エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

神聖な意味はいつでも味わえる、いつでも忘れ去られる

2015-03-06 13:22:16 | アイデンティティの根源

 

 信頼はあらゆる発達に先んじます。信頼のない者の発達は、エリクソンの言葉で言えば「偽りの前進」です。

 Young Man Luther 『青年ルター』のp186の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 聖トマスは、建築学的な思想家ですし、彼自身が神のメッセージがそこにあることが分かる秩序を表現する人でしたが、その聖トマスが、中世において、自分を確かにする道を最もうまく表現した人でも、また、あるのでした。すなわち、堂々としていて、それでいて、細かいところまで行き届いた様式です。この様式では、カテドラルは、永遠を示すために作られ、儀式は、特別な場の小宇宙の中に、神の秩序を寓話化するものです。

 

 

 

 

 

 カテドラルも、儀式も、その意味するところは神聖です。カテドラルも、儀式も、それに触れるものは、いつでも、その神聖な意味を繰り返し味わうことができます。しかし、これがいつでもできるものであると同時に、いつでも忘れ去られるものでもあるものなんですね。

 そのどちらを選択するかは、ひとりびとりに委ねられています。そこに自由がある訳ですね。

 

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共に飛ぶ

2015-03-06 11:45:10 | 間奏曲

 

 時々でもいい、夜空の星を見上げていたい。

 The Sense of Wonder 『不思議を感じる心』から p92の4行目途中から。

 

 

 

 

 

今あなたは、ひとかけらの音を直接耳にします。鋭くて甲高い声、シーシーと舌がもつれる様な音、地鳴き。これらは、渡り鳥の声ですが、その声は、空一面に広がった仲間と、声を使ってやり取りしているのは、明らかです。

 

 

 

 

 白鳥が飛ぶ季節です。逆さまのVの字型で飛びながら、盛んに声を出しています。空中に広がっているわけではなく、隣通しで飛んでいる時も、やり取りをしながら飛んでいるのが分かります。ぶつからない様に、空気抵抗をなるべく減らして飛んでいるんでしょう。

 「共に生きる」姿でしょうね。

 

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ナチと管理教育はご親戚筋 改訂版

2015-03-06 07:05:55 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ナチと言えば、那智の滝。滝そのものが神道のご神体だそうですね。残念ながら、私はまだ一度もこの滝を拝んではいません。ただ、大学1年の時に尾鷲から大台ケ原まで沢登りをしたことがあります。台風が3つも紀伊半島に集合したときだったからかもしれませんが、とにかく雨が多い、川の水量が猛烈です。自然の勢いを感じましたね。それが、人間を超える存在を感じさせているのかもわかりません。

 でも、今日は那智の滝のお話でありません。Nazi(Nazis)「ハイル・ヒットラー」の方です。その残虐性は、今更繰り返す必要がないくらいでしょ。まだ実感のない方は、映画「戦場のピアニスト」か、フランクルの『夜と霧』(霜山訳でも、池田訳でも)をご堪能ください。徹底的なサディズム。それは文字通り、真正「人間を上下2つに分けるウソ」の信者です。Naziは、サディストとして、人を徹底的に支配しようとしました。フロムの言葉を借りれば、「サドの人は、自分を大きく立派に見せようとします。それも、自分を崇めまつる誰か他の一人を自分の手下、部品にすることで、自分を立派に見せようとします」。

 かたや、管理教育。厳しい叱責、不機嫌な顔つき、怒鳴り声、「正しいこと」で子どもたちを裁く態度。通常は「指導」と呼ばれています。何を指導しているのかな? 私の理解をはるかに超えています。私が、その「指導」とやらから感じることを、敢えて申し上げれば、「あなたはつまらない価値のない人間ですから、私の言う通りにしてけばいい」、「世間はそんなに甘くない」、「人間は信じられないぞよ」ということでしょうか。まあ、絶望的なメッセージ。あるいは、表向きだけ、物腰が柔らかそうに見えるけれども、それは見せかけ。その人の心から響いてくるのは、「あなたは信頼できないから、何もしないでね、せいぜい遊んでてね」、「ほかの人の邪魔だけはしないでね」「見張ってますからね」ということ。相手とやりとりをするんじゃぁない。相手をコントロールしようとします。この人たちも、真正「人間を上下2つに分けるウソ」の信者です。しかも、実はサディズム。自分が相手をコントロールできた時だけ、自分が相手より、「上」と感じる一瞬だけ、一時の解放感を感じてんですね。それは先のフロムの表現がそっくりそのまま当てはまります。「サドの人は、自分を大きく立派に見せようとします。それも、自分を崇めまつる誰か他の一人を自分の手下、部品にすることで、自分を立派に見せようとします」。その手下、部品が「児童」や「生徒」などになります。

 ナチと管理教育は、親戚筋なんですね。くわばらくわばら‼

 

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