのだ!
電話はダイアル式の黒電話が各家庭に1台という時代。
テレビにもリモコンなんてついてなかった。

何が言いたいかというと、つまりそこは陸の孤島。
テレビは管理人の部屋に1台あるが我々は見れない。

当時プロ野球は人気があり、ほぼ毎日のように巨人戦を試合終了までやっていた。(ちなみに、「地上波」という言葉もなかった。テレビにはUHFとVHFの区別しかなかった)
だから7月の下旬に行われるプロ野球オールスター戦(3日間行われた)も、当然人気があった。
しかし、合宿の時期がよくオールスター戦と重なるのだ。
勿論見れない。
…どころか新聞も見れない。
いったん車などで下界に下りないと、世の中のニュースも何も入らなくなってしまうという、恐ろしい環境だった。

そんな中で、われらは毎日将棋を指していた。

勿論、盤・駒やチェスクロックは1年が分担して持っていくのである。

昼も夜も将棋。

しかしいかに将棋好きとは言え、そんな生活は3日も続くと飽きる。

なので、昼は広いグラウンドで野球をやったり(道具は寮にそろっている)、夜ともなれば麻雀(大体、ノーレートとそうでないので2卓立った)、トランプ(大富豪)、UNO、チンチロリン、飲み、などが限度なく繰り返された。

夜遅くまで、あるいは明け方までそんなことをしている連中が続出するとどうなるか?

まず、他所の団体から、深夜までうるさくて寝られないと苦情が来る。

さらに、部員が朝飯を食べに起きてこなくなる。

他の部が、食堂の決められた席に全員着席し、きちんと点呼を取って「いただきます!」と叫んでいるというのに、我々将研はというと、勝手に着席して自由に食い始め勝手に帰って行くという有様。しかもそのうちの半分ぐらいは手付かずのまま残飯になってしまう。
美味しい朝食を苦労して作ってくれた寮の人たちにしてみれば、一体何という学生だ、と腹がたつのも当たり前というものだ。

そうゆうわけで、合宿も4日目くらいになると、幹事長が菓子折りを持って事務室に謝罪に向かう、というのが毎年の恒例行事だった。
せめて朝飯だけは起きて食べろ、という通達が来たりもした。

A,B,Cと、実力に合わせて分けられた総当りのリーグ戦。
公式戦の合間に行われる練習将棋。
一人3手指して交代する3人1組のリレー将棋の大会は必ず盛り上がった。
朝から晩まで将棋だらけの日々……。

そしていよいよあの、恐怖の「地獄名人戦」がやってくることとなる。

(つづく)

1年の洗礼

2013-10-21 03:44:51 | 明大将研
入部してすぐにあったのが公式戦。
春の個人戦と、古豪新鋭戦だった。後者は5人一組の団体戦。

個人戦は初戦で1勝したが、2戦目に二歩で負けてしまった。その歩が打てていれば相手玉に詰みがあったが、それがなかったのだから反則でなくても負けていたと思う。

ちなみに4年間で個人戦には計7回出場したが、全成績は1勝7敗。つまりこの時の1勝だけで、あとは全て負けだった。
個人戦では学生強豪と言われる強い人と当たるケースもあるのだが、自分の対戦相手にそんな人はいなかった。
私の将棋の実力が如実に分かる成績といえよう。

古豪新鋭戦は、この時4チーム作れた。つまりレギュラーを除いて20人もいたわけで、いかに部員数が多かったかが分かる。


さて。

このように部内での練習将棋や公式戦を経ると、大体1年生の個々の棋力というものが、先輩にも、また自分たち1年たちにも見えてくる。
レギュラー当確のもの、当落線上のもの、それ以下のもの…。

自分は間違って個人戦で2勝しかけたこともあり、この時点では「当落線上にいるのではないか」と周囲に見られていたようだ。
しかし彼ら新1年生の実力を、決定的に見極めるようなイベントが、この後、夏にやってくるのだ。

ずばり、夏季合宿である。

新1年生は、よほどのことがない限り、全員参加、という通達がなされていた。
この7日間にわたる合宿という集団生活で、将棋の実力、ならびに人間性までも判断されるのである。

明治大学の将棋部は他大学と比較しても特殊である。
とゆうのは、部室のある和泉校舎は1・2年の時に通うキャンパスであり、3・4年は駿河台校舎に行くことになる。(理系は生田校舎というまた別のキャンパスがある)

熱心な部員はそれでも将棋を指すためだけに。神田・お茶の水から京王線の明大前駅まで通うのだが、そんな連中はまれ。
つまり、3・4年になるとほとんど部室には顔を出さず、公式戦だけに出場することになる。

だから将棋を指して強くなる機会が、3年以降では極端に減ってしまう。
明治がなかなか他大学に勝てない理由は、そんなところにも原因がありそうだ。

いずれにしても活動は1・2年が中心。幹事や会計、幹事長といった役職も、だから3・4年生はやらない。夏季合宿の最終日に次の役職が発表となるのである。

それほどこの合宿と言うのは1年生にとって恐怖の対象であった。

一体、7日間も将棋漬けになるとはどんな世界なのか?

しかも、最終日前日には、部内で最弱者を決める「地獄名人戦」というイベントがあるらしい……。

そんな噂におびえながらも、あわただしく季節は夏休みに突入していくのだった。

入部の顛末

2013-10-21 03:26:17 | 明大将研
ここで私個人の話を少し…。明大将研に入部した顛末を書こうと思う。
順序としてその方が分かりやすいだろうから…。

実は元々大学で将棋部に入る気なんて毛頭なかった。

明治に合格が決まってから、自分は映画研究会に入るという強い思いを抱いてたので…。

中学の頃から自分でシナリオを書き、音のドラマを趣味で作ったりしていた。
また、高校3年のとき、文化祭で芝居をやることになり、自分も舞台に立ったが、その時に「集団でものを作る」という心地よさに目覚め、一人ではなく仲間と共に何かを作る、というのを再びやってみたくなったのだ。

実はこの頃、初めて将棋の道場に行ってみた。
今はすでにないが、地元にあった赤羽将棋センター。
それまで子供の頃から将棋を指していたが、学校でクラブに参加することもなく、周囲にさして強いやつもいなかった。だから自分の実力と言うのが、客観的に見て強いのか弱いのか分からなかった。
で、道場で認定されたのが、4級。

がっくり来たね。
まあその後行くたびに昇級して、1級をすっ飛ばしてすぐに初段にはなれたのだけれど…。


でまあそんなわけで、大学に入っても将棋なんかは無視して映画研究会に入ったわけです。

ところがこれが馴染めなかった。
部の雰囲気に…。人に対して、と言ってもいい。

すぐに簡単な自己紹介みたいのが行われたのですが、その際に先輩の一人が、冗談のつもりだったと思うけど「部費を払ってすぐ辞めさせる」みたいなことを言って、それで一遍に嫌になってしまった。
その後何回か部室に顔を出したのだけれど、ろくに部員がいなかったりで、何をしていいか分からず…。

一方、ロビーで将棋を指している光景を目撃して、ふらふらと着席し将棋を指してみると…。

これが心地よかった。
いつ行っても誰かが将棋を指しているし、いつ来ても、帰ってもいい。

まことに自由。束縛がない。

ぬるま湯のような天国に思えて、そのまま入部。

一方映画研究会は、5千円の部費を払っただけでそのまま退会。

もしあのまま映画研究会にいたら自分の人生も相当変わっていたのではないかと思う。
しかし、とっつきにくい先輩たちにおもねって活動を続ける気には到底なれなかった。

また、趣味のドラマづくりを継続していたこともあり、映画がなくてもドラマは作れる、という想いがあったことも事実。
しかし、仮に映研にいたら、女子部員に頼み込んで女性の声の出演をお願いできたのに、とも思った。いずれにしても仮の話である。


そんなわけで、こうして明大将棋研究会の4年間が始まったわけである。