精神分析が、通過儀礼であるというのは、面白い視点ですね。でも、普通通過儀礼と言えば、成人式のように、集団でやるのが普通です。しかし、通過儀礼となる精神分析は、個人がやる通過儀礼です。集団でやる通過儀礼が弱体化、ないしは、消滅しているので、それに代わる新たな通過儀礼の1つとして、精神分析、あるいは、心理療法が登場しているのだ、と言えるでしょう。
激しい怒りと恥という特別な組み合わせが呼び起こされたのは、私どもが最後的にカッコに入ったEの意味に繋がる、あまりに示唆的な(挑発的な)場面でした。このEは私のイニシャルですが、これが示しているのは、「転移」のからくり、すなわち、精神分析家に転移されているのは、まさに、子どもの頃に大事だった1人の人に元々くっ付いていた、ひどく折り合いがつけられずにいる気持ちです。この意味で、彼女が「形成を逆転」して、「私」をさらし者にしたいと思っている、いっそう奥にある思いを暴くことになることが分かります。つまり、救い主の苦境と彼女自身の苦境を共に、ニヤニヤしながら私にぶつけてくる投影です。それで、この時、この患者が自分をさらし者にされた受身の体験が、有名な役割交代にしたがって、攻撃的なのぞき見によって、能動的に私にぶつけてきたのです。しかし、受身で体験したことを、セラピストに能動的にぶつけてくることは、実際問題、彼女がトラウマを経験した、まさに子どもの舞台(発達段階)では、自然なことでもあります。この解釈は、患者の気まずさをいっそう困らせることになるだけかもしれなかったのですが、無意識の仕掛けに対して一緒に笑うこともなったのでした(こういうことは、幸いにも少なくないのです)。一緒に笑うことによって、1つの単語にあるこういった意味のすべてが、混じ合うことができるのです(そして、明らかになるのです)。
実に見事な記述ですね。簡にして明とは、まさにこのエリクソンの記述のことです。子どもの頃のつらい体験、激しい怒りと恥がべっとりくっ付いたその受身の体験が、セラピーの中で、能動的に再体験すると、笑いが起こる...なんと素晴らしいことでしょう。激しい怒りと恥が笑いになるのです。その時、夢の意味、遊びの意味、コラージュの意味、箱庭の意味・・・がハッキリ分かります。これを能動的再体験、と言って、セラピーの基本的な方法になります。