エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

悪魔たちのシンクロ

2015-12-30 14:30:39 | アイデンティティの根源

 

 
「子どものため」のウソとゴマカシ
  子どもを道具にして、生きる親は勘弁してもらいたいですね。でもね、今どきの日本、これが結構いるから困ります。 p95の1行目途中から。 &...
 

 

 神様を日々冒涜している人の、つづき。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.248の、第2パラグラフ、下から8行目途中より。

 

 

 

 

 

悪魔たちは、動物を漫画にしたものに見えますね。でもね、悪魔たちは、動物が持ち合わせている無垢な感じは、少しも持ち合わせてなどいませんよ。悪魔だって、自分がしていることはチャァンと分かってんですね。わざと、やってんです。とりあえずやってんですね。

 

 

 

 

 

 悪魔の所業の特色。

1)アンチ・キリストなので、無垢な感じが少しもない

2)アンチ・キリストをやっていることを、チャァンと分かってる

3)アンチ・キリストのことをわざとやってる

4)アンチ・キリストのことでも、とりあえずやってる

ついでに、

5)↑↓の写真の女の子のような、湧き上がるような悦びの表情がなく、↑の悪魔の絵みたいに、なんか困ったような、なんかもの悲しいような、なんかムキになった表情(の写真を)見せる。

 

すべて、国会周辺を顔出し散歩している、なか◎さんと同じです。

でも、不思議ですね。エリクソンの記述と、国会前を顔出し散歩なか◎さんの行動と写真が、シンクロしてんですからね。

 悪魔たちのシンクロ、です。

 

 女の子みたいに、湧き上がるような悦び、ヌミノースを日々味わいながら、生きたいものですね

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

感情転移の目的、セラピストの役割

2015-12-30 10:51:13 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
転移と逆転移に対する気付き
  医者を始め、ヒューマンサービスに携わる者は、不平等な上下関係を利用するものが、非常にたくさんいます。 p236の16行目途中から。 &n...
 

 まともな仕事をするのには、親に対する非常に消極的な気持ちに折り合いをつけていることが大事ですね。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p102の、第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 すべての人生の舞台で、クライアントが様々な感情転移をしてくるのは、クライアントが人生の中にある特定の危機を繰り返す時に、育ちの芽になる≪本当の自分≫を見つけ出す親に、セラピストになってもらいたいんですね。それは、「発達上のやり取り」がこれまでぶち壊しにされてきたところを、やり直すためなんですね。でもね、この臨床上の親子の出会いがダイナミックなことが、それほど明確ではないんですね。ただし、様々な年齢のクライアントとの関係でする、セラピストの対抗感情転移のよくある経験を研究すれば、そのダイナミクスがハッキリします。

 

 

 

 

 

 ここでエリクソンが教えてくれる通りのことがやれれば、セラピーは、失敗しませんね。その通り出来れば、セラピーはほぼ大成功と言ってもいいでしょう。

 心理上、魂の親になることが、セラピストの求められるのが、クライアントが感情転移を起こす時です。感情転移と言っても、精神分析を学んだことがなかったり、たとえ学んでも、臨床で体験したことがなかったり、する人には、分からないのが普通です。たいてい、いわれのない怒りや嫌悪感を向けられる場合が、感情転移を受けている場合です。嬉しくないですよね。現実には、意地悪されたり、打たれたり、悪口や陰口を言われたり、嫌な顔をされたり、するんですからね。そういう場合に、そういうことに中に、「発達上のやり取り」がなかったこと、それゆえに、怒りや嫌悪感を他者に向けやすくなっている相手への、真の意味での理解(under下に- standing立つこと)が問われてんですね。その問いに応えることが、セラピストの腕の見せ所という訳ですね。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ハッピー」な授業は、祈り

2015-12-30 03:00:34 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
「子どものため」のウソとゴマカシ
  子どもを道具にして、生きる親は勘弁してもらいたいですね。でもね、今どきの日本、これが結構いるから困ります。 p95の1行目途中から。 &...
 

 林竹二の授業を映画で何度か見たことがあります。子どもはほとんど喋りません。映画を見た時には、言葉にはできませんでしたけれども、いまだったら、言葉にできる部分を見つけることが出来るでしょう。あの本の表紙の女の子みたいに、林竹二を見上げる顔に、ヌミノースを感じますもんね。それは、真実なものに触れた時だけあるものですからね。圧倒的なのに、静かな悦びです。林竹二は、その言葉にならない、子どもたちの言葉を聴きとりながら、授業をしていたに違いありません。ですから、子どもはほとんどしゃべらないのに、イキイキとしたやり取りがあればこそ、あのような、輝く表情をしているのだと感じますもんね。

 

 

 授業中なのに、この女の子は、お祈りをしているのだと感じますね。林竹二の授業は、授業なのに、言葉の真実な意味で「礼拝」になっていると感じます。真実を前にして、この女の子も、林竹二も、頭を垂れて聴き従い、その真実にある悦びを分かち合っているからでしょう。それをバイブルでは、「礼拝」と呼び、「祈り」と言っているんです。教会堂やお御堂に通ってても、それについて実感のない人も少なくないのが残念ですね。

 今日はその話は止めましょう。

 林竹二の他にも好きな授業があります。大村はまさんの授業もそうですね。でも、今般は、金森俊朗さんを取り上げたいと思います。

 このブログでも、金森俊朗さんのことは何度か取り上げてきたんですけれども、良いものは何度取り上げても、嬉しいんですね。

 金森俊朗さんの授業は、林竹二の授業に比べたら、子どもたちのお喋りがはるかに多いんですね。手紙ノートでも、子どもがおしゃべりしないと、お話にならないでしょ。ですから、金森俊朗さんは、その子どもがしゃべる言葉に、耳を傾けます。そして、その子の問題意識や課題に応えたり、他の子どもたちが応えることを支えたりします。また、金森俊朗さんは、子どもと一緒にいろんな遊びを一緒にします。泥んこサッカー、エスケン…。陽気で楽しい時間が大事なことも、子どもたちも金森俊朗さんも肌身に実感している感じです。

 授業と言えば、教員が、大人が語る場だと、勘違いしている人が多いのじゃないですか? しかし、この金森俊朗さんは、自分が語る立場だとは、言いませんね。そこが、この人が本物だと感じるところでもあるんですね。金森俊朗さんは、「子ども集団の日常が展開されている学級の中では、知らない間に傷つけていることが多いことを、とりわけ強者の代表である教師は肝に銘じておく必要があります」、「大切なのは、…教師が一人一人の声を豊かに聴くことに徹することです」と言いますからね。むしろ、教師は聴き手になっているから、あれだけ豊かなやり取りが、授業に展開しているんだと感じますね。ですから、金森俊朗さんの授業も、「祈り(=聴く)」になっているだと思いますし、言葉の真の意味で「礼拝」になっているんだと感じます。真実を前にして、子ども等も、金森俊朗さんも、頭を垂れて聴き従い、その真実にある「ハッピー」を分かち合っているからでしょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遥か彼方

2015-12-30 01:18:50 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
「子どものため」のウソとゴマカシ
  子どもを道具にして、生きる親は勘弁してもらいたいですね。でもね、今どきの日本、これが結構いるから困ります。 p95の1行目途中から。 &...
 

 トラウマ治療に、CBT認知行動療法は効かない、と考えた方が良いですね。下山晴彦さんはお困りでしょう。

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第13章 Healing from trauma : Owing your self 「トラウマから癒されること :本当の自分を生きること」p.223の、第5パラグラフから。

 

 

 

 

 

 トラウマを負わされる、ということは、過去にはり付けにされている、と言うだけではありません。トラウマを負わされる、ということは、≪いまここ≫で満足にイキイキ生きることが出来ないという課題を抱えたも同然なんですね。ある種の暴露療法は、ヴァーチャル・リアリティーのセラピーでして、そのセラピーでは、ハイテクのゴーグルを付けて、ファルージャの戦いを、まことしやかに、繰り返し戦うことが出来ます。私が知る限り、アメリカの海兵隊は、よく戦いました。問題は、海兵隊は自宅にじっとしていることに耐えられない、ということです。オーストラリア人の退役軍人の最近の研究によれば、退役軍人らの脳が、緊急事態を警戒をすることにバッチリ結びついたものに変形している、ということなんですね。ですから、彼らは、日常生活の細々したことに気を払うこともできないのです(私どもは、このこと、すなわち、ニューロフィードバックについては、第19章で、詳しく触れます。)。ヴァーチャル・リアリティーのセラピーよりも、トラウマを負わされるクライアントは、「現実世界」のセラピーが必要です。その「現実世界」のセラピーがあれば、トラウマを負わされるクライアントも、地元のスーパーで歩き回っている時も、子どもたちと遊んでいる時も、イキイキ生きていると感じることが出来ます。それは、ちょうど、バクダッドの町で、彼らがイキイキ生きていたのと同じです。

 

 

 

 

 

 繰り返しで申し訳ありませんが、≪いまここ≫をイキイキ生きることが、どこまでも、大事なんですね。ヴァン・デ・コーク教授のご指摘どおり、ヴァーチャル・リアリティーのセラピーをやっても、効かないでしょうね。日本のトラウマ研究者がやってる心理教育と同じで、リアルな感じがないからでしょう。クライアントの心の実感からは、遥か彼方、という感じなんですね。これじゃぁ、効き目は限定的、いや、むしろ、ほとんど効果がありません。

 ヴァン・デ・コーク教授のおっしゃる「現実世界」のセラピーが何なのか、愉しみですね。

 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悪魔は、厚かましくも、顔見せがお好き

2015-12-29 08:39:52 | グルメ

 

 

 
ヒューマンサービスの担い手が堕落するのは、この時
  男と女の黄金律も、不思議で面白い。 p236ブランクの後から。      いちば...
 

 神様を日々冒涜している人の、つづき。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.248の、第2パラグラフ、14行目途中より。

 

 

 

 

 

 

 悪魔って、厚かましいことこの上なくって、誰も信頼しない時だけ、安心できんですね。やりたい放題なのに、恥知らず。膨らんだ耳、尖った眼、その歯、その嫌らしい舌を見せびらかして、楽しんでいます。ケツや角、それに、昔のサテャロスも騙す勃起した尻尾をひけらかすのが楽しみですね。

 

 

 

 

 

 悪魔の姿がどんなものか分かりますよね。顔出し、ケツ出し、一物出しを楽しんでるんですね。それは、神も仏もないからです。誰も信頼していないからなんですね。

 今日もどこかに散歩に出かけた、日々神様を冒涜する、自称「クリスチャン」。実は、誰も信頼してないんですよね。ここでエリクソンが教えてくれている通りです。今日も良いサンプルを、見せてくれました。

 かわいそうに、今「顔出し」散歩を止める口実を探してるでしょうね。毎日、散歩しては、

マタイ6:5-6 
「祈るとき、偽善者のごとくであるな。彼らは国会前
や町角に立って祈りたがるが、それは人々に見せるためである。本当にいう、彼らはその報いを得ている。6あなたが祈るときは部屋に入って戸を閉じ、隠れたところにいますあなたの父に祈れ。さらば隠れたところに見たもうあなたの父は報いたまおう。」

を読むことになって、自分がいかに、アンチ・キリストなのかを、思わされてる訳ですからね。お辛いですね

 

 でも仕方ありません。自分がキリスト者どころではない、むしろ、アンチ・キリスト、キリストス者にありまじき存在、「悪魔」になっている、ということに気付く大事な一歩なんですからね。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする