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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「きちんとやる」を「きちんと理解」しよう

2013-04-15 06:02:31 | エリクソンの発達臨床心理
 前回は、「信ずべき本物(authenticity)」について、考えました。
 今日からは、小学生になります。Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeから、学童期の部分の第1段落です。それでは、タイトルを含めて、翻訳します。





 学童期ときちんとやること
 きちんとしたやり方とその余裕



 小学生になると、「きちんとやる」という儀式化のもう一つの要素が付け加わります。もしもこの「きちんとやる」儀式化の要素がなかったら、いままで述べてきた儀式化の要素は、それぞれの要素を、十分な活動からなる綿密な手続きと、熟練や円熟レベルの総合的な品質にまで、まとめていく統合原理をなくしてしまうでしょう。素材になる物や事実を見れば、新しくて長持ちするきちんとしたものにするために、何ができるかが分かる という心理的情緒的な熱意が、小学生になる頃にようやく成熟します。むしろ、その熱意が知的にも成長する準備ができるからこそ、子どもたちは学校にやられるのです。そこではいきなり、遊びが仕事へと一変し、ゲームが試合と共同作業に、気ままに空想していたのが、技術に目いっぱいの注意を払ってしなくてはならない義務へと、一変します。その技術のおかげで、空想していたことが人に伝えられるもの、説明できるもの、決まった仕事に応用可能なものになります。儀式化が学校と言う場で本当に協調して働くようになるのは、すなわち、生徒と教員とクラスの仲間の間でやり取りがある時なのです。その文化世界の言語性と身体性に従って作られた、以前述べた一連の課題の中で教えられるのは、経済体制や技術体制に参加する上で不可欠な基礎技術です。その基礎技術が、捕食のものでも、農業のものでも、商業のものでも、産業のものでも、文学のものでも、科学のものでも、変わりません。この基礎技術がそれぞれ示しているのは、一つ一つはこまごまとした「きちんとやる儀式化」です。一つ一つはこまごました「きちんとやる儀式化」は(これこそ、狩猟漁労生活をする部族の、子どもの時期の生活様式に対して、最初に行った洞察を報告した際の要点です)、人生を卒なく営む生き方との繋がりを、理想を持った生き方との繋がりに加えて、保たなくてはなりません。






 以上が、学童期の部分の第1段落の翻訳です。
 学童期、小学生の時期の儀式化が「きちんとやる儀式化」であることが示されました。ひとりひどりの人が、社会の中で、社会が求める技術を使いつつ、生活費を稼いでいけるようになるために、とても大事な儀式化だと言えるでしょう。
 今日はここまで。
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一番大事にされた経験~「秋葉原事件」と赤塚不二夫

2013-04-14 03:40:45 | エリクソンの発達臨床心理
 前回は、日本人の体制順応主義(conformism コンフォーミズム)が、遊ぶ時期である幼児後期の病理であることに触れました。自分の考えを率直に話し、自分の考えに基づいて行動する、という、民主主義社会では至極当然の思考行動様式が、日本では「悪い子という感じ」に結びつき、色眼鏡で見られがちであることが、はっきりしましたね。
 今回は、Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeから、幼児後期の部分の第10段落です。幼児後期の最後の段落です。それでは翻訳します。





 ところが、筋立てを作る儀式化の要素は、人間のまさに芝居をする能力によって、人間の生活の中に登場するのですが、独特でどこにでもある形の儀式主義、すなわち、「他人のなりすまし」も人間の中に確立します。「他人のなりすまし」とは、現実と歴史の舞台で、生気のない生真面目さをもって、自分自身にとっても他の人々にとっても非常に危険な問題で、役割を演じます。この“ある「立場」のなりすまし”によって、それだけ才能もあるし人を楽しませる意味で、意識して芝居をする人のことを言うのではありません。それならば、舞台の中央で、あるいは、端で、時には場末で、名もなく、人間が自分自身を経験する上で必要なことは明らかです。赤ちゃんの頃、私どもが見てきたとおり、芽生えてきた<私>が、他者から集中的に世話をされる中で、このように一番大事にされることを経験します。この<私>が、子どもの頃の遊びの中で新しくされて、青年期のアイデンティティを我が物にしようとする闘いの中で他者と共有され、晩年になってからは自分自身のあらゆる立場によって肯定されます。自我理想は、他罰的な超自我とは異なり、自ら選択した自主性を良しと認めますし、理想的な簒奪やユートピアを体現するように思われる人々で、しかも、その代りに、他者の自主性も良しと認める力のある人々を(両親から政治家まで)理想化します。ところが、「自分は偉い」と思うことは、いわゆる「偉い人」を崇拝することと合わせて、どこまでも人のものを奪い取ることに道を開きます。これによって説明されるのは、人が信ずべき本物を追い求めて自分の不足を埋め合わせようとする努力は、自分の自発性と他者からの恵み、他者との競争と自己犠牲を真に統合することを必ず意味する、ということです。しかしながら、「『信ずべき本物』なんかないんだよ」と言われ続けると、子どもたちは(青年たちも)恥知らずの悪役を強迫的に引き受けざるを得ないのです。恥知らずの悪役の方が、名前のない役どころやひどくお定まりな役回りを引き受けるよりもましなのです。





 これで、幼児後期の部分の翻訳は終了です。いかがでしたでしょうか?
 ここで大事なことは「信ずべき本物(authenticity)」です。今日はそのことを考えてみたいと思います。
 赤ちゃんの時に芽生えた<私>が、幼児後期以降に演じる役割が、「信ずべき本物」ではなく、ありきたりのものである時、エリクソンが言う「恥知らずの悪役」を演じざるを得なくなる。これは衝撃的なことではないですか?すぐに思い出すのが、「秋葉原事件」や「酒鬼薔薇事件」でしょう。この事件は、当時様々な議論を巻き起こしました。しかし、人間関係が希薄になった日本の社会への警告と受け取った人はいましたが、今日エリクソンが教えてくれたように、「年中か年長の子どものころから、「『信ずべき本物』なんかないんだよ」と言われ続けているからですよ」と教えてくれた人を、私は知りません。
 この点で参考になるのは、唐突に思われるかもしれませんが、赤塚不二夫さんです。単なる「アル中」(差別用語だったら訂正します)と考える人もきっとおられると思います。なぜ参考になるのでしょうか? それは、赤塚不二夫さんが「本物の漫画家」になりたくて、手塚治虫さんのところに教えを乞いに行った時の話です。そのとき、手塚治虫さんは赤塚不二夫さんに対して「一流の映画を観て、一流の音楽を聴いて、一流の舞台を見なさい」と教えてくれたということです。それで赤塚さんはレコード屋さんに行って、「一流の音楽ってどういうものですか?」と訊いたら、「それなら、クラシックでしょう」ということになって、モーツアルトか何かを勧められたそうです。その後、赤塚不二夫さんはその教えを忠実に守ったのでした。
 この手塚治虫さんの教え「一流の映画を観て、一流の音楽を聴いて、一流の舞台を見なさい」。これこそ、「信ずべき本物」でしょう。小さいころからそういうものに触れる、それが大事です。
 しかしそれだけではありません。子どもにとって、もう一つ大事な「信ずべき本物」とは、温もりのある人間関係でしょう。その最初が、今日のところにも出てきた、「他者から集中的に世話をされる」関係でしょう。幼児前期以降は、他のことよりも子どもの気持ちに寄り添うことを大事にしてくれる、寛容な保育士や教員との関係がそれに続きます。これが何よりも子ともにとって「信ずべき本物」になることでしょう。
 その「信ずべき本物」の関係にある親、保育士、教員などと、「一流のもの」を「共に見る」こと、それが何よりも大事なことを、今日エリクソンは教えてくれている、と私は考えます。
 本日ここまで。
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自分の頭で考えることを諦め、進んで行動するのを止めてしまう病理 日本の病理:幼児~社会人

2013-04-13 06:26:51 | エリクソンの発達臨床心理
 前回は、エディプスコンプレックスが登場しました。
 今日のところは、Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeから、幼児後期の部分の第8段落と第9段落です。それでは翻訳です。






 遊ぶ時期を特色付ける精神病理、遊ぶ時期から生じる神経症はどのようなものでしょうか? 自分の頭で考えることを抑圧し、自ら進んで行動を起こすのは止めておこうとするのは、まさに、「僕(私)は悪い子という感じ」が強すぎるからなのです。この病が、ハムレットの中に示されているのは、偶然ではありません。ハムレットは、言葉のあらゆる意味で“役者”の悲劇です。ハムレットは父親が殺され、父親の王位と母を奪われたことに対して復讐したいという気持ちを抑えて(エディプス期の未解決な葛藤によって抑えて)、“劇中劇、の中で狂った振りをして恥を晒していますが、劇中劇の中で劇中劇によって、自分の破滅の青写真を示しています。しかし、この破滅は、いっそう悪いことからの救いにもなっていると思われます。つまり、“腐った”冨と権力のただ中でいつも退屈している、あの退屈さからの救いであり、また、「男からも女からも」快楽を得る、あの不快感と、そうできない、あの無力感からの救いです。この喜びを得ても不快で、実際は喜びを得られないことが、筋立てを作る要素を抑え込み、悲劇を否定することを特色付けるものなのです。
 大人になって、筋立てを作る要素を厳かに表現する特別な仕掛けは“舞台”です。特にこの舞台において、人間の葛藤が投影されるのは、枠が決められている時空の中です。この枠付けされた時空とは、時を超えて普遍的な感情のカタルシスを役者と観客とが体験できるくらいの、代表的な形式と最高に濃縮されたリアリティがあるものなのです。本物の演劇とは、上手に上演されれば、私どもを骨の髄まで揺さぶることができます。私どもは、演劇が「単なるお芝居」であるとは分かっていても、時空が劇的に濃縮されているので、耐えられないくらい個人的なのに、不思議なくらい共有されている、何か強烈なリアリティを経験することになります。






 これで幼児後期の部分の第8段落と第9段落の翻訳は完了です。
 この部分も、日本の現状を考える時、示唆に富んでいると考えます。つまり、日本人は一般的に言って、「長いものには巻かれろ」「泣く子と地頭には勝てない」と言われるように、体制順応主義(conformism コンフォーミズム)が支配的です。換言すれば、「世間が神様」ですが、「バレなければいい」という感じです。自分の考えを殺して、自分の利益に役立つ限り、組織や体制に従順であるかのように装いつつ、「外では悪さをする」こともある姿勢、と言い換えてもいいでしょう。そういう心的態度が日本人には一般的ではないでしょうか?
 そのようにして、退屈だけれども、安定した生活を手に入れている場合が多いと言えます。しかし、社会情勢が厳しくなった昨今、自分の考えを押し殺し、目立った自主的行動などしていないのに、生活の安定も社会的な地位(「冨と権力」)もなかなか得られないケースも増えています。
 今日エリクソンが教えていることのひとつは、自分の考えを抑え込んで、自分の考えに従って行動できないのは、「自分は悪い子という感じ」が強すぎることから生じている、ということでしょう。実際どうでしょうか? 自分の考えを押し殺した生き方は、自分の考えを出すことは「悪い」、「目立ってはいけない」という感じに基づいていないでしょうか? そんなことをしても、「世間から非難されるだけだ」、「そんなことをしたら、結局は損だ」などなど…。しかし、それでは、「喜びが得られない」し、儀式化に従って、自分も近くの人も育つことができない生き方なのです。
 今日はここまで。
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「悪い子という感じ」とエディプス・コンプレックス

2013-04-12 02:49:57 | エリクソンの発達臨床心理
 前回は、子どもが自我理想の中で、理想の役割と悪者の役割のバランスを取っていることを、エリクソンは教えてくれました。
 今日は、Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeから、幼児後期の部分の第6段落と第7段落です。それでは翻訳です。






 しかし、漸成発達説に注意を向ければ、筋立てを作る要素が、ヌミノースの要素と分別の要素に入れ替わらないこの漸成発達の中では、筋立てを作る要素は、ヌミノースの要素と分別の要素に合流します。それは、ちょうど、筋立てを作る要素が、生育歴を逆にさかのぼられる要素、すなわち、行為と献身という、学童期と青年期の儀式化の要素にさえ頼らなければらならいの同じです。いかなる儀式、儀礼、公式行事も、筋立てを作る要素なしには、成り立ちません。
 運命を決する「悪い子という感じ」のテーマは、すべての儀式的行事において、支配的なもう一つのテーマになります。他方、その「悪い子という感じ」のテーマが、大きな悲劇の中で本領を発揮します。おもちゃの舞台の上での遊びと、演劇や公式行事の中で上演される劇には、共通するテーマがあります。実際にそのテーマに引き付けられて、フロイトは、遊びの時期の子どもが心の中に「悪い子という感じ」を星座のように配置する有力な傾向に対して、悲劇の主人公、エディプスと名付けています。なぜなら、遊びの時期の子どもの空想生活を支配するあらゆる構想に中で、同性の親に似るのではなくて、同性の親に、実際なり替わろうという考えは押しなべて、考えうる他の役割を犠牲にするものとして、タブーに必ずなるからです。





 これで、幼児後期の部分の第6段落と第7段落の翻訳は完了です。
 いわゆるエディプス・コンプレックスが出てきました。年中さんか年長さんの頃の子どもは、僕は「悪い子なんだという感じ」が星座のような配置を心の中に知らず知らずのうちに作って、いっぱいになるのに、それが同性の親になり替わる、タブーの空想と結びついて、苦しくてたまりません。それがエディプス・コンプレックスです。
 本日はここまで。
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理想の役割と悪者の役割のバランス

2013-04-11 02:09:24 | エリクソンの発達臨床心理
 前回は、儀式化の筋立ての要素がどのように遊びに中に表現されるようになるのかをエリクソンは教えてくれました。それは、自分は「悪い子という感じ」が遊びに中に出てくることから始まるのでしたね。
  今日は、Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeから、幼児後期の部分の第5段落です。それでは翻訳します。






 子どもの頃の遊びは、自分に対するイメージと他者に対するイメージを調べる時に、精神分析が「自我理想」と呼ぶものを、最も明確に表します。「自我理想」とは、私どもが尊敬できる自分自身の一部分です。自我理想とは、少なくとも、理想的な筋立ての中で、私どもが理想的な演者として自分自身を想像できる範囲の中では、尊敬できる自分自身なのですが、それと同時に、理想的な役割をうまく演じられない人に対しては、適切に罰して、村八分にすることも伴います。このように、私どもは、理想的な役割と悪者の役割のヒエラルヒーを実験し、空想する場面でそのヒエラルヒーに対する心構えを整えます。もちろん、その理想の役割と悪者の役割のヒエラルヒーは、日常生活で私どもが実際に携わる範囲を超えています。それで、子どもが想像することは、儀式化された空想世界とのやり取りがいつもあります。その空想世界は、絵本や民話、神話やたとえ話の中に示され、子どものイメージの中で、最高なものと最低のもののバランスを取ってくれます。





 これで、幼児後期の第5段落の翻訳を終了します。
 今日はここまで。
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