クレウサは本当のことを話す決心をしたようでした。
クレウサが主にパレーシアステスを演じた場面は、二つの部分からなります。その場面は、詩の文体も、表明されたパレーシアの種類も違います。最初の部分は、美しい長いスピーチで、アポロに対する長く手厳しい非難ですが、第二の部分は、一行おきの対話の形式です。そこには、クレウサと彼の部下達の対話が一行おきにつぎつぎに置かれています。
クレウサのパレーシアは、一つは非難、一つは対話だったというのは、実に鮮やかな対比です。
クレウサは本当のことを話す決心をしたようでした。
クレウサが主にパレーシアステスを演じた場面は、二つの部分からなります。その場面は、詩の文体も、表明されたパレーシアの種類も違います。最初の部分は、美しい長いスピーチで、アポロに対する長く手厳しい非難ですが、第二の部分は、一行おきの対話の形式です。そこには、クレウサと彼の部下達の対話が一行おきにつぎつぎに置かれています。
クレウサのパレーシアは、一つは非難、一つは対話だったというのは、実に鮮やかな対比です。
アイデンティティの混乱? 世の中がよくなることと人生哲学の革新
前回はアイデンティティの中身でしたね。 今回は、前回やり残した部分です。Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeの、青年...
空っぽの時代。エリクソンの言葉を借りれば、今の時代こそ、空っぽの時代です。エリクソンは言います。「歴史的にアイデンティティが空っぽになるのは、生育歴上のアイデンティティの危機が非常に大きな規模で悪化し、経済的・技術的変化に追いつく人生哲学の革新によってしか打開できない時代なのです」と。
小学校に参りますと、小学生のびっくりする程たくさんの子どもたちが、最初の発達課題、根源的信頼感vs根源的不信感の危機を取りこぼして、根源的不信感の方に大なり小なり傾いている(少なくない子どもが≪大なり≫になります)子どもたちと出会います。でも実際関われるのは、その中のほんの一握りです。それでも、今の日本の政治は、そのような手間とお金がかかる子どもたちを掬い上げて、根源的信頼感の回復を願うためにしていることと言ったら、お寒い状況です。それは、介護が必要になった高齢者に対する施策が貧困で、介護施設で働く人の待遇も、文字通りワーキングプアの状況であったり、シングルマザーや女性の労働環境が、低賃金、長時間労働、子どものために休むことに対する冷たい視線などきわめて貧困であったり、福島原発崩壊のために放射能を浴び続けている、子どもや妊産婦も含めた人々が、十分な検査と医療費助成を受けていない貧困などと同等なのです。そういう不条理な苦難を背負わされている人々を見捨てているのが、今の政府が作り出している、経済システムなのです。
人生哲学といえば、「貧乏人は、早く死ね」というところでしょうね。そんな貧しい哲学しかないところでは、当然アイデンティティ形成も空っぽです。アイデンティティ、すなわち、自分を確かにする道が閉ざされた、空っぽの時代、その自覚から、私どもは日々を歩んでまいりたいものですね。
それにしても、今日の写真の水仙、素敵です。ちょっと普通と違う種類でしょうか?