★チチカカ湖でまぐろを釣る★ En JAPON

ペルー・ボリビアから帰国しました。旅の模様を写真と一緒にアップしてます。
●◆最新更新日→2009年4月22日◆●

シルパンチョ!

2008年05月21日 | ボリビアの文化・食べ物・伝統など


ボリビア料理の中で大好きな一品のひとつ。

その名も「シルパンチョ」。

パン粉をつけてうす~~~~~くなるまで叩いた牛肉を、大目の油で焼いたものが大きくお皿にのっかってる。

これの下には、にんにくのみじん切りと一緒に煎った米をその後煮たご飯。
そしてコンガリ黄金色に焼いたジャガイモ。

お肉の上にはみじん切りした玉ねぎとトマト、そして「ロコト」という南米アンデスの唐辛子のサルサ。

仕上げに半熟の目玉焼きをのっけて、出来上がり☆

こんがり焼かれたお肉とじゃがいもが、シャリシャリの玉ねぎとにんにく風味のご飯とあいまって、すごく美味しい。
ロコトの辛さも、これまた後を引くのです。


一見、なんとも単純な料理なんだけど、「早い・安い・旨い」の三拍子揃った、日本でいう牛丼みたいなもんなのかも?!

「シルパンチョ」っていう名前も、なんだか響きが可愛いでしょ?

えがお

2008年05月20日 | 協力隊としてのお仕事日記
「日本では何語をはなすのー?」

「なんの食べ物がすき?」

「兄妹は何人?」

「犬はすき?」


いつも質問攻め。
でも、自分がもしこの子みたく子どもで目の前によくわからん外国人がいたら、こんな感じなのかな。



自分の職種(青少年活動)のいいところは、こうやって毎日子どもたちの笑顔から元気をもらえるところ。

チョリータ

2008年05月20日 | ボリビアの文化・食べ物・伝統など
南米一、人口の中で先住民族の割合が高いボリビア。
現在では55%が先住民族系といわれている。

そのボリビアにあって、「チョリータ」抜きにボリビアを語ることは出来ない。

チョリータ(cholita)とは、ボリビアやペルーにおいて、スペイン植民地時代の名残を残す伝統的な衣装を着た先住民族系の女性のこと。

チョリータを見分けるのはとても簡単。
彼女らを特徴づけるポイントは、地域によって特色は違えど、帽子と髪型と服装である。

・山高帽
・長い三つ編み
・ポリェラと呼ばれる、ひだが多い裾の広がったスカート

この格好はスペイン統治時代にスペイン人の妾となった人たちが当時のスペイン女性の格好をまねたことに端を発するという。

チョリータと呼ばれる彼女らは、ボリビア経済の縁の下の力持ちとでも言える、ボリビアを支えている重要な存在といっていい。
たくさんの市場、食堂やレストラン、様々な店など、多くの場に彼女らはいる。

そんなチョリータの多くは、貧困層にいることが多く、どちらかと言うと、リッチな金持ち地区にいるチョリータはほとんどが雇われた召使いで、アルティプラーノ地域の貧しい地区に、その多くのチョリータを見かける。

そんな毎日のように目にする彼女ら。
貧しい環境にありながら、誇り高き人たちでもある。
その「誇り」とやらは、たまにどうでもいいプライド精神のように見えることもあり、市場や店での対応は、「顧客サービスゼロ」といっていい。
愛想もなければ礼儀もない。お釣りは投げて渡すような人もいたり。

「ケツとプライドだけはデカイ」

とは、自分の意見だが(笑)、もちろん愛想よく親切なチョリータもたまにいるわけで、大好きなチョリータ友達も職場にいる。
個人的にはチョリータさん、嫌いじゃない。


日曜日に、土曜日にあったカーニバルの「余興」みないなミニ・カーニバルがあった。

どのチョリータさんも、日頃の憂さ晴らしかのように、みんな綺麗に着飾って、とても楽しそう。



どうしてこうもみんなおデブなんだろう



スカートはきれい



他のチーム



男性陣の踊り。もうみんな酔っ払ってる



ブラスバンド


チョリータさんの友達を作れたら、それはきっとボリビアの奥深い文化をまた一つ知るということ。

彼女らの話す「アイマラ語」のクラス、通おうかな。

生絞り100%

2008年05月20日 | ボリビア日記
ボリビアの大好きなとこ其の壱!

絞りたてオレンジジュース屋が乱立(!?)しているところ。



こんな感じの移動式手押し車が、人の多い場所だと3つも4つもある。
大抵は、おじちゃんか、チョリータ(アイマラ系先住民のおばちゃんの総称)さんらがやってる。



フレッシュなオレンジを3つくらいその場で絞ってくれて、いつもその場でコップ飲み。
グイッと!
一杯2ボリビアーノス。約30円。いつも継ぎ足しのおまけがある。

こんなフレッシュジュース、日本だったらプラスチックのコップに入れて~、氷もざくざく入れて~、「生絞り100%!!」とか謳い文句つけて~~・・って感じで400円くらいて売るんじゃないかな、といつも思う。


毎日の日課となった、新鮮なオレンジジュース。
おいしくビタミンC摂取してます☆


ある兄妹との会話

2008年05月18日 | 協力隊としてのお仕事日記
14日、水曜日。
ビーズを使ったマスコット作りクラスにて。

クラスの始めには子どもたちが、

「Buenos dias!! profesora ACO!!!」
(おは~ようござ~いますっ!アコせんせいっ!!♪)

というリズムある元気な挨拶をしてくれる。
とってもかわいい。


クラスが終わって片付けていたとき。

一人の10歳の女の子がやってきた。


女の子 「ね~ね~、アコ先生はママいる?」

アコ  「いるよー。でも日本にいるけどね。」

女の子 「そっかーいるんだ。ふ~ん。いいねー。」

アコ  「どうして質問するの?」

女の子 「わたしのママねー、今月はじめに死んじゃった。ガンていう病気。」



この会話中、女の子が終始笑顔だったのが印象的だった。
その笑顔は、母親の死を「現実」としてまだ受け止めてはいない、その「現実」を否定するかのようなものだった。
でもその笑顔も、100%の笑顔ではないのは見るのも簡単で、笑顔の裏に悲しさがあるのは確実だった。


彼女は9人兄妹らしい。

今日のクラスには(後から気づいたけど)兄妹9人中の3人がいた。
そしてその3人ともが皆揃って、アコの私物を盗むかのようなマネをして、注意を引くような行動をする。
そして他の子たちよりも甘えたがりで、アコの腕をつかみ、背中に乗っかってきたり。

その後彼女の弟(9歳)は、彼女に後から聞いたのか

「アコ先生ってママいるんだってね。そーなんだあ~。」

という言葉をいきなり笑顔でかけてきた。



家族や身内の死、愛する者の死は辛い。

まだ10歳未満の彼らにとって、「母親」の死がどんなふうに受け止められたのか正直自分には想像しきれないけれど、〝その日〟が彼らの人生の中での大きな節目になったということ、この先の人生の中で、ときにふと母親の面影を探すのだろうことは想像できる。

自分に出来ることは、ここで彼らに、好奇心や創造力が生まれるような楽しいひとときを提供して、それが彼らの未来への可能性につながることを願うこと。

どうかどうか、逆境に屈せずに、アンデスの大地さながらに強くたくましく、兄妹助け合って生きていってほしいと思う。




左側2人と、右側一人がその兄妹たち
クラスで作ったビーズのりんごを手に。

大好きな一品!

2008年05月18日 | ボリビアの文化・食べ物・伝統など
最近足繁く通うレストラン。
その名も〝EL INCA (エル・インカ)〟
訳すと、「THE・インカ」。ペルー料理のレストラン。

他に知っているラパスにあるペルー料理レストランは、比較的お値段が高いのだけれど、ここはとっても庶民価格!

今回は大好きな一品をご紹介。



ペルー料理の代表的なものの中に、『セビッチェ』というものがある(写真手前右)。

セビッチェは、魚介類をレモン汁に漬けてマリネ風にしたもの。

ペルーの本場ではきっともっと新鮮なものを使うのだろうけど、ここボリビアでは、チチカカ湖から捕れる「ぺへレイ」という、少し透き通った白身の鯛のような食感の魚を使う。

シーフードに縁のないここボリビアで食べるセビッチェは、本当に貴重な一品で、爽やかなレモンと香菜ハーブの組み合わせが最高な、日本人の口にもすごく合うお味。

いつも必ず付け合せに、マイース(乾燥させた大粒の白いトウモロコシ・写真手前左)、身を取ったあとの魚の骨や頭でダシをとったスープ(写真奥の右)、そして、この写真にはないけど、チチャ・モラダという紫とうもろこしを煮出して作ったジュースが出てくる。

ボリビア料理も美味しいのだけど(でもちょっと飽きた・・)、こういう胃袋を癒してくれるのが他国の料理。

ここラパスにはこういった選択肢があるから、自分はとっても恵まれた環境にいる隊員だと思う。

未だペルーには行ったことがないけれど、ペルーへ行ったことのある誰もが絶賛するペルー料理。
昔メキシコで出会った、ロサンゼルスで高級レストランで働いているという日本人は、過去にペルーで6年間修行したという。

ボリビアの隣国でありながら、チチカカ湖渡ればすぐそこでありながら、青年海外協力隊やJICA関係者は、特別な理由がない限りペルーへの渡航が禁止されている。
(1996年の在ペルー日本大使公邸占拠事件の影響による)


同じアンデスの国であるペルー。

何かとボリビアとは似ているとこがいっぱいのペルー。

いつか絶対行ってみたい。



結局、人種差別は無くならないのだ

2008年05月13日 | 想うことあれこれ・・・日記
先日、ラパス隊員のみんなとご飯を食べた。
そこに、世界中のいろんな国で過去働いていたことのあるこの国際協力分野では経験の深い60歳近い方もいた。

彼曰く

「最近、ボリビア隊員が現地の人と結婚する例が多いらしいけど、こっちの人は見た目がmoreno(スペイン語で「褐色」という意味)でしょう。
例えばアメリカとかで仕事を見つける場合、同じ能力があっても、白人とかに比べると全く不利だよね。こういうのをちゃんと考えないと。
人生はね、ズルく生きなくちゃね。」


これを聞いた人のほとんどは、こう思うかもしれない。
「国際分野での経験が長いのに、人種差別丸出しで、なんなんだこいつは!」と。

でも私は、「正直な人だ」と思った。
というか、現実の世界はこうなのだ。
善か悪か、というのではなく、これが現実なのだ、としか言えない。
国際分野での経験が長く、世界を見てきた人だから言える、嘘も偽りもない言葉なのかもしれない。


わたしは旅が好きだ。

でも、いつどこに行っても目に入る光景がある。
それが「人種の差」、そして「貧富の差」。

ほぼ99%、どこへ行ってもリッチな旅を満喫しているのは白人や日本人などの先進国の人間で、その旅を支えていたり、その旅を横目で見るだけの人間は、いつも必ず途上国の人間。
(↑この「途上国」という言葉も好きじゃないけど)

自分も前者の人間なのに、この光景にいつもうんざりするのは、きっと前述したような世界の〝変えられない・変わらない〟現実を無意識的にも知っているから。


よく、「差別反対!」とか「世界の貧困を失くそう!」という言葉を聞く。

いや、聞くというよりは、まさに自分の仕事である「JICA協力隊」のモットーがこんなもんだ。

もしこのブログ日記を読んでる人の中に、将来国際協力で働きたい人がいるとしたら、こういった言葉を気安く口に出す人には、ちょっと考え直すことを勧めたい。

こういう人はきっと、途上国の現実に涙し、すぐ感情的になり(もしくはすぐ感情的に行動し)、世界の悪にただ怒り、そして世界の「現実」に対する自分の非力さに幻滅するのだ。自分がそうだった。


世界中に蔓延する、そして依然として解決しないたくさんの問題がある。
人種差別、貧困問題、戦争、内乱、民族紛争など。

なんかもう、人間が人間である以上、これらの問題はそう簡単にはこれからも解決しないのだと思う。

それは、上記のようにこれらの問題の根底には、人間の潜在的な意識があって、これはもう道徳的な価値観や倫理でどうのこうのなるものではないから。


ここまで書いていると、国際協力分野で働いているくせにまるで未来に希望もないような感じだけど、そうじゃない。

まずは「現実」をこの目で見ないと。
夢や未来を語る前に、まずは自分の目の前に繰り広げられてる現実とやらを「知る」ところから。

ボリビアに1年住んで、いろんな途上国をこれまで旅してきても、まだまだ自分が知らない現実はこの世界にたくさんある。





ボリビアの路上にたくさんいる「靴磨き少年」。
中には6歳くらいの子どももいる。
お金のない子どもたちは、こうやってマスクをかぶり、学校の時間が空いてるときに路上に出て、日銭を稼ぐ。
(※一回の靴磨きは大体1ボリビアーノス=15円)




身寄りのない老人は、職もないので、ただひたすら路上で小銭をねだるしかない。
ボリビアには、こういった路上生活者を援助するほどの余裕がまだない。




標高4000メートルを、重い荷物を背負って仕事に向かう老婆。
このアンデスの厳しい環境と貧困が重なると、一体どれだけ老体に辛いかは想像に難くない。



ウユニ塩湖の事故に想う

2008年05月13日 | 想うことあれこれ・・・日記
普段ボリビアのニュースと言えば、大きな内容でも日本のニュースやYahooニュースにすらも載らない、まるで世界からほっとかされてるようなものだが、さすがに今回のは違った。

5月1日にボリビアの観光名所であるウユニ塩湖で起こった、日本人観光客5人、イスラエル観光客5人、ボリビア人(運転手やガイド)3人が亡くなった事故。






写真のように、丸焼けで遺体の確認に時間がかかったらしい。


今回の事故が起こってすぐにボリビア人たちが疑問に思ったのは、
『あんなだだっ広い塩湖で、何にもないような平原で、なぜ正面衝突????』ということ。

パンクや道を迷うことはあっても、正面衝突とは、ウユニ塩湖史上でも他に例がないのでは。

その後の警察の調べで、生き残った運転手のボリビア人が、酒を飲んでいた上、100キロもの速度を出し、さらに、日本人客を乗せた車が正面から近づいてきた際、右側に回避すると定めた交通法に違反し、左側にハンドルを切った疑いが持たれているみたいだ。

地元の噂では(あくまで噂)、イスラエル人たちが酒に酔っていて、無理やりボリビア人運転手と運転を交代した上での結果だったというのもあるが、定かではない。



実を言うと、去年の同じ日付5月1日に、私もウユニ塩湖にいた。


そのときも、今回の事件のように、大量のガソリンタンク・ガスボンベを搭載していたはず(何日も野外で料理をするため)
本当にだだっ広い、真っ白な白銀の世界を見て、まさか一年後に『正面衝突』が起こるとは思わなかった。

でも、こうしてボリビアに1年以上住んでいると、今回の事件の原因も少し理解できる。

まず、
●ボリビア人たちの運転のマナーの悪さ

スピード違反なんて当たり前。
安全意識は限りなく低い。
運転免許証も、途上国ではおなじみの「金で買う」ものらしい。
飲酒運転にも、全く罪の意識を感じていないように思う。

ラパス市内で暮らしていて、タクシーに乗ろうとしたら運転手が酒臭かったので乗車をやめたり、バスが走行中に煙を発してきたり(←原因謎)、曲がり道でも猛スピードを下げないバスにビビッたり、オンボロすぎるポンコツ車も、ボリビアではバリバリの現役だったりする。


以上を踏まえた上でもうひとつ
●ボリビアでは、事故や死はとても近いもの

2ヶ月前、知人の息子が崖から車ごと落ちて死に、1年前には友人の友人が車で正面衝突で24歳の若さで死に、その前にも友人の友人が事故で死んだ。

ボリビアに来てから、直接の友人ではないものの、「死」の訃報を聞くことが日本よりも多い気がする。


結局は『運』というのもある。
でも、今回の事故で家族を失くしてしまった遺族の方々の心中を思うと、同じ日本人として、ボリビアに住む者として、遣り切れない。


彼らのご冥福を心よりお祈りいたします。





【ウユニ塩湖】
南米ボリビア南西部の標高約3700メートルの高地にある塩湖。
面積約1万2000平方キロ。
塩分を含んだ水がわき、乾期には水分が蒸発して約20億トンとされる塩の結晶が一面の白い世界をつくる。
世界中の旅行者が憧れる絶景のひとつ。

魅惑の村 グアキ訪問

2008年05月08日 | こんなとこ旅しました日記
日曜日をつかって、「グアキ」という村へ協力隊の友人の仕事訪問へ、ハビエルと一緒に行ってきた!

ラパス市内からバスで2時間。
ここはペルーの国境近くでもある。
グアキという村の中心部から歩いてさらに20分。
本当に「村!!!!」という雰囲気の場所で、友人の「シローくん」は活動している。



左の体育座りをしている人物がシロー

彼の職種は「陶磁器」。

自分より半年後くらいにボリビアへやってきた彼は、大変、異色系な人物である。
大学時代に「日本語」を専攻していたらしいが、実際の会話では日本語なのに会話が上手く成り立たないことが多々あり隊員たちを煙に巻くのが上手い。
年上なのに敬語で話しかけてきて、腰は人一倍低い。
日本では山の中で草を食べて焼き物を作っていたそうで、たぶん、生存能力、野生の本能とかは人一倍強いのだと思う。
彼を見ていると、「協力隊って変な人多いよね」と昔友人に言われた言葉が頭をよぎる。



ハビエルとシロー。土の上に正座。



子どもたちと自分とシロー。笑顔がひきつっている。


この日はいつも20人くらいいる生徒の子どもが3人だけ。釜つくりを見学させてもらった。



仕事はちゃんとやってる



超手作りの釜。職人技です。

自分は、釜つくりや焼き物に関しては全くの無知なのだけど、適当にシローが用意してくれた「土」で、特性リャマ皿を作った!現在つくっている最中の釜が出来上がったらまたグアキに来て、焼いてもらう予定。



焼く日が楽しみ!

見学のあとは、3人でチチカカ湖を見に行ったり、お昼ごはんを食べたり、シローの家訪問もしてきた。

シローの家は、一瞬、どこかの「倉庫」かと思った。
これまでいろんな友人の「汚い部屋」を見てきたが、シローの部屋はダントツぶっちぎりの一位にあっという間にランクインしてしまった。超きたない。

でも、もしかしたら、シローは自分の感性を研ぎ澄ませるために、野生的に生き残る術を磨くために、敢えてこういう生活をしているのかもしれない、とも頭をよぎったが、すぐに我に返り、シローはこういう人なんだ、という結論で終わった。



パンにはカビが生え、みかんは干からびていた。


グアキという村は、人懐こい犬、ブタがわんさかいて、牛、リャマ、鶏が道を横切り、シローという奥の深い(深すぎる)人物が存在する、ステキな村である。
チチカカ湖の湖畔からも徒歩5分といった感じで、景色も素晴らしい。

もし、ボリビアのラパスへ起こしの際は、グアキを訪れることをお勧めしたい。

そこで「シロー」という名の日本人に会えたならば、きっとこれから起こりうるボリビアでのハプニングにも驚かない肝をもつことができるだろう。



徒歩5分のところにあるチチカカ湖!
古くなったトトラ(葦の舟)の上でワンコがこちらを見ていた。



グアキの村には、麦畑が広がる。




農家の庭につながれていたブタ。かわいい。

まぐろと希望と。

2008年05月08日 | 想うことあれこれ・・・日記
『2008年1月13日』という日付を、自分は一生忘れないだろう。

この日、ボリビアに来た当初から飼っていた、愛犬「まぐろ」を失った。
まぐろはまだ10ヶ月だった。

まぐろの年齢と、自分のボリビア赴任月数が同じだったため、まぐろの成長がまるで自分の成長のようにも思えていた。

正直、自分の協力隊の仕事以上にまぐろ中心の生活を送っていた。
一日2時間は散歩し、仕事を早く切り上げてでも、まぐろを公園に連れて行ってあげてた。
まぐろを通した犬友達も多かった。
エサも手作りに凝っていて、自分よりか野菜もふんだんにある健康的な食事をしていた。
出来るだけ一緒にいる時間を作るため、許可のでた仕事先にはまぐろも連れていき、子どもたちのアイドルだった。
ラパスから8時間ある他県へ夜行バスで向かうときも、まぐろを連れていき、運転手にバスの下の荷物入れに入れろと言われ激怒し、警察沙汰にして見事勝った(下に入れずにすんだ)こともあった。
寝るときもいつも一緒。ベッドをまぐろが占領して、自分は何だか隅っこで丸くなって寝たこともあった。
嫌なことや悲しいことがあっても、まぐろが全部癒してくれた。

とにかく、全てはまぐろだった。


まぐろがいなくなって、今でもう約4ヶ月経つ。
情けないほど精神的に弱ったけど、泣いてばかりでは前に進まない。

ちなみに、これまでにやったことといえば・・。

・200ドルの懸賞金を賭けた捜索チラシを5000枚(詳しく数えてないけどもっとあると思う)作り、まぐろがいなくなった地域の全ての電柱や市場などの至るところに貼った。

・大きなスタジアムでサッカーの試合があるときは、そこの入り口に立ちビラを配りまくった。

・大手新聞会社3社に、捜索願いの広告も出した。

・実際にまぐろを買った「ペット市場」では、たまに盗まれた動物も売られると聞き、この市場にも毎週のように行って張りこんだ。

・ 自分の職場を、まぐろが消えた公園を必ず通る場所にある施設に変更し、いつも通勤中のバスの中から探せるチャンスをつくった。

そして、4ヶ月経った今、もう習慣化したようなことのひとつに、『保健所通い』がある。

日本のように、ボリビアにも「保健所」なるものがあり、話によると、月~金の早朝に、保健所の車が町を走り、狂犬病の恐れのある犬(見た目で分かる)や、首輪の付いていたりする迷い犬を捕獲し、ここへ連れて保護しているという。
でも、一体どんな基準でもって犬を捕獲しているのかは、未だによくはっきりしない。なぜなら、保健所の周りにも野犬はうろうろしているし、曜日によって捕獲犬数の差が激しいからだ。曜日によっては捕獲犬数ゼロもある。ちゃんと仕事してるんだろうか疑いたくもなるのだ。



保健所の入り口。
多数の迷い犬のポスターが貼られている。

日本ほど日数は短くないが、保護される日数は一週間であり、保健所内には各曜日ごとにケージが設けられ、それぞれ一週間経つと、「処分」される仕組みになっている。





この訴えかけてくる眼差しが、犬好きには辛い・・・・


自分はここに、あの日以来、毎週必ず来ている。
日本に一時帰国していたときは、もう一人のまぐろの飼い主ハビエルが通っていてくれた。

昨日もいつものように来たら、一瞬見間違うかのようにまぐろにそっくりな犬がいた。



彼は、他の犬と喧嘩でもしたのだろうか、口から血が出ており、ものすごく何かに怯えていた。「まぐろ??」と呼んでも、ちっとも気に留めない。

確認のためハビエルに来てもらい彼を見てもらったら、一目で「この犬はまぐろじゃないよ」と言った。言われてみれば、耳の色がまぐろの色じゃない。まぐろに会いたい気持ちが、なんだか自分を迷わせていたみたいだった。


昨日はこの保健所の人に、「もう4ヶ月か・・。難しいですね。」と言われた。
正論なのかもしれないけど、こうも他人に言われるとものすごく腹が立つ。だからこのセリフはもちろん無視した。こいつは飼い主の諦めたくない気持ちを理解していない。

誰に何て言われようと、協力隊の任期が終わるまで、この保健所通いは続けるつもりでいる。よくある言葉だけど、諦めたらそこで終わりなのだ。諦めないで希望をもち続ける限り、まぐろとの再会の日は、もしかしたら来るかもしれないのだから。

一時はもうボリビアに生きる熱意も情熱もなくなって、協力隊辞めようとも思ったけれど、まぐろがボリビアのどこかにいる限り、ここを離れるわけにはいかない。

今の自分は、仕事を全うするために日々精進する協力隊の顔をもった、我が子を探す親なのだ。

これからも、希望をなくさないで、探し続けていこうと思う。

まぐろ、どうか、その日まで元気でいてね。



まぐろの捜索ポスター

隊員総会 (4月26日の日記)

2008年05月08日 | 協力隊としてのお仕事日記
年2回ある、「隊員総会」がやってきた。
今回は参加者としてではなく、「総会委員」として。しかも自分は何故か「委員長」だった。

この総会は、全協力隊員やJICA職員も参加する、一日がかりのイベントで、目的は隊員同士の縦と横のつながりを深めたり、情報交換だったりする。
内容はそのたびの総会委員次第。

今回自分ら総会委員が決めた総会テーマは、
Un mañana un poquito mejor para ti (明日のキミはちょっとスゴイ)。

内容は、各隊員の今後の活動にいろいろ役立ってもらえたり、刺激になるようなもので、
① ある隊員の活動インタビュー
② OB講話
③ 経済市場調査隊員のおもしろ講座
④ 健康管理員による「心の相談室」
⑤ スペイン語講座
⑥ 植林報告

などなど。。。



こうして文字だけで書いてもその面白さは全く伝わらないのだけど、今回の総会事後アンケートは予想以上の大評判だった。
「これまでで一番よい総会でした!」
「総会委員さんたちの努力が伝わる総会でした」
「本当に最高の総会でした!お疲れ様です!」
など。JICA職員さんたちからも大好評。

実際、自分たちの『凝りよう』はスゴかったと思う。
ビデオ撮影したり、ラパス市役所までインタビューしに行ったり、BGMの音楽に凝ったり、ライト照明にも凝ったり、会場内の装飾にも凝った。たったこの一日のために、2ヶ月は準備に費やした。4月に入ってからの忙しさは、寝る時間も惜しんでまるで日本人のサラリーマン並み。



今回一番凝った撮影(スペイン語講座のスキット用)





我が家でも撮影は行われました。。。

1分刻みの当日の動き表もつくり、リハも前日までやって、当日は誰一人慌てることなく、緊張しながらも本当に素晴らしい総会を作りあげたと思う。
自分は、総会後の懇親会の費用を浮かせるために、「総会石鹸」と名づけた手作り石鹸を当日販売し、いい感じに売り上げることも出来た。



当日の総会委員の様子



各テーブルには手作り札



前回の植林現場へインタビュー行ったときにもらった苗木

ノリとしては、まるで「文化祭」みたいなものなんだと思う。
でも、ボリビア全土に散らばる全隊員がこうして一同に集まり、同じときを過ごしてコミュニケーションしたり、今後の活動への刺激をもらったりして、本当に意義あるものなのだ。

そしてこういう意義あるものを「総会委員」として一から仲間と作ってこれた喜びも、このボリビア協力隊人生の中で、とても最高の思い出になった。

今回、総会委員として一緒にやってきた仲間↓

考えてみれば、彼らとこうして何かを一緒に作りあげていくっていうことは、もう一生ないのかもしれない。
『一期一会』っていう言葉の意味を、今になって思い知らされる気持ちだ。
自分ひとりだったら、とても今回のような出来にはならなかった。
ひとりひとりが、それぞれの個性や特技を生かしてこそ出来上がった今回の総会。

今回のメンバーとの出会いに感謝し、そして、こうして成功まで導き見守ってくれてた(!?)天国のおじいちゃんにも感謝!


総会委員長として「閉会の挨拶」で言った言葉

『信は縦糸、愛は横糸、織り成せ、この世を美しく』


この言葉は、自分がボリビアに来る際に大学のゼミの人がくれた言葉であり、同期のきぬこがボリビアを去る際に自分が送った言葉でもある。

初めて聞いたときはこの言葉もしっくりこなかったけど、今になって、この言葉の深い意味も分かってきたような気もする。。。



閉会宣言



総会が無事終わって、総会委員の皆と!




標高4000mで働く!(4月17日の日記)

2008年05月08日 | 協力隊としてのお仕事日記
世界最高所にある首都として知られる、私の住む町「La Paz ラ・パス」。
ここは標高3650メートルもあるが、更に高い標高4000メートルに位置する「エル・アルト」という町がラパスに隣接している。スペイン語で「El Alto」と書くこの町は、訳して『高いところ』、ズバリそのまんまなのである。

ボリビアは南米一、インディヘナ(先住民族)の占める割合が高いが、ここエル・アルトはその割合が更に高く、三つ編みの髪に山高帽のアイマラ系の人々の姿が行きかい、アドベ(日干し煉瓦)の家々が立ち並び、アンデスの乾いた大地が広がる。

 このエル・アルトにある教会の施設で、私の所属しているNGOが、田舎地域にある各児童施設で働く先生方約300人を対象に、技能養成を目的とした研修を、4月の各週3日間ごと泊り込みで行った。内容は、このNGOの理念や支援概要の講習の他、性教育や衛生講習、自然物を使った教育マテリアル作りの紹介など。



参加者さんたちの作品。



小麦粉を使った人形つくりの作品



小枝や小石を使った作品



参加者の多くの先生方は、教師としての仕事以外に、農業を兼業している。田舎地域では、教師の仕事だけでは食べていけないのだろう。中にはチリ国境の田舎から、一日かけて来る参加者もいた。ほとんどの人々が「アイマラ語」話者であり、女性参加者に至っては、ほぼ全員がアイマラ系先住民の衣装を着ていた。



参加者のママたちに混じって赤ちゃんたちも。













同じNGO所属である隊員の友人は、エプロン・シアターを使ったユニークな方法で栄養指導をしたり、先輩隊員が作りあげていった「BUENA SALUD」というイラスト付きの教材を使って経口衛生指導をした。どれも視覚的に非常に面白く、先生方は皆熱心に耳を傾けていた。



彼女が衛生について教えてるところ


↑参加者の18歳のママさん。栄養士の友人曰く、この赤ちゃんは恐ろしく栄養失調で、既に片目が上手く開けられていない。。。

私は、紙とストローという身近な材料で簡単に出来る人形を作り、「緑の大切さ」と「ゴミ問題」に関する劇を参加者の前で模範演技し、その後、先生たちはこれを例にして各自それぞれ興味深い人形と劇を作った。「家庭内暴力」、「水の安全」、「ポイ捨て問題」など、即席とは思えないほど豊かなストーリーを各自作りあげ、アンデス動物の「リャマ」がよく登場してくる点が、ボリビアらしくて面白い。


↑劇を模範演技



参加者のパパさんたちの上演



歯磨きの大切さを教える教材つくりも自分らが担当した



口が開くとこーなってる



上記のネコさんをママさんたちが作ってるところ



色塗り風景



個性豊かなネコさんが出来上がりました。ちょっと顔こわい・・。


これ以外にも、日本の代表的な「折り紙」講習を私と友人とで担当し、各講習の合間には、手遊びやリズム体操などを参加者たちと輪になって行った。日本の幼稚園や小学校でよく使われる歌や手遊びもスペイン語にし、「じゃんけん」ではリズム良くグー・チョキ・パーが出せない人がいたものの、皆、子どものようにはしゃいで参加してくれていた。



折り紙教えてるところ





「あたま、かた、ひざ、ポン!」の歌あそび



じゃんけん列車



比較的田舎の地域では、情報不足、知識不足、材料不足などによって、教育の場に問題が生じることもある。今回の講習では、そういった点をカバーし、よりよい教育現場を作ってもらうことを目的にしていたが、結果的に、先生方はこの短期間で多くのことを学んでいってくれた。


どの先生方も、子どものような澄んだ目で、好奇心いっぱいに講習に挑んでくれていたのが印象的だった。遠い日本という国を最後まで理解できなかった先生方もいたが、彼らの熱意が子どもたちに伝わり、そしてボリビアという国をもっと良くしていってくれたら、これ以上の私たちの幸せはない。



自分のカウンターパートのウィリー(左)と、同僚たち



参加者全員と一緒に!!




ボリビアの折り紙名人

2008年05月04日 | 協力隊としてのお仕事日記
『インド人もびっくり!』
の如き、
『日本人もびっくり!』
な折り紙名人がいる。

〝折り紙=日本人が一番上手に折れる〟
というイメージを、ここまでも覆してくれたボリビア人。

彼の名はブライアン(男・21歳)。今、自分の働いている児童施設にヘルプとして学業の合間に来てくれている。彼も昔ここの児童施設に通っていたらしい。

折り紙というのは、ここボリビアでも先輩協力隊員の影響もあり、大分知名度も上がってきた。紙だけで多様な世界が広がる折り紙は、ここの教育現場でもとても需要があるのだが、それをしっかり教えられるボリビア人はまだ少ない。


↑折り紙クラスの模様

そんな中、出会ったブライアンという男。

彼は、もうただの折り紙ではなく、まさに『アート』な折り紙の名手だった。

一辺が1mくらいある紙を使って、天使を折ってみせてくれた時はびっくりした。
顔、手、羽、服などの細かい部分全てがたった一枚の紙で出来てるなんて。。


↑折り目が複雑なので、スプレーで少し濡らしてからはじめるらしい・・。
プロです・・。


↑出来上がった「天使」の折り紙。左は同僚のファビー28歳。

よほど私の
「わあーーーー!!!!すっごいよブライアン!!Que bueno――!!!!」
という毎回の驚愕した反応を気に入ってくれたのか、その後ブライアンは毎回のクラスで新たな新作を持ってきては、日本人である私を驚かしては得意げになっている。
こないだはなんと「ドラゴン」を折ってきた。ひとつひとつの鱗がリアルにあって、ヒゲや手足も見事に再現されていた。本当にタダモノではない。

彼の良いところは、いつも「どうだ、すごいだろ!」とか絶対言わないところだ。驚愕している私を見ては、黙って(誇らしげに)ほくそ笑むのみ、なところが憎い(笑)

ボリビア人にしては珍しい一重の目をもつブライアンは、いつも彼女のパオラ(女・19歳)を連れて施設にやってくる。

先月4月は、ブライアンとパオラの誕生日があったので、日本の手ぬぐいと髪飾りとメッセージカードと小さな人形を添えて、プレゼントした。とても喜んでくれていて、こっちもうれしくなった。


↑自分のあげたプレゼントに喜ぶ二人。

彼らは、遠い国、日本からやってきた私にすごく親近感を抱いてくれているのか、まだ出会って月日も浅いのに、毎回とても良くしてくれている。

これまで自分は結構折り紙が出来るほうだと思っていたが、今では自分の未熟さを思い知らされる毎日。そして、折り紙のもつ魅力と無限に広がる世界に、改めて感動する。

今日もボリビア人ブライアンから、日本人の私への「折り紙講座」が繰り広げられた。
日本の文化の一つである「折り紙」を、ボリビア人からスペイン語で習うのも、また一興なもんである。

アンデスの南国! (4月27日の日記)

2008年05月04日 | こんなとこ旅しました日記
総会が終わった翌日の4月26~27日の一泊二日で、友人らと一緒にラパス市内から車で3時間の「RIO SELVA」というリゾートに行ってきた!

今回は、ボリビア人の友人マルセーロが、リゾートを超格安料金で全員分予約してくれ、日頃の生活とは別世界を味わってきた。ちなみに値段は、普通なら一泊4食付きで80ドル(一人)のところを、半額以下の35ドル。日本では考えられない破格の値段!

別世界と言えば、リゾート!という他に、ここは標高がラパスよりも低い(2000m以上低いと思う)ため、同じラパス県とは思えないほどアンデスの面影は全くなく、緑が生い茂り、野生のオウムや色鮮やかな鳥が舞い、木にはコーヒーの実やフルーツが実り、空気はしっとりと暑く、南国ムードいっぱいなのでした!


↑バナナも実ってる☆




↑太陽がきもちいい☆

リゾート内にはプール、プールに付属の滑り台(迫力満点!)、ビーチチェア、ビリヤード、卓球、バーなど、楽しめる空間もたくさん。


↑プール。


↑すべり台ではしゃぎまくりのマルセーロ


↑チカちゃんとハビエル。ジェンガで盛り上がりました☆

食事もどれも美味しく、ケーキも食べ放題だし、総会の疲れも癒されて、友人らと思いっきり楽しく遊べ、本当に満喫してきました。


↑食事はバイキング方式


↑ヒサとノン。ラパスの同期。


↑おいし~☆




こうやって格安で時間を気にせずいろんな所へ旅したり遊んだりできるのが、協力隊の醍醐味のひとつかも・・!


↑南国気分☆


↑門番(!?)のチャウチャウ2匹。あつそーーー。


↑おつかれさんでした。


↑フロントにあった花。ラパスでは見たことがないような南国ちっくなお花でした☆

お父さんの入院で思ったこと

2008年05月04日 | 想うことあれこれ・・・日記
前回の日記で、一時帰国の際に脳梗塞で倒れたおじいちゃんのお見舞いをしていたことを書いたが、偶然にも同じ時期にお父さんも倒れ、今回の一時帰国では、2つの病院へお見舞いしに、行き来していたのでした。

お父さんの病名は『心房粗動』。

絶食をしたり、大掛かりな手術をしたり、途中で盲腸が見つかり切っちゃうわ、血尿は出るわ、手術後の痛みで笑うことすら出来ないわで、見ていてホント、激動の入院生活だった。

でも、おじいちゃんの入院でも思ったことだけど、誰かが病気になって入院したりして、予想以上の精神的ショックを受けて大変なのは、もしかしたら本人よりも、その家族かもしれない。
もちろん本人も身体的・精神的苦痛があるのは分かる。
でもその家族の身体的・精神的負担も、結構バカにできない。
今回、おばあちゃんとお母さんを見ていての正直な感想。

だからと言って、当の本人のお父さんをどうのこうの言っているわけではない。
今回の病気だって、いろいろな環境要因(仕事とかストレスとか)や、食生活の問題とか、これまでの生活の総結果みたいなものだったのかもしれない。それも、全ての根底には、家族を支えるためにこれまで奮闘してきてくれたお父さんの姿があるのだ。

だから、今回の入院で「もっと野菜を食べるべき!」とか「サプリメントに頼ってちゃだめだ!」とか「タバコなんか絶対やめるべき!」など、いろいろ注文したけれど、結局のところ言いたいのは、どうか健康で長生きして欲しいということ!

協力隊の平均年齢は、約29歳という。
よって、その親御さんたちの年齢も、還暦前後といったところだろうか。
2年間の異国での生活の中、日本での急な訃報に涙して帰る隊員も少なからずいる。
もちろん日本の親御さんたちの、娘息子を異国に送り出す心中も分かる。

日本でも異国でも、双方に健康で元気でいるのが、一番の親孝行であり、娘息子孝行なのだ。
お父さん、どうか、これからも元気でいてね。
お母さんと仲良く!!


↑入院生活も板についてきた頃の写真


↑ひもじい量の食事。しかし絶食に比べたら。。


↑一時退院の際に嬉しそうに魚を買ってたヒトコマ。


↑一時退院の際に美味しいお蕎麦を食べにいった。お母さんとおばあちゃん。


↑あっことお父さん


↑手術成功記念写真☆


↑神奈川の厚木から、おじちゃんとおばちゃんも駆けつけてくれた。もしかして10年ぶりくらいの再会!
お父さんの病気が呼び寄せた幸せな再会のひと時でした~☆