エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

群れた自己愛とアイデンティティの間:村八分・見せびらかしvs親しみ・生み出す力

2013-04-24 04:58:08 | エリクソンの発達臨床心理

 前回は、儀式化された戦争についてでした。短いながらも、示唆に富んだところだったと思います。
 さて、今回はToys and Reasons 「おもちゃと覚めた精神」のRitualization in Everyday Lifeの、青年期の部分の第6段落、最後の段落です。それでは翻訳です。





 青年期に用意した儀式主義の要素を、私は全体主義と呼んできました。つまり、全体主義とは、融通の利かない考え方の中で、何の疑いもなく理想と思い込んだものに、熱狂的に、排他的に、夢中になることです。この全体主義が釣り合う自己愛は、若者特有のものであり、似非宗教が偶像を作り出す傾向にも特有なのです。そして、もしこれが偶像崇拝に部分的に後退しているように思われるのでしたら、それは、まさに人の心の筋道に適うことです。さらには、この自分を確かにされる(アイデンティティの)発達段階は、「たとえ違いがあっても、親しみを感じて仲良く交わる」の発達段階、すなわち、仕事、友情、愛という親しみのある関係の中でやり取りを維持する段階と融合します。自分を確かにされる(アイデンティティの)発達段階は、礼拝のリストに親しみの要素を付け加えます。この儀式主義的な側面が、排他的集団のエリートという顔を持った、一種の群れた自己愛なのです。明々白々なことに違いありませんが、共通の好みや見通しを誇示する態度、愛やら仕事やら友情やら似非宗教やらに囚われた若い大人たちの会話や行動に実に多く見られる、熱狂的な意見や人を断罪する判断を誇示する態度が、あの動物界の本能的な絆の人間的あり方ということになります。この動物界の本能的な絆とは、挨拶の儀式の中にその存在が認められます。たとえば、その挨拶の儀式によって、鳥たちは、私たちはお似合いの夫婦ですよ、私たちの子どもを授かりましょう、と示します。人間の一生において人間が示すことは、自分が確かにされる個々の働き(個々のアイデンティティ)は、それによって、二人の人が、コンビにもなり、コンビでなくなりもするのにふさわしい(あるいは、その自分が確かにされる個々の働きは互いに補い合う)、ということです。そして、自分が確かにされる個々の働き(個々のアイデンティティ)によって、絆を感じた二人は、物事を豊かに生み出し、子どもを授かる人生を約束されるのです。






 これで青年期の部分すべての翻訳は完了です。
 いかがでしたでしょうか?青年期の礼拝儀式主義が対照的に記されていますね。青年期の儀式主義は全体主義とエリクソンは呼びます。これは、ナチスをよく知っている(そのために、アメリカに亡命した)エリクソンが、その熱狂と村八分と破滅を目撃した者として名付けたものと考えられます。青年期の全体主義も、ナチスや軍国主義日本と同様、熱狂と村八分(ホロコーストと「非国民」)にうつつを抜かす動物的な本能の働きにしかすぎません。それに対して、人間が行う、人間らしい青年期の礼拝は、礼拝の一覧表に“親しみ”という、人と人を結びつける要素を付け加えて、物事を豊かに生み出す力を、親しみのある二人(あるいは、その二人を核とした人々)に約束してくれる、温もりと確かさのある見通しをもたらしてくれるのです。
 本日ここまで。
 次回はいよいよ、最終章、成人期に入ります。

コメント
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