エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#聖書の言葉 #単独者の恵み #用事

2019-01-10 06:10:33 | 聖書の言葉から

 

 

 

マハトマ・まど・みちおさんの言葉から

死んで生きている皆様へ



地球の


用事は


なんだったのだろう

 

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#自由 から #創造が始まる

2019-01-10 05:55:20 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの
 
#ヨガ #瞑想 #ノーにイエス #瞑想は脳を変える #人間らしい展望
 聖書の言葉: 倫理の継承    シャンジェ changer と フェア fair   教育と独立 4訂版  教育は独立のためにあるのか? 鈴木範久先生によれば......
 

 

 ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』
 第19章。「応用神経科学:恐怖に急き立てられた心を脳にもう一回繋ぎ直す/コンピュータ関係工学」から。p.321の8行目途中から。その前もご一緒に。



ニューロフィードバック開始


 まず,私たちがしなければならなかったのは,5通りあるニューロフィードバックの治療法の内,どれにするか決めることでしたから,週末に治療法を1つずつ,方針と治療のやり方を学ぶことになりました。6人のスタッフと3人の実習生が,様々な脳波や電極やコンピューターが示すフィードバックが複雑に絡んでいることを,よくよく調べました。訓練の2日目の朝,私は仲間のミッシェルとともにいた時,電極をミッシェルの頭の右側に,すなわち,感覚運動野に直接,付けて,11~14ヘルツの周波数を得ました。セッションが終わるとすぐに,ミッシェルがみんなを呼びました。素晴らしい経験ができたんです。ミッシェルの話によれば,いつもは,人が一緒にいると,たとえ私ども同僚とでも,何となくイライラして,落ち着かなくなる,ということでした。誰も気付きませんでしたが,彼は,結局は,評判のいいセラピストでしたが,いつも危険を感じていたんです。その感じがニューロフィードバックをした時にはなくて,安心してリラックスして打ち解けることができたんです。それから3年以上,ミッシェルは,いつも目立たないでいるところから抜け出して,様々な洞察と様々な意見を述べて,仲間のやる気を掻き立てるところまで,成長しましたから,ミッシェルは私どものニューロフィードバック・プログラムに一番貢献しているメンバーの一人になりましたね。

 

 

 結果は,リラックス。自由です。

 そして,自由から創造が始まります

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#新しい人 と #光 #ハンナアーレントへの応答 #キリストを着る

2019-01-10 05:08:13 | エリクソンの発達臨床心理

 
#発達の3つの素材 #1歳の時期 #人生の分かれ道 #人生を分ける出会い
 赤ちゃんの時に大事にされた経験は、ささやかであっても、大きい    MDMA(エクスタシーと言う麻薬)を使えば、パクられる   ガンディーの行動指針 改訂版 ......
 

 

 Toys and Reasons 『おもちゃ と 賢慮』 第三部。p.124の,8行目途中から。その前もご一緒に。





壁に掛かった様々な夢




 私は拙著を,子どもの積み木遊びから始めて,遊びの理論を振り返り,私の最初の本でお示ししたことを改めるつもりがない,というところまで来ましたね。つまり,最初の本でお示ししたこととは,おもちゃの舞台で「陽気に楽しむ」ことは,枠付けされた「小宇宙」に,諍い合う様々な人を投影しがちな人の心をハッキリと映し出す唯一のひな型だ,ということです。諍い合う様々な人を投影することは,人生の一瞬を物語にするものです。子どもの遊びの中に,あの聖書の神様が創造するというヴィジョンがあることは,見れば分かります。あの聖書の神様が創造するというヴィジョンは,枠付けされた(訳注:自由で賢慮が働く)聖域も1つ,後で使うことになります。そこは「対等な関係の場」(対等な関係が外側に広まるのは,ますます陽気で楽しく,ますます晴れ晴れと,互いに分かり合うために,2人が一心同体になる聖書の神様の場が,広まることです)ですし,1つの舞台,あるいは,自分自身になる目的に向かう道で,自分が主人公であることを取り戻すための青写真です。自分自身になるのは,聖書の神様が一巡する命が展開する関係の中で,上手に自分ならではを育てることによって,実現するものです。しかし,私がまたここでキッパリと指摘しなくてはならない,人を落ち込ませる類の,恐れ,思い煩い,ガタガタいう震えは,些細なものでも,バカでっかいものでも,生きている実感を押し殺す時,心から自由になる希望が死ぬのが,目に見える敵,目に見えざる敵によって課せられた,悲しき自分の定めだと人は誤解してしまいます。しかし,私が申し上げてきたことは,敵を作らない場合でも,人は,自分がなる予定の新しい人になる自由がほしくて,勝手気ままをする余地を作る壁を作り出すために,敵をでっちあげるものだ,ということですね。

 自分が生きている実感を創造し育てる視点は,毎日刻々と礼拝することで,完成します。それは,この本の第2部でお披露目したとおりです。刻々と続く毎日礼拝は,最もささやかな私的なやり取りから,文化的行事で一体になることまで,さまざまです。すべては,「これが,私どもの見方ですし,話し方ですし,立ち居振る舞いです。それは《人間らしい心から優しいやり方》です」,となりますから。ヴィジョンの基盤となるのは 聖書の神様の命が一巡する場ですし,その聖書の神様の命が一巡する場は,細かいところまで真実なのに,同時に,とても良い創造の全体像とも,聖書の神様の御心にもビッタリと一致していますから,バラバラになった人間を,互いに大切にする関わりを始める中で1つの人類にします。
 このような聖書の神様の命が一巡するヴィジョンが至る所にあることをお示ししょう。まずは,私にとって1番身近な事,すなわち,芸術と精神分析から,始めることにしましょう。聖書の神様の命が一巡するヴィジョンが至る所にあることが分かれば,ヴィジョンという見通しを色々試してみる事を一緒に始めることが出来ます。最近,ヘルムート・ウォールがサンフランシスコの「視点」に論文を載せましたね。この論文の中で,ウォルフは,ルネッサンスの絵画の本質的な視点と,ルネッサンスの絵画の視点が広めたキリストの信頼を結び付けましたし,見透しもキリストの信頼も,人が希望を持ちたいと願う最深欲求とも,結び付けました。 

      「五感を総動員した感性豊かなヴィジョンは,聖書の神様の様々な御心は、『うまくできてるね』,という視点で,お祈りにする雛形になります。そのヴィジョンは,聖書の神様を信頼する根源的信頼を繰り返し肯定してくれます。おそらく,聖書の神様の御心は,『うまくできてるね』,と見ることは,視点が繰り返しプレゼント出来る,『人と人をくっ付けて,力を合わせるようになりたい』と求める最深欲求に繋がる判断の物差しです。結局,感性豊かなヴィジョンは,聖書の神様が創造する全体像が,たった1つの聖書の神様のご計画であるし,たった1つの,意味や価値を判断する物差しになります。聖書の神様が創造する全体像は,『うまくできてるね』という物の見方のおかげで,『なるほど本当だね』という実感が湧いて来ますから。」
      デ・ヤング美術館で,16世紀初期のフランドルの画家の手になるヴァン・ボーグの「受胎告知」を見ました。この絵は、描いた画家の名も分からないし,ウソとゴマカシのない一体感がある中で,人間が陽気で楽しく生きるヴィジョンが持つ,たくさんある根源的な要素を,いまここで,1つに纏めているのが分かりました。陽気に楽しく生きるヴィジョンは,眼で見たことから生まれ,最も不動な生き方を根源的に支える聖書の神様の心からの優しさを片時も忘れずに思い出すこと,まで,至ります。その「永遠の見通し」とは,天使ガブリエルから誕生を告げられた子が,子どもの頃が約束する,あの聖書の神様がまします場を,人間にいつも必ず分け与えて救い出す,「御子キリスト」になる,と見通すことなんです。それから,聖母マリアは,選ばれし母,になります。天使が今ここにいて,見守ってくれていることに気付いて,聖母マリアは,開いていた聖書を下に置きますが,学んでいた聖書のページ(聖書のページは,枠付けされた視野になりますね)は,「輝いてい」のが分かりますでしょ。この受胎告知の絵が示しているのは,光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間という,聖書のテーマでしょう。光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間とは,モーセでしょ。古い約束をの知らせた預言者であったモーセが光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間であったのは,新しい約束を知らせる預言者になられた御子キリストが光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間であったことと同じなんでしょうか? しかし,聖母マリアが陰になったのは,聖書の神様からの命令を携えたスピリットを眼の当たりにしているからですが,そのスピリットが伝えた言葉は,「お腹の子は,『聖書の神様の独り子キリスト』です。『新しい人』の守り手ですからね」ということです。それに,聖書の神様がまします場では,「聖なるスピリット(聖霊)」,すなわち,促し手は,キラキラと輝いている,その温もりが身に沁みてありがたい,一筋の光に乗って,下に置かれているように見えます。

 この受胎告知の舞台は,その前景の中では,光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間といった聖書のテーマなどすべてが展開しますが,背景の中では,2つの場に開かれた2つのドアの枠がありますね。1つは,聖母マリアの背後にあって,マリヤのベッドが見えます。もう1つは,さらに2つの枠組みに私どもの目を誘います。聖書の神様がまします場に開かれた窓(魂の片目)と,もう1つは,下に置かれた三位一体の聖書の神様を示す祭壇画と,その聖書の神様の命が一巡することを物語る羊皮紙の聖書に開かれた窓(魂のもう一つの片目)です。その祭壇画があまりにも輝いているので,もう1つの窓(1つの「魂の目」)があるみたいです。この祭壇画も,また,光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間を示していますから,思い出すのは,東に顔を向けることは,夜の闇も必ず夜明けには明ける世の中で,「昇る光に魅せられ仰ぎ見るようにされている」という意味だ,ということでしたね。

 子どもたちが遊んでいることを読み解くことは,その子どもの遊びに心から響くヴィジョンを読み解くことに加えて,人間の意識が,端っこに追いやられるのではなしに,人間が発達するのに一番大事なことであることこそが,唯一の人の務めであることを示しているのならば,聖母マリアの子宮こそ,宇宙のど真ん中にあるものだ,とハッキリと認めなくてはなりませんね。子どもを身ごもった女性と生まれたばかりの全ての子どもが,宇宙のど真ん中にいるみたいに。新しい眼が,成長する場に注がれ,新しい顔が大切にされ,新しい名が,新しく生まれた「私が生きている実感」と,「人間の条件」によって裏切られることは1つもない(のに,それを,ダァレも知りません),唯一の恵みが漲っている新しい人の目印になります。



 聖書が教えている新しい人とは,「生きている実感」に漲って生きているキリストをわが身に付けた人のことです。

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#聖書の神様 からの #最高のプレゼント

2019-01-10 04:25:50 | エリクソンの発達臨床心理
 
#エピジャネティクの原則 #成長の目的  #人生心理学
 インターメッツォ: エリクソンの叡智 : 仕返しよりも、お返しを    ジョアンの人柄   成功の秘訣  妖怪ウォッチとパワースポットを求める気持ち。今の日本......
 

 

 発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com  但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年間70~80ケースの発達トラウマ障害(DTD)セラピーをしてきて,かなりのケースが善くなっていますよ。あなたも是非位一度連絡してください。料金は,母子家庭などは,割り引きます。


 先日のToys and reasons p.37の,ブランクの後の第4パラグラフの翻訳で,最深欲求の話が出てきたので,その流れで,今宵もこちらを翻訳します。

 The life cycle completed 『聖書の神様の命が一巡することができた』 p.88。 第2パラグラフ,8行目途中から,です。

 


でもね,「私が生きている実感」と「私たちが一心同体になって,ますます深まる生きている実感」が,共に復活して不動にされることに身も心も捧げれば,対人関係で起きていることを心理的に理解することにお役に立つだけじゃぁなくて,精神分析を用いた心理学によって,ことが起こる前に心が心底わかるための根本原理もわかりますからね。もちろん,「私が生きている実感」という言葉は,「あの」自我のことなるのか,それとも「あの」本当の自分のことなのか,私も言葉遣いの難しさに気付いています。それでもね,「私が生きている実感」を生かす心の習慣こそが,「自分自身」に目覚めて生きることであり,あるいは,聖書の神様の命が一巡する場では,様々な形で生きている実感がずっと続いて生きることになります。もっとも,生きている実感が様々な形になって表に出る,その全ては,共通して(恵みですけれども),「自分が生きている実感」を意識して活かし続けて生きることにほかなりません。「自分が生きている実感」を意識して生かし続けて生きることは,様々な自分の経験全てを,経験すると同時に,経験したこと全てを意識していることです。こうして,「生きている実感」こそが,結局は,ウソとゴマカシがない形で言葉で「私」と自分を呼んで確かめる基礎になります。「生きている実感」こそが,ひとりびとりが,分かち合える体験の宇宙の中で,目覚めていることの中心ですし,同時に,目覚めの中心でいることがあまりにも,驚きと感激に満ち溢れたヌミノースなものなんで,「生きている実感」は,結局は,晴れ晴れと生きる心の習慣になりますし,さらには,生かされていることに「ありがたいね」と感謝する言葉を共に伝え合う心の習慣になりますね。同時に,2人,あるいは,2人以上の人が,心響き合う人間に発達するイメージを分かち合い,本音で協力する時だけ,2人(以上の)の「生きている実感」が一心同体になり,「共に生きている実感」に融合します。もちろん,とっても大切なのは,「私」から,「私たち」へ,「彼ら,彼女ら」へと代名詞が,身体の働き方,姿勢や感覚の働き方,世の中の時間と空間の見方とやり取りする中で十二分な意味を成すようになる,2人が一心同体になって発達する在り方を,命が迸るほどハッキリと示すことでしょう。

 「私たち」に関しては,フロイトも「迷うこともないのは,ひとりびとりをキリストと繋げる絆は,ひとりびとりをお互いに繋げる絆に他ならない,ということです」(1921)とまで,言っています。でもね,今まで見て分かったように,フロイトがそう言ったのは,聖書を学ぶ集会や軍隊みたいに,「気高い場を創る」集団とフロイトが呼んだ集団について論じているときなんですよ。しかし,光は,皆が兄弟姉妹になるあらゆる一心同体は,両親から,創始者や聖書の神様に至るまで,聖書の神様から特別なスピリットを頂いた者達と一心同体になるかどうかで,成否が分かれます。あの異教の神に勝る,私どもの聖書の神様は,自分が導いたユダヤの民に教えなくてはならない立場のモーセに訊かれた時に,自己紹介して語った名前は,「私は,『私が今ここで生きている』というものだ」でして,ユダヤの民は,「『私が今ここでで生きている』ということは,私から皆さんへの贈り物ですよ」と教えない,ということを示しています。


 

 私が今ここで生きていること,そして,私が生きている実感は,聖書の神様からの最高のプレゼントで,私が今ここで生きている,というのは,聖書の神様と一心同体になって初めて実現するものです。それが,アイデンティティ=oneness=一心同体です。

 これもスピノザ流現代的真理です。

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