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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

内なる父母

2014-06-28 05:33:36 | エリクソンの発達臨床心理

 

 子どもは、母親から信頼を、父親から規律を学べば、独立して生きていける。福音です。

 p41の五行目から。

 

 

 

 

 

 結局、大人は、自分自身が自分の母親、自分の父親になるところまで発達した人なんですね。大人は、いわば、母なる良心と父なる良心を持つにいたるのです。母なる良心はつぶやきます。「どんな過ちをしても、どんな悪いことをしても、私はあなたを大事にするし、あなたの人生に幸あれとずっと願ってます」と。父なる良心はつぶやきます。「悪いことをすれば、その報いを受けなくちゃならない。とりわけ、あなたが自分の生き方を変えなくちゃね。そうすれば、私あなたが気に入るかもね」と。大人は、眼に見える母親からも、眼に見える父親からも自由になり、心の中に父母を抱くんです。ところが、フロイトの超自我という考え方とは対照的に、母親と父親を「取り入れて」内なる父母を作るんじゃあありません。むしろ、母なる良心を、自分が≪真の関係≫において人を大事にできる手持ちの力に合わせて作り出しますし、父なる良心は、自分自身の叡智と判断力に基づいて作るんです。さらには、大人が母なる良心と父なる良心でもって、人を大事にするは、その二つの良心が相矛盾するのにもかかわらず、なのです。父なる良心しかなければ、その人は厳しく、残忍になることでしょう。母やる良心しかなければ、その人は、分別を失ってしまって、自分も発達できなければ、他者が発達するのを邪魔することにもなってしまうでしょう。

 

 

 

 

 

 フロイトと異なり、良心は両親を取り込むのじゃない。むしろ、他を大事に思う気持ちに基づき、母なる良心を育み、叡智と分別に基づき、父なる良心を培うのですね。フロムの視点も、この部分でも非常にクリアですね。

これを実際やったのが、名前通りエリックの親になったエリック・エリクソンなんですね。

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ハンナ・アーレント   やり取りがない=悪の凡庸さ

2014-06-27 10:07:47 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
子どもの苦難、および、二律背反する遊びの、たった一つの目的…
   子どもは、目の前にいると同時に、心の中にもいる、ということは、心に銘記しておいて良い命題であり、子どもに対する大事な見方だと思います。今日は別の見方が紹...
 


 ハンナ・アーレント。昨年、その名を冠する映画が公開され、話題になったといいます。ご覧になった方も、おられるかもしれません。大学時代、政治哲学学徒であった私は、なぜだかわからないけれども、気になる政治哲学者は、シモーヌ・ヴェーユとハンナ・アーレントでした。お二人とも、女性の哲学者でしたね。その後、シモーヌ・ヴェーユの著作はじっくり味わう機会を得ることができました。しかし、ハンナ・アーレントについては、いまだその好機は訪れていませんでした。

 一昨日、フェリス女学院大の矢野久美子教授が、NHKの「視点・論点」で、「ハンナ・アーレントと『悪の凡庸さ』」について、解説を施してくださったことは、アーレントに対する思いを再び呼び覚まして、あまりあるものでした。それをハッキリ目覚めさせたのは、「悪の凡庸さ」という視点です。

 ナチスのユダヤ人ジェノサイドにおける重要人物、『エルサレムのアイヒマン』。そのアイヒマンは、悪魔のような人物ではなく、実に「官僚的だった」ということ。それは、「自分の頭で考えることを止めた」イエスマン。「命令に従っただけ」。

 「自分の頭で考えることを止める」こと。この「考えないこと」が、この世を滅ぼすような悪を生み出した。しかし、それは「考えない」ことにとどまらない点が重要だと私は感じますね。

 つまりそれは、眼の前の人との「やり取りのなさ」であり、眼の前の人を「感じない」ことから生じる、ということです。エリクソンに学び、言葉にならない言葉をしょい込まされている子どもたちと付き合う中で、私が感じてきたことは、アーレントが言う「悪の凡庸さ」は、「やりとりのなさ」と「感じない」ことからまさしく生じている、ということです。

 日本の学校の先生は、大半が“教育公務員”。お役人です。子どもの「問題行動」は指導の対象になります。しかし、それは単なるもぐらたたきに終わることが少なくない。その時その場の「問題行動」が見えなくなるだけで、別の時別の場にその「問題行動」を移し替えたに過ぎないことが非常に多い。ではなぜそうなっちゃうのか?

 それは、その「問題行動」と言われることを為した子どもとの「やり取りのなさ」のためですし、その「問題行動」と言われることを為した子どもの気持ちを「感じない」からだと、私は感じてきました。

 ですから、「悪の凡庸さ」は、何も80年前の第三帝国にのみあったのではありません。今の、この日本にもあるということです。それは、あのお役人の東電が起こした福島原発の持続的放射能汚染事件であり、こんだけたくさんの子どもたちが深刻に苦しんでいるのに、それを一顧だにせずに、「集団的自衛権」問題にご執心の、あの、小役人的安倍晋三首相の言動(もっと身近にもいますが、割愛いたします)です。

 私どもは、アーレントが主張するように、眼の前のことを自律的に考え続けるだけではなく、シモーヌ・ヴェーユが主張するように、困難な状況に踏みとどまり(ヒュポメノー)、レイチェル・カーソンが教えて下すっているように、眼の前の「自然」を感じ続けたい、と強く願う次第です。

 

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お母さんから貰う信頼+お父さんから貰う規律=子どもは良心的に独立する

2014-06-27 05:32:27 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 お父さんが≪真の関係≫の中で、子どもを大事に思う気持ちは、条件付き。子どもは、その条件を満たそう、期待に応えよう、とするから、どりょくするんですね。人間にとっても、掛け値なしで自分を大事にしてくれる関わりが、根源的ですが、その次には、条件付きで大事にしてくれる関わりも必要です。ですから、子どもにとっては、お母さんが必要であると同時に、お父さんも必要なんですね。

 p40後半。

 

 

 

 

 

 お母さんの子どもに対する態度と、お父さんの子どもに対する態度は、それそれ、その子どものニーズに対応しています。赤ちゃんは、お母さんの掛け値なしに自分を大事にしてくれる関わりが必要ですし、世話してもらうことが、身体の面でも、魂の面でも必要です。6才になれば、子どもは、お父さんが自分を大事にしてくれる関わりが必要になります。お母さんは、毎日の暮らしに安心感をプレゼントしてくれますし、お父さんは、毎日の何をして生きるのか、その道を教えてくれて、自分が出くわすいろんな問題に自分はどう当たっていったらいいのかを示してくれます。いちばんうまくいったら、お母さんが子どもを大事にする関わりがあると、その子どもが育たずにおいておこう等ともしませんし、いつまでも自分の手元においておこうとは思いません。お母さんは、人生を信頼しているはずですから、心配するはずもありませんし、子どもを不安を伝染させるはずもありません。お母さんの人生の願いは、自分の子どもが独立して、自分から巣立って行ってくれることのはずです。お父さんが子どもを大事する関わりは、規律と期待で導かれているはずですから、忍耐深く、寛容です。子どもを脅かしたり、子どもに対して偉そうな態度など執る筈もありません。お父さんが子どもを大事にする関わりさえあれば、育ちつつある子どもは、ますます「僕はできる」と感じますし、自分自身をよりどころとして生きられるようになります。その時には、お父さんに頼らずに済みます。

 

 

 

 

 信頼と規律を十分にもらった子どもは、必ず、隣人のための骨身を惜しまずに働く大人になります。それは、その子どものモデルに、その子どものお母さんとお父さんがなっているからでね。

 よき人生も、世代を超えて繋がって、伝わっていくのですね。

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遊びは芸術品

2014-06-26 10:58:27 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
目の前にいると同時に、心の中にもいる子ども
  遊びには、一級の芸術を創造する時と同様な、独創性と完成度がある、ということは驚きではないでしょうか。また、遊びには、「最も深い意味で治癒力がある」というこ...
 

 遊びは芸術品。遊びには、それだけの独創性と完成度がある。そんな素敵なことをどうして学校はやらないんでしょうか? 正確には少数ながら、遊びを重視して取り入れている教員もいるのですね。金森俊朗先生がその代表格でしょうか?

 私どもでも、どうすれば遊びを芸術品としてみなしていけるのでしょうか? それは、私どもが、子どもをどのようにみなしていくのか? ということと深く関係しています。

 眼の前にいる子どもをその創造性と完成度を生み出しうる、一個の独立した存在として認めていくことが、遊びを芸術品扱いするための一歩だ、と言うわけですね。しかし、それができたら話は早いんであって、なかなかそうはできない。

 じゃあ、どうすればいいのでしょう? それは、自分の中の子ども、つまり、本当の自分との対話ですね。そして、本当の自分と対話しながら、日常生活を、その対話を生かすために、意識して過ごす、ということですね。自分との対話、それは最深欲求に応えることなのですが、それを分かりやすく申し上げれば、アンパンマンですね。アンパンマンのメインテーマ「何のために生まれて、何をして生きるのか?」という問いに、自分の頭と生活を使って、応え続けることです。

 そして、アンパンマンの問いに応えていき、それを日常生活に生かしていると、思いがけずに、パッと道が開けたり、今まで見過ごしていたことに気づいたり、思いがけない思いが浮かんできても、それが口にしなくても実現して来たり…。不思議な想像力が、不思議な創造力と結びついているのを感じることができます。

 そんなことをしていると、遊びが芸術品、と、ふと気付く瞬間が訪れてくれます。不思議な独創性と、不思議な完成度を有しているのに気が付きます。

 

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父親の眼鏡に叶う倅

2014-06-26 05:34:18 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 お父さんの役割はヴィジョンを示すこと。でも、今の日本で誰がヴィジョンを示してくれているでしょうか? そんなことよりも、日々の金儲けに明け暮れているのが、今の日本の偽らざる姿でしょう。だから、子どもが育たない時代になってしまってるんですね。

 p39下から3行目から。

 

 

 

 

 このお父さんの役割に深く関わるのが、社会経済的な発達です。個人の持ち物が生じて、個人の持ち物が息子たちの一人に受け継がれるようになると、お父さんは自分の財産を引き継がせる息子は誰にしようかと探すようになります。当然、それは、お父さんが相続者として一番相応しいと思う倅でしたし、一番お父さん似の倅ですから、結果的には、お父さんの一番のお気に入りの倅、ということになります。父親が≪真の関係≫の中で子どもを大事にする気持ちは、条件付きなんです。父親が≪真の関係≫の中で子どもをーー大事にする気持ちの原理は、「私がお前を大事にするのは、私の眼鏡に叶うからだよ。お前は自分がしなくちゃいけないことをちゃんとするし、お前は私に似てるからね。」ということです。 父親が条件付きで子どもを大事にするとき、母親の掛け値なしで子どもを大事にする気持ちと同様に、そこには肯定的側面と否定的側面の両方があることが分かります。その否定的側面は、父親が子どもを大事にする気持ちは、それに相応しくなくちゃあなりませんから、期待に応えられなければ、大事にされなくなります。父親が子どもを大事に思う気持ちの本質からして、服従することが中心の価値になりますし、不服従が一番の罪になります。その罰は、父親から大事にされない、ということです。その肯定的な側面は、同様に重要です。父親が子どもを大事に思う気持ちが条件付きだからこそ、私は父親から大事にされたいがために、なにがしかのことをするのですし、また、父親から大事にされるために働くのです。父親が子どもを大事に思う気持ちも、母親が子どもを大事に思う気持ちと同様に、自分がコントロールできるものなんですね。

 

 

 

 

 

 お父さんが子どもを大事にするきもちは、それを得るために子どもががんばるようになるわけですね。期待に応えよう、めがねに叶うものになろう、という努力の源でもあるわけですね。

 

 

 

 

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