goo blog サービス終了のお知らせ 

エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「殺しに至る病」

2014-04-03 08:31:59 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
自分が分裂する始まり、あらゆる心の病と戦争のはじめ

 「悪い良心」は、子どもに対して、心の狭い裁判官のように、日々「ダメ」を連発して、厳しく関わると、子どもの心に芽生えることを、エリクソンは教えてくれていました。しかし、本来の「是認...
 

  心が善悪に分かれると、「悪い自分」は恥ずかしいですから、蔑み、隠します。すると、それは、次第に猛烈な力で、心の中に抑え込んだ形になりますね。でも、その「悪い自分」も時分ですから、その自分が生きられないことは残念ですし、寂しいことです。「悪い」と言われて出さないでいると、だんだん、激しい怒りや憎しみがその「悪い時分」にくっついてきますよね。それが、自分の気に入らない相手にぶつけるのが、あらゆるいじめ、喧嘩、暴力、人殺しの始まりです。それが集団化すれば、ジェノサイドや戦争になります。

 自分が善悪に分裂することは、文字通り、「殺しに至る病」なのですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルターの《他人のせいにする癖》

2014-04-03 08:27:40 | エリクソンの発達臨床心理

 

 当時のカトリック教会は、富を独占する存在だったのですね。免罪符のようなインチキもありましたしね。こうなると、当時のカトリック教会は、「言っていることと、やっていることが違う」代名詞だったでしょうね。今の日本の「ウソとゴマカシ」が瀰漫する社会と、当時の西欧諸国はかなり重なっているようです。

 

 

 

 

 

 ルターは、子どものころ、風や水が立てる奇妙な音や、怪しい黄昏や闇がもたらす奇妙な光景は、もちろん、魔法使いたちや魔女たちが送り込んでくる悪魔たちが存在する証拠だと受け止めました。この魔法使いたちや魔女たちは、じっと見張っている限りは、悪さはしないものでした。つまり、注意深く、疑り深い限りは大丈夫なのです。悪魔が存在することを信じていることによって、自分では気付かない思いや、自分では気付きづらい、欲張りな気持ちや意地悪をしたい気持ち、それに、お隣はきっとこうに違いないと疑う気持ちを、どうしても、露わにしてしまいます。お隣さんの思いを露わにすることは、たいてい、自分と相手の人がゴッチャになっている、ということです。つまり、もし、隣の人が、その人がどんな人か、どんな活動をしているのかは分かっても、もちろん、秘めた思いなど知る訳はないけれども、何か害になることをするつもりでいるように思われる場合でも、何らかの霊のずるい助けを借りて、私が無力の時だけしか彼に対してしたいと願わないような罪のないことを、私に対してやるだけです。あらゆる不思議な考えの中で、まだ分からないことと気付いていないことが、共通の未開の地で出会います。すなわち、残忍で、人倫にもとり、欲深い願いやら、不意に憂鬱になったり、飛び跳ねるほど元気になったりする雰囲気やらは、すべて、悪巧みのある隣人のせいで私に押し付けられるのです。エッチな空想も、このようにして、他人のせいだと考えます。セックスさえ、あらゆるはっきり覚えている夢のように、あるいは、自分のベッドに隣の人がいるのは、悪魔が、寝ている男の人の下か、寝ている女の人の上に、ずるがしこく寝ているから悪い、と非難できるほどです。ルターの言葉では、「指図に従ったか、ねばならなかった」でして、彼の神学では「男を誘惑する夢魔サッカバスと、女を誘惑する夢魔インキュバス」です。

 

 

 

 

 

  ルターは、よほど、信仰者には相応しくない人ですね。それだけ、他罰的で、「悪い良心」の典型です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする