#聖書の言葉 #1人豊か #道具になる #道具にされないしない赤ちゃんの頃の対人関係こそが、全て 命がけの事業 人を大事にすること = やりとりすること 改訂版 人を大事にすることの意味を学び続けることが、とって......
マハトマ・まど・みちおさんの言葉から
生きているのに死んでいる皆様へ
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#聖書の言葉 #1人豊か #道具になる #道具にされないしない赤ちゃんの頃の対人関係こそが、全て 命がけの事業 人を大事にすること = やりとりすること 改訂版 人を大事にすることの意味を学び続けることが、とって......
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#新しい視点 #バラバラ な #トラウマ体験 #物差しの基準は患者さんそのもの #医者ではない赤ちゃんの頃の対人関係こそが、全て 命がけの事業 人を大事にすること = やりとりすること 改訂版 人を大事にすることの意味を学び続けることが、とって......
ヴァン・デ・コーク教授の The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』
第19章。「応用神経科学:恐怖に急き立てられた心を脳にもう一回繋ぎ直す/コンピュータ関係工学」から。p.323,第2パラグラフから。その前もご一緒に。
脳波は,ゆっかりから速く,が基本
脳波計が描く線は,脳のそれぞれの場所の活動を一覧表にします。様々なリズムがあり,ゆっくりから速いまで様々です。脳波計は,様々な高さ(振幅)と波長(周波数)を図ることからできています。周波数は,1秒間に何回,波が上下するかを示します。ヘルツ(Hz),あるいは,1秒間の周期(cps)で表します。脳波計の振幅は, トラウマを理解し,治療するのに役立ちますし,基本はかなり分かりやすいです。
デルタ波は,一番の低周波(2-5ヘルツ)ですが,寝ている間に一番見られます。その脳は,アイドリング状態にありますし,心は内側を向いています。もしも,起きている時に低周波の活動が活発ですと,その人の思考はボンヤリとしてしまいますし,判断もくるってきますし,衝動をコントロールすることもできません。ADHDの80%の子どもとPTSDと診断された人は,前頭前野の低周波が多すぎます。
夢は脳波を速めます。シータ周波数(5-8HZ)は,眠りに落ちる時に強く出ます。それは,漂った「催眠」状態が,15章で,EMDRについて述べた時にありましたが,催眠のトランス状態の性質でもあります。シータ波は,論理や日常的な生活の要請によって縛られない心の枠組みを作り出しますから,新しい繋がりや連想を作る可能性が出てきます。最も見込みのある脳波のニューロフィードバックを用いた,PRSDの治療法は,アルファ波とシータ波の訓練ですが,その訓練のおかげで,凍り付いた連想を溶かして,新しい学びができるようになります。欠点は,シータ波が出るのは,「ボーっとしている」時か,うつの時だ,という点です。
アルファ波(8-12ヘルツ)は平和で落ち着いた気持ちがあると,あります。アルファ波は,マインドフルネスの瞑想を身に着けたものには,お馴染みです(「ニューロフィードバックは効果があります」といった患者さんが,「強烈な瞑想みたいです」)。私がアルファ波のトレーニングをする患者さんは,生きている実感がない人か,リラックスしたい,ということです。
アルファ波は,落ち着きたい人向けです。
Toys and Reasons 『おもちゃ と 賢慮』 第三部。p.125の,17行目途中から。その前もご一緒に。
壁に掛かった様々な夢
私は拙著を,子どもの積み木遊びから始めて,遊びの理論を振り返り,私の最初の本でお示ししたことを改めるつもりがない,というところまで来ましたね。つまり,最初の本でお示ししたこととは,おもちゃの舞台で「陽気に楽しむ」ことは,枠付けされた「小宇宙」に,諍い合う様々な人を投影しがちな人の心をハッキリと映し出す唯一のひな型だ,ということです。諍い合う様々な人を投影することは,人生の一瞬を物語にするものです。子どもの遊びの中に,あの聖書の神様が創造するというヴィジョンがあることは,見れば分かります。あの聖書の神様が創造するというヴィジョンは,枠付けされた(訳注:自由で賢慮が働く)聖域も1つ,後で使うことになります。そこは「対等な関係の場」(対等な関係が外側に広まるのは,ますます陽気で楽しく,ますます晴れ晴れと,互いに分かり合うために,2人が一心同体になる聖書の神様の場が,広まることです)ですし,1つの舞台,あるいは,自分自身になる目的に向かう道で,自分が主人公であることを取り戻すための青写真です。自分自身になるのは,聖書の神様が一巡する命が展開する関係の中で,上手に自分ならではを育てることによって,実現するものです。しかし,私がまたここでキッパリと指摘しなくてはならない,人を落ち込ませる類の,恐れ,思い煩い,ガタガタいう震えは,些細なものでも,バカでっかいものでも,生きている実感を押し殺す時,心から自由になる希望が死ぬのが,目に見える敵,目に見えざる敵によって課せられた,悲しき自分の定めだと人は誤解してしまいます。しかし,私が申し上げてきたことは,敵を作らない場合でも,人は,自分がなる予定の新しい人になる自由がほしくて,勝手気ままをする余地を作る壁を作り出すために,敵をでっちあげるものだ,ということですね。
自分が生きている実感を創造し育てる視点は,毎日刻々と礼拝することで,完成します。それは,この本の第2部でお披露目したとおりです。刻々と続く毎日礼拝は,最もささやかな私的なやり取りから,文化的行事で一体になることまで,さまざまです。すべては,「これが,私どもの見方ですし,話し方ですし,立ち居振る舞いです。それは《人間らしい心から優しいやり方》です」,となりますから。ヴィジョンの基盤となるのは 聖書の神様の命が一巡する場ですし,その聖書の神様の命が一巡する場は,細かいところまで真実なのに,同時に,とても良い創造の全体像とも,聖書の神様の御心にもビッタリと一致していますから,バラバラになった人間を,互いに大切にする関わりを始める中で1つの人類にします。
このような聖書の神様の命が一巡するヴィジョンが至る所にあることをお示ししょう。まずは,私にとって1番身近な事,すなわち,芸術と精神分析から,始めることにしましょう。聖書の神様の命が一巡するヴィジョンが至る所にあることが分かれば,ヴィジョンという見通しを色々試してみる事を一緒に始めることが出来ます。最近,ヘルムート・ウォールがサンフランシスコの「視点」に論文を載せましたね。この論文の中で,ウォルフは,ルネッサンスの絵画の本質的な視点と,ルネッサンスの絵画の視点が広めたキリストの信頼を結び付けましたし,見透しもキリストの信頼も,人が希望を持ちたいと願う最深欲求とも,結び付けました。
「五感を総動員した感性豊かなヴィジョンは,聖書の神様の様々な御心は、『うまくできてるね』,という視点で,お祈りにする雛形になります。そのヴィジョンは,聖書の神様を信頼する根源的信頼を繰り返し肯定してくれます。おそらく,聖書の神様の御心は,『うまくできてるね』,と見ることは,視点が繰り返しプレゼント出来る,『人と人をくっ付けて,力を合わせるようになりたい』と求める最深欲求に繋がる判断の物差しです。結局,感性豊かなヴィジョンは,聖書の神様が創造する全体像が,たった1つの聖書の神様のご計画であるし,たった1つの,意味や価値を判断する物差しになります。聖書の神様が創造する全体像は,『うまくできてるね』という物の見方のおかげで,『なるほど本当だね』という実感が湧いて来ますから。」
デ・ヤング美術館で,16世紀初期のフランドルの画家の手になるヴァン・ボーグの「受胎告知」を見ました。この絵は、描いた画家の名も分からないし,ウソとゴマカシのない一体感がある中で,人間が陽気で楽しく生きるヴィジョンが持つ,たくさんある根源的な要素を,いまここで,1つに纏めているのが分かりました。陽気に楽しく生きるヴィジョンは,眼で見たことから生まれ,最も不動な生き方を根源的に支える聖書の神様の心からの優しさを片時も忘れずに思い出すこと,まで,至ります。その「永遠の見通し」とは,天使ガブリエルから誕生を告げられた子が,子どもの頃が約束する,あの聖書の神様がまします場を,人間にいつも必ず分け与えて救い出す,「御子キリスト」になる,と見通すことなんです。それから,聖母マリアは,選ばれし母,になります。天使が今ここにいて,見守ってくれていることに気付いて,聖母マリアは,開いていた聖書を下に置きますが,学んでいた聖書のページ(聖書のページは,枠付けされた視野になりますね)は,「輝いている」のが分かりますでしょ。この受胎告知の絵が示しているのは,光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間という,聖書のテーマでしょう。光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間とは,モーセでしょ。古い約束をの知らせた預言者であったモーセが光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間であったのは,新しい約束を知らせる預言者になられた御子キリストが光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間であったことと同じなんでしょうか? しかし,聖母マリアが陰になったのは,聖書の神様からの命令を携えたスピリットを眼の当たりにしているからですが,そのスピリットが伝えた言葉は,「お腹の子は,『聖書の神様の独り子キリスト』です。『新しい人』の守り手ですからね」ということです。それに,聖書の神様がまします場では,「聖なるスピリット(聖霊)」,すなわち,促し手は,キラキラと輝いている,その温もりが身に沁みてありがたい,一筋の光に乗って,下に置かれているように見えます。
この受胎告知の舞台は,その前景の中では,光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間といった聖書のテーマなどすべてが展開しますが,背景の中では,2つの場に開かれた2つのドアの枠がありますね。1つは,聖母マリアの背後にあって,マリヤのベッドが見えます。もう1つは,さらに2つの枠組みに私どもの目を誘います。聖書の神様がまします場に開かれた窓(魂の片目)と,もう1つは,下に置かれた三位一体の聖書の神様を示す祭壇画と,その聖書の神様の命が一巡することを物語る羊皮紙の聖書に開かれた窓(魂のもう一つの片目)です。その祭壇画があまりにも輝いているので,もう1つの窓(1つの「魂の目」)があるみたいです。この祭壇画も,また,光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間を示していますから,思い出すのは,東に顔を向けることは,夜の闇も必ず夜明けには明ける世の中で,「昇る光に魅せられ仰ぎ見るようにされている」という意味だ,ということでしたね。
子どもたちが遊んでいることを読み解くことは,その子どもの遊びに心から響くヴィジョンを読み解くことに加えて,人間の意識が,端っこに追いやられるのではなしに,人間が発達するのに一番大事なことであることこそが,唯一の人の務めであることを示しているのならば,聖母マリアの子宮こそ,宇宙のど真ん中にあるものだ,とハッキリと認めなくてはなりませんね。子どもを身ごもった女性と生まれたばかりの全ての子どもが,宇宙のど真ん中にいるみたいに。新しい眼が,成長する場に注がれ,新しい顔が大切にされ,新しい名が,新しく生まれた「私が生きている実感」と,「人間の条件」によって裏切られることは1つもない(のに,それを,ダァレも知りません),唯一の恵みが漲っている新しい人の目印になります。
このデ・ヤング美術館の受胎告知の絵が,聖書の神様が約束された唯一の創造の初めを示している,心響かせる人間に成長するという見方を共にするために,あるいは,「聖書の神様の創造にピッタリと」遊びを解き明かす時に,私どもが大切に考えるあらゆる判断基準をハッキリと認めるためには,壁や教会や美術館にかかった「新しいスピリットであるキリストがあなたの中に生まれます,というメッセージが聖書に神様から来ること」の1枚の絵を囲っている同様の絵も,仲間に入れなくてはなりませんね。「人の子」となる子どもが,祝福を示す身振りの中で,もろ手を掲げている絵もありますね。キリストが最後の叫びを叫び,十字架に爪を立て,ゾッとするほど恐ろしいゴルゴタの夜を描いた絵もあります。「神の子」が天国で救われ選ばれしもの達を,心からの優しさで迎え入れている絵を示す人もいれば,同じ「神の子」が,地獄行きを言われた者達を,力強く見捨てる絵の方を示す者もいますからね。いばらの花冠を被った者たちのひとりを描いた者もいます。そのいばらの花冠を被された人は,歴史を通して大工の倅が十字架に縛り付けられた,と言われました。しかも,そこには,日常生活を礼拝にする輝きがありましたね。別の絵の中では,私どもの目の前に,1つの諍いの場が広がっているのが見えますでしょ。その諍いの場は,ラテン語で「この徴の中で」浄化されますが,そこには,傷つき,死んでいく苦悩の中で,倒れた異教徒たちが積み上げられているのですが。
このように,キリストのおられる様々な場の全体像だけが,あの聖書の神様が心からの優しさから創造された創造を,預言された未来と結びつけながら,「ずっと変わらない見通し」をギフトとしてプレゼントしてくれます。その「ずっと変わらない見通し」のおかげで,生死と人生の謎とに,漲る意味を与えられます。生きている温もりに満ちた歓びが漲る意味を教えられて不動にされると,人が心響く新しい人に成長すると見る視点があれば,ずっと心が新鮮にされる毎日に2人がいつも共に至る一心同体になれるだけではなく,2人が一心同体になる様々な術,日々の様々な礼拝,様々な優先順位,様々な諍いの場ができて,≪生きている実感≫が,他の死すべき人の≪生きている実感≫とが,唯一の聖書の神様の独り子のキリストの光≪生きている実感≫がど真ん中を橋渡ししてくださいますから,一心同体になると信頼する見方のもとになります。唯一の神様が≪生きている≫ということが,「なるほどホントだね」と確かめられる唯一の存在なんですから。キリストのおかげで,2人が一心同体になれるからこそ,生まれてすぐにお母さんと一心同体になれずに来た悲しき運命,生きているのに自分が死んでいることから,救われたと感じるのでしょうか? キリストのおかげで,2人が一心同体になれるからこそ, 選ばれし少数だけが救われて,ほかの大多数全ては選びから漏れて,自分が滅んでいる,「最後の審判」の判断に,正面から向き合えます。最後の審判で,われわれ人間というものは,自分の良さと永遠の命を,生活の中で,お零れ頂戴で得ようとするものです。また,見落としてならないのは,一番見事なヴィジョンは,不動にされた復活人生(聖書を学びながら生きる者の集会みたいに)に根差すだろうという事実です。不動にされた復活人生は,復活に必要な様々な欲求を生活の中で礼拝にして,人間は,独りぼっちで,必ず死ぬことを大切にして暮らすようになるものです。と言いますのも,自分の身体は必ず死ぬ,ということを心から受け入れるかどうかにかかわらず,私どもの魂は,いつも独りぼっちでいることと,いつも相手にされずにホッタラカシになることを,ことのほか恐れているんです(自分を亡くすことを恐れることに対して,一つの優れた標語を見つけましたよ。それは,この「受胎告知」の絵が描かれた時代に首をはなられた者の墓標の文字です。「私はもう若くない,しかし,私はまだ若い。私は世の中を見た。しかし,私は省みられることもなし」)。
人は省みられて,初めて≪私≫=生きている実感,を発見します。省みられることがなければ,≪私≫=生きている実感,は死んだままです。
#神様の命の回転の展開図 と #一方通行の道 #死んだらお終い? #いつでも陽気で楽しい?インターメッツォ: エリクソンの叡智 : エリクソンが教えてくれる、特定の経験がトラウマになる訳 加藤周一さんの「メタノイア」 今晩こそは この世のあの......
発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com 但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年間70~80ケースの発達トラウマ障害(DTD)セラピーをしてきて,かなりのケースが善くなっていますよ。あなたも是非位一度連絡してください。料金は,母子家庭などは,割り引きます。
先日のToys and reasons p.37の,ブランクの後の第4パラグラフの翻訳で,最深欲求の話が出てきたので,その流れで,今宵もこちらを翻訳します。
The life cycle completed 『聖書の神様の命が一巡することができた』 p.89の,第2パラグラフからです。
でもね,「私が生きている実感」と「私たちが一心同体になって,ますます深まる生きている実感」が,共に復活して不動にされることに身も心も捧げれば,対人関係で起きていることを心理的に理解することにお役に立つだけじゃぁなくて,精神分析を用いた心理学によって,ことが起こる前に心が心底わかるための根本原理もわかりますからね。もちろん,「私が生きている実感」という言葉は,「あの」自我のことなるのか,それとも「あの」本当の自分のことなのか,私も言葉遣いの難しさに気付いています。それでもね,「私が生きている実感」を生かす心の習慣こそが,「自分自身」に目覚めて生きることであり,あるいは,聖書の神様の命が一巡する場では,様々な形で生きている実感がずっと続いて生きることになります。もっとも,生きている実感が様々な形になって表に出る,その全ては,共通して(恵みですけれども),「自分が生きている実感」を意識して活かし続けて生きることにほかなりません。「自分が生きている実感」を意識して生かし続けて生きることは,様々な自分の経験全てを,経験すると同時に,経験したこと全てを意識していることです。こうして,「生きている実感」こそが,結局は,ウソとゴマカシがない形で言葉で「私」と自分を呼んで確かめる基礎になります。「生きている実感」こそが,ひとりびとりが,分かち合える体験の宇宙の中で,目覚めていることの中心ですし,同時に,目覚めの中心でいることがあまりにも,驚きと感激に満ち溢れたヌミノースなものなんで,「生きている実感」は,結局は,晴れ晴れと生きる心の習慣になりますし,さらには,生かされていることに「ありがたいね」と感謝する言葉を共に伝え合う心の習慣になりますね。同時に,2人,あるいは,2人以上の人が,心響き合う人間に発達するイメージを分かち合い,本音で協力する時だけ,2人(以上の)の「生きている実感」が一心同体になり,「共に生きている実感」に融合します。もちろん,とっても大切なのは,「私」から,「私たち」へ,「彼ら,彼女ら」へと代名詞が,身体の働き方,姿勢や感覚の働き方,世の中の時間と空間の見方とやり取りする中で十二分な意味を成すようになる,2人が一心同体になって発達する在り方を,命が迸るほどハッキリと示すことでしょう。
「私たち」に関しては,フロイトも「迷うこともないのは,ひとりびとりをキリストと繋げる絆は,ひとりびとりをお互いに繋げる絆に他ならない,ということです」(1921)とまで,言っています。でもね,今まで見て分かったように,フロイトがそう言ったのは,聖書を学ぶ集会や軍隊みたいに,「気高い場を創る」集団とフロイトが呼んだ集団について論じているときなんですよ。しかし,光は,皆が兄弟姉妹になるあらゆる一心同体は,両親から,創始者や聖書の神様に至るまで,聖書の神様から特別なスピリットを頂いた者達と一心同体になるかどうかで,成否が分かれます。あの異教の神に勝る,私どもの聖書の神様は,自分が導いたユダヤの民に教えなくてはならない立場のモーセに訊かれた時に,自己紹介して語った名前は,「私は,『私が今ここで生きている』というものだ」でして,ユダヤの民は,「『私が今ここでで生きている』ということは,私が皆さんへプレゼントするギフトですよ」と教えなさい,ということを示しています。「私が今ここに生きている」というギフトをくださり,復活の人生を実現する聖書の神様が下さるスピリットは,間違いなく,一神教のキリスト教が進歩する時,ど真ん中にあるものですし,父なる聖書の神様の光に従って,人々を1つの人類に結びつけることに広がります(エリクソン,1981 『エール・レヴュー』p.321-362 「ガリラヤのキリストの言い伝えと「私が生きている実感」が生きる心の習慣」)。
ここでまた思い出すのが,生まれたばかりの赤ちゃんと,最初の(お母さんみたいな)人が,まず初めに,互いに大切にし合うことには,聖書の神様から尽きることのない力がある,ということですし,結局は,その生まれたばかりの赤ちゃんの最後の相手は,最終的には,「最後の審判の時に出会う予定の聖書の神様」になりますから,皆さんの顔の上に,聖書の神様が心からの優しさに輝く顔で臨み,皆さんに心からの平和な気持ちと関係をギフトとして恵まれます。聖書の神様が心からの平和な気持ちと関係を下されば,私どもは発達の全ての舞台を全うできるでしょうし,様々な話し言葉を与えられる中で,父親らしさ,母親らしさ,姉妹らしさ,兄弟らしさを含めながら,「私ども人類皆兄弟」が唯一の一心同体となって,実感のあるものになる道を,一心不乱に生きることもできるのにね。しかし,聖書の神様が心からの平和な気持ちと関係を下さる場合でも,実感のある現実という見方を1つも傷のない腑に落ちるものにすることは避けて通れませんね。実感のある現実は,初めに申し上げましたように,「外側の世の中」に合わせなくっちゃ(訳注:忖度遠慮+共依存),ということがあまりにも多いからです。
3重になった生きている実感のある現実
エゴは,概念としても言葉としても,もちろん,フロイトさんが見つけたものです。スコラ哲学においては,エゴは,身体と魂が「一心同体になること」ですし,哲学では,概して,経験を意識していることが,「ずっと続いている」という意味です。ウィリアム・ジェームズ(1920)は,いくつかの手紙の中で,「発達するエゴが時空を1つにする」ことに触れているだけではなくて,「そのエゴは自分から関わりを広げること」についても,触れてますでしょ。この「そのエゴは自分から関わりを広げること」は,光の下に跪く人間は全うだという生き方そのものです。ここで,ウィリアム・ジェームズ(ドイツ語がよく分かっていましたから)は,創造によって魂の中に予め打ち込まれた≪私が生きている≫ことは意識せずに働いていることを思っただけじゃなくて,≪私が生きている≫実感を心の習慣にすることは,キリストのスピリットという光に下に跪き忠実に従うことだ,ということに思い至っていましたね。しかし,≪私が生きている≫実感を心の習慣にすることも,≪私が生きている≫実感が,実際に生きているかを測る中で,最も確かなも唯一の秤だとする生き方の中で,自分が体験したことを腑に落ちるようにする,エゴの無意識の働きの1つであるのは明らかでしょ。≪私が生きている≫実感があればこそ,力なく苦しむ人にならずに,「聖書の神様の命が一巡する場」を全うする人のように,ことが「うまくできてる」と感じられるんです。「自分から関わりを始めて」,「聖書の神様が創造の初めにした時に戻って,聖書の神様の命が一巡して,とっても良かったとなる」ことになり,引きこもってしまうこともありません(好きな言葉は「苦労を引き受ける」ということです,というのね,いわば,苦労を引き受ける関係を自ら始めることになります)。「自分が大事にされる」と「皆を仲間と認める」ことになりますから,端っこに引きこもってる場合じゃぁありません。「自分が選んでいる」のであって,どうすればいいのか分からずにされているんじゃありません。「正気でいる」のであって,心が病んでいるんじゃありません。こういった縦軸に伸びて,復活する発達は,いつでもどこでも,「住めば都,くつろいで自由でいる」ことができますし,自分で選んでいる時でさえ,「聖書の神様から,いつでも見守られていて,自分が選んでもらって,『とてもよかったよ』と歓んでもらった感じ」がします。
そこまでいけば,とても善いですね。しかし,お気づきのように,人生の様々な舞台を生きて,聖書の神様が人間にプレゼントしてくれたギフト「生きている実感」が外に次第に展開していくことに従えば,人間の問いは,人間にとって根源的に確かな心の習慣は,人が繰り返し「新しい人」になり,生涯にわたって,仲間の数を増やすことですから,仲間の数が増えてますか?,ということです。
ですから,発達とは,魂の中心のあるスピリット「生きている実感」が,外に展開すること,以外のものではありません。