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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ニーチェのルターに対する厳しい評価

2015-04-16 07:49:44 | エリクソンの発達臨床心理

 

 悪い良心は、あの安倍晋三首相のような、偽物の「正義の見方」です。善意の暴力を平気でふるいますから要注意!

 Young Man Luther 『青年ルター』p193の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 ニーチェは、ルターと同じザクセン州の出身ですが、遅れてドイツに現れた、ルネッサンスの広報官であると同時に、ヨーロッパの陽気な道学者であることに誇りをもっていました。ルターがローマに旅したことについて悪い噂を耳にして、95箇条のテーゼを、ドイツの百姓連中のルネッサンスに対する反抗と信じ込んでたので、ルターは悪い時に、邪魔をしたから、メディチ家が法王庁にルネッサンスの息吹を吹き込んで、中世の精神を完全に取り入れてもらえるところだったのに、それができなかった、と非難しました。ルターは、その代わりに、教会を防衛的にさせ、改定した教義を発展補強させて、何とか残る価値しかない平凡なものにしてしまったと、ニーチェは感じました。

 

 

 

 

 同郷であっても、ニーチェのルター評はさんざんです。

 

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お尻の時はお尻を大切に

2015-04-16 07:07:39 | エリクソンの発達臨床心理

 

 精神分析の発達理論では、社会の窓が大事になります。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p29の第2パラグラフ9行目途中から。

 

 

 

 

 

人の性活動の移り変わりに対応する強力なリビドーが、いかに息の長い結果をもたらすかは、数多く示されてきました。つまりは、陽気でさまざまな、前性器期的な悦びです(それは、実際、「前戯」となります)。それに続く性的倒錯。1つか二つそれが残れば、性的な優越がひっくり返ることになりますね。特に、強烈な前性器期的なニーズを不適切に抑圧すれば、不安神経症になりますよ。明らかに、この三つの段階は、また、エピジャネシス的に結びついていますからね。なぜならば、お尻(肛門期)(2Ⅰ)は、口の(口唇の)時期に、すでにありますし、「おちんちんの(男根の)」時期(Ⅲ)にも、一定の場を占めなくてはなりません。それは、お尻がエピジャネシス通りの危機をお尻の時期の経験したあとのことになりますが。

 

 

 

 

 何事にも時があります。エピジャネシスのなし給うことは、時にかなって美しい。(コヘレトの言葉 第三章11節のパラフレーズ)

 

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息と声

2015-04-16 02:23:06 | エリクソンの発達臨床心理

 

 禅僧ティク・ナット・ハンさん、瞑想では、息を意識する、といいますね。息を意識するのはね、ささやかなこと、当たり前が、奇跡で、不思議で、幸せだ、と気付くため。それがマインドフルネス。たとえば、私は大学の時、ワンダーフォーゲル部であちこちの山野を巡りましたが、山野で飲む一杯の水が「うまいぃ」と感じたことが何度もありますもんね。でも、家に帰ってきて飲む水はそれほどでもない。あるいは、足の怪我でしばらく歩けなかったり、走れずにいる間、歩けたり、走れることが、「どんなにかありがたいことなのか」と気付く。

 ティク・ナット・ハンさんも「息を吸う度に、二三歩歩いてごらんなさいな。その数秒間に気付くのは、自分が生かされていること、足が動き、歩ける(そして、登ったり、走れたりもできる)ことでしょ。そしたら分かるでしょ、生かされていること、この美しい地球で歩けることそのものが、すでに奇跡だ、ということを」と言ってますからね(「Peace is every breace. 『一息ごとに頂く静かさ』p110)。

 当たり前のことは、実は、奇跡だなぁ、不思議だなぁと感じる心。まど・みちおさんや長田弘さんのような詩人の心。それがマインドフルネス。それは、息を感じると気付きを与えられやすい。

 ギリシャ語で息はプネウマ。ヘブライ語ではルアーハ。いずれも、それは同時に霊や心、神の霊、を意味します。ですから、息を感じることは、神様を感じること。自分が、不思議にも生かされていることをカンジルこと。息は、霊であり、心、気持ちそして、自分やこの世のものをはるかに超える神、でもある。

 そして、声。息ははけば、声にもなるでしょ。声を聴き、声を出す。声と言っても、外から聞こえてくる声だけじゃぁない。内側から、心から、聴こえてくる声もある。その声は、「静かなる細き声」、囁きです。ですから、耳を三つ用意するような気持で聴くことが大事になりますね。それは息を感じることと通じますでしょ。日頃はかき消されている声ですもんね。世間や大声で聞こえない。ですから、私どもはね、静かに一人になる時間が必要です。その声は何を語っているでしょうか? ご自分で試してみてください。私の場合、大体ビックリするほど、あるいは、不思議なほど、肯定的な積極的な中身ですね。あるいは、自分が進んではやりたくないことの場合もありますね。

 息と声。それは、新たな一歩、新鮮な朝、悦びを生きる道を迎えるためには、なくてはならないものです。

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