エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

境界性人格障害(BPD)は幼い時から心響かない関わりを強いられるとなる、と言うのは、今では定説です

2016-11-08 06:30:57 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
「祈りの中」の革命
   人類の危機に立ち向かう勇気  エリクソンの愛敵の教えは非常にクリアです。 p363の10行目途中から。     ...>続きを読む ......
 

  発達トラウマ障害(DTD)=愛着障害の子ども。ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』p.142、第3パラグラフ、4行目途中から。

 

 

 

 

 

 境界性人格障害(BPD)の多くは7歳以前から虐待されているという発見が特に大事なのは、大切にされない悪影響は、少なくとも部分的には、大切にされない関わりが始まった年齢によって違う、と言うことが解かるからです。マーティン・ティーチャーとマックリーン・ホスピタルの後々の研究によれば、様々な心響かない関わりを強いられることが、様々な発達段階によって、いろんな脳の部位に様々な悪影響があります。私どもの研究を追試した研究はたくさんあるけれども、私は今でも、「境界性人格障害(BPD)の患者さんたちは、子どもの頃のトラウマがあるかもしれない」とする研究論文をいつも手に入れています。いつになったら、仮説は科学的に確立した事実になるのでしょうか?

 

 

 

 

 

 境界性人格障害(BPD)は幼い時から,心響かない関わりを強いられるとなる、と言うのは、今では定説です

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インターメッツォ: エリクソンの叡智 : 感じ の不思議

2016-11-08 06:04:35 | 間奏曲

 

 

 
「本当だなぁ」という感じの分かち合い
    公平さだけじゃぁ、不十分  信頼と勇気の練習は、それを意識して毎日やれば、叶うもの。 p119第2パラグラフ。    &n...>続きを読む......
 

  Chilhood and Socirty から。p.251から。

 

 

 

 

 感じとは、同時に、内省に繋がる「経験」の仕方ですし、他の人からも観察可能な「行動」の仕方でもあり、また、検査や分析によって確認できる無意識の「内的状態」です。

 

 

 

 

 

 感じ、とは、主観的であり、客観的であると同時に、無意識的でもあります。

 とても単純で、しかも、多義的、多層的ですから、現実をうまくとらえることもでき、非常に臨床的でもあるんです。

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#黄昏のニューヨーク :#現代の礼拝の神髄=「共に見る」悦び #聴くに徹する生き方そのもの: あるスピリチュアルケア・カウンセラーの言葉から

2016-11-08 05:22:13 | 間奏曲

 

 

 
道徳教育と倫理の伝承
   よろしくね。  毎日、お忙しい生活をしておられるお母さん。ご苦労様です。 一生懸命に生きておられることでしょうね。 今日はどんな一日だったでしょう......
 


現代の礼拝。それには、決まった形、決まった場がありません。でも、そこには、生かされている、圧倒的で、しかも、静かな喜びに満ち溢れているものです。一昨日、インターメッツォ: エリクソンの叡智 : サイコセラピーこそ、現代の礼拝で、「みんなが恵みを感じている時に、例外なく、ひとりびとりが元気を取り戻す、それが現代の礼拝です。すると、その礼拝を共にする人たちは、ひとりびとりの人が信頼するようになります」と申しましたね。そうしていたら、昨日「ドキャメンタリ―wave 黄昏のニューヨーク」で、終末期によりそう、1人のスピリチュアルケア・カウンセラーの働きを紹介する番組を拝見することになりましたね。

 やっぱり、サイコセラピーこそが、現代の礼拝だ、との感を深めました。

 紹介されたスピリチュアル・カウンセラーは、ニューヨーク在住の岡田圭さん。元牧師さんとのこと。終末期のスピリチュアルケア・カウンセラーになって、10年。一日、3人ほどを訪問すると言います。年間150人ほどを看取るとも。

 その岡田圭さんが、自分の仕事について語ることには、現代の礼拝の神髄が、ハッキリと示されています。

 「健康な人は、ぜんぜん意識しないで、あるいは、意識できないで、永遠に生きるような態度で生きている。ホスピスの患者さんたちこそが、病状のこととか、終末期のことを、いろいろ、告げられて、『いのちには限りがある』、『命がいつ終わるか、ということは正確には分からない」という状態で、毎日の生活を強いられている。そこから出てくる、『自分なりに、じゃあ、今、何が一番大切で、どういう風に自分は生きていたいか?』ということを真剣に考える、その真剣さから出てくる言葉というものは、『どのように生きるのか?』と言うことに共通する、大切な教え、その知恵が詰まっている1人1人が独自の言葉を使って、それを表現する。そんな大切な時に、それを目撃して、そういう教えを聞かせていただける、というのは、それは『ただありがたい』と言うよりも、『忘れちゃいけない』、『心に留めて、それを大切にして生きていかなくてはいけない』

 「痛みということについても、数字で計れる痛みだけじゃなくって、身体の痛み、心の痛み、いろいろありますから。『本人の語り方、その人の言葉から、どこまでその痛みを汲み取れるか?』 それをただ問題として捉えて、問題解決しなければいけないんだ、ということだけじゃなくて、1つの機会と捉えて、いろんな発見の機会だと捉えて、『そこから何が見えてくるか?』と、その人の全体像を理解できるように、そのような聴き方をします。」

 

 

畏敬の念と、信頼し合う気持ちが一緒になる時の、「共に見る」悦び

 その日常生活の礼拝は,祈りそのもの聴くに徹する生き方そのものになります。

 

 私どもも、そのように生きて生きたいものですね。

 

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インターメッツォ: 信頼のベクトル

2016-11-08 04:19:40 | 間奏曲

 

 

 
安全と安心のはじめ
   ガリラヤの言い伝えと「≪私≫という感じ」 最終回  とうとう、この論文の最終回。ここまでお付き合いいただきました皆様、ありがとうございます。 p3......
 

 ヘンリー・ナウェンの『魂の向き』Spiritual Direction、p.114. 今宵は、ソリチュード「1人の豊かさ」の延長としての、信頼について。

 

 

 

 

 

 信頼し合う仲間であっても、おセンチな理想郷でもなければ、みんなが共に生き、お互いに大事に思い、いつでもうまくいくような所でもありませんよ。そんな(理想的な)ことは決してありえませんでしょう。むしろ、共に生きていく中で気付いてくることは、信頼し合う仲間でも、いつでも気持ちが一致するように求めたり、示したりするものではない、と言うことです。信頼し合う仲間が私どもに示してくるのは、お互いに相手を大事にしよう、人が大事にしてくれたり、気遣ってくれる気持ちを受け止めよう、とする場が、ここにあるよ、ということです。

 

 

 

 

 

 信頼、ということは、おセンチな気持ちとは何の関係もありません。ナウェンさんがここで教えてくれるように、極めて理性的なものですね。でも、ただそれだけでもない。

 信頼し合う、と言うことは、畏敬の念とセットですから、相手とのやり取りしようとする意志というベクトルが必ずあります

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