フロムは、集団への同調は乱痴気騒ぎよりまし、と言います。
大昔の社会では、集団は小さいものです。その集団は、血と土地を分かち合う人々からできています。文化が進歩するにしたがって、その集団は大きくなります。その集団は都市国家・ポリスの市民にもなりますし、大きな国の市民にもなりますし、また、一つの教会に属するメンバーにもなります。貧しいローマ人でさえ誇りに感じたのは、「私はローマ市民です」ということができたからです。ローマとローマ帝国は、自分の家族であり、故郷であり、世界なのです。近代西洋社会においても、集団と結びつくことは、「相手にされない」ことに対処するよくある対処法です。個人的な自分が大部分なくなっちゃうのが、集団との結びつきですし、そこでは、目標は群れに属することです。もし、わたくしが他のみんなと同じなら、私が自分らしくなる気持ちや考えをまったく持ちません。また、私がその集団の慣習、制服、思想においても、集団の型に同調すれば、私は守られます。すなわち、独りぼっちになる、ぎょっとする体験をせずに済みます。独裁体制は、この同調を作り出すために、脅しとテロを使います。民主主義の国では、この同調を作り出すためには、提言とプロパガンダを使います。実際ここに、独裁体制と民主主義体制の大きな違いが一つあります。
この種の同調は危険です。独裁体制が同調のために使った、脅しとテロは、日本でも第二次世界大戦前夜には、「軍刀」だったと聞いています。皆が「軍刀」を恐れて、自由にものを言ったり、やったりすることができなくなったから、軍部の独走が可能だったのです。今の日本では、主にプロパガンダと金です。なぜ、東電があんなムチャクチャナことができるかといえば、政府と一体になってプロパガンダをするだけではなくて、莫大な金にものを言わせて、人々を懐柔して、自由な行動と発言を抑え込んでいるからです。