エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

強さの在り処

2015-03-18 12:11:21 | 間奏曲

 

 自然の中で、活かされている実感をイキイキと新たにされたいですね。

 The Sense of Wonder 『不思議を感じる心』から p100の第2パラグラフの4行目途中から。

 

 

 

 

大地の美しさについて思いを巡らせる者は、一生涯続く強さの在り処を見つけます。

 

 

 

 

 

 強さの在り処って、いったいどこにあるのでしょうか? 

 外側にあるのかな?

 それとも、

 内側にあるのかな?  

 

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地獄の方が天国よりも現実味があるのは、なぜ?

2015-03-18 10:17:11 | アイデンティティの根源

 

 中世のカトリック教会には、さまざまな伝説が出来上がっていたらしい。

 Young Man Luther 『青年ルター』のp188の第4パラグラフから。まだまだ、ホイジンガの引用の続き。

 

 

 

 

 

 アラン・ド・ラ・ロッシェが描く天国のシンボリズムが、作り物に見えるのに対して、地獄の絵が、ゾッとするほど現実味があります。アランは、様々な罪を代表する動物が、馬鹿でかい生殖器を持ち、口から炎を吐き出して、その煙で大地にボウッと霞をかけているのが分かります。アランは、背信の遊び女が、背信者を生むのを見ますし、その背信者を貪っては、吐き出すは、母親のごとく、その背信者にキスをするは、優しくなでるは する姿も見ます。

 

 

 

 

 中世のカトリック教会は自罰的であり、他罰的だったのでしょう。このアランの絵を見れば分かります。地獄の方が天国よりも、はるかにリアルだったのは、その証拠です。人は、往々にして、地獄の方がリアルに感じるのは、中世のお話という訳ではなくて、今の日本でも多数派です。「自己責任論」などは、その典型でしょう。

 何故なんでしょうか?

 

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もう1つの譬え話 低い姿勢をとるイエス 改訂版

2015-03-18 06:12:34 | エリクソンの発達臨床心理

 二コラ・プッサン「キリストと姦淫の女」1653 ルーブル美術館

 

 昨日は「ブドウ園の労働者」の譬えでした。

 今日はもうひとつ、「姦淫の女」の譬え話です。

 これは、「ヨハネによる福音書」第8章1節~11節にあります。他の福音書には並行記事のない、ヨハネの独自資料に基づく寓話です。

 イエスはオリーブ山に登って、ついてきた民衆に教えていました。すると、真面目がいのちの律法学者とファリサイ派の人々が、姦淫の現場から連れて来た女を、みんなの真ん中に立たせて、イエスに言います。「先生、この女は姦通をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセの律法が命じています」と。しかし、これは真面目な律法学者たちがコッソリ仕掛けたワナ、謀略、はかりごとでした。ユダヤでは、2人が証人として立たないと、姦通罪は成立しなかったそうですから、律法学者たちが、計画的にこの手の女を見つけて来たと言えそうです。それは、イエスをワナにかけるため。

 なぜこれが謀略なのか?

 それは、イエスが「この女を許せ」、と言えば、律法に反したことになりますから、訴える口実を得ることができます。かたや、イエスが、「この女を打ち殺せ」、と言えば、日ごろから救いを宣べ伝えていることと矛盾しますので、イエスのウソを喧伝するチャンスを、真面目な律法学者たちが手に入れることができます。すなわち、どう展開しても、真面目な律法学者たちがはイエスを窮地に追い込めることができる、と陰でニヤニヤしていたはずです。

 イエスは、最初は真面目な律法学者たちを相手にしないで、しゃがんで、地面に何かを書いていた、と言います。謀略とすぐに分かったのでしょう。イエスは、真面目な律法学者たちを相手にしません。

 イエスが姿勢を低くして、視点を下げたんだ、と私は感じます。

 ところが、真面目な律法学者たちはしつこいんですね。やむなくイエスは立ち上がってこういいます。「あなたたちの中で罪を犯したことにない者がまず、この女に石を投げなさい」と。それからまた、イエスはしゃがんで、地面に何かを書きつづけられます。

 すると、不思議なことに真面目な律法学者たち、ファリサイ派の人々の中で、年長の者からその場を離れていった、と言います。年をとればとるほど、私どもは、神様のご計画、御心の従えない「的外れ」を、いかにしてきたのかを思い知らされますでしょ。ですから、年長者ほど、「『的外れ』を犯したことのない者である」と言えない自分をよくよく知っています。イエスは臨床心理学者、クリニカル・サイコロジストでしょ。見事にまじめ人間たちの心理を見抜いておられたのでしたね。

 その「姦淫の女」を囲んでいた真面目人間たちは、皆その場を離れます。そして、1人残されたイエスは、再び立ち上がって、その女に言います。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい(生きなさい)。これからは、もう的外れをするんじゃありませんよ」と。その女の心が、感謝と温もりとで満たされたことは想像できますでしょ。慈しみとはまさに、このイエスの優しさですし、その態度ですよね。

 ふつうはこれでお終いでしょ。でもね、私はこの譬えを読んで感じることを記しておきましょうね。真面目人間は、イエスのような「人間らしい関わり」をしたいと思っても、なかなかできませんでしょ。ですから、イエスのことが疎ましくも、羨ましいのですね。ですから、鼻を明かしてやりたい、と謀略を巡らせるんですね。

 でも、イエスはそんな下衆心は100も承知で対処します。しかも、自分の姿勢を低くして対処すんですね。ここがお見事でしょ。ですから、下衆な真面目人間を見下すこともありません。しかし、真面目人間の「本当の自分」を見事に悟らせることができるんですね。

 私どもも、キリストに倣って、身をかがめながら、しかも、♪ イキイキ生きる ♪(釜石小学校校歌)、で生きたいものですね。

 

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