★チチカカ湖でまぐろを釣る★ En JAPON

ペルー・ボリビアから帰国しました。旅の模様を写真と一緒にアップしてます。
●◆最新更新日→2009年4月22日◆●

ボリビアの鱒(トゥルーチャ)

2007年06月17日 | ボリビア日記
ラパスにいる同期は、自分を含めて3人いるが、今日はそのうちの一人「トゥルーチャ(鱒)隊員」と呼ばれるノンちゃんの仕事先も出るという、「トゥルーチャ祭り」なるものへ行ってきた。

現場へ着くと、ものすごい人出だった。さすが時間だけはやたらあるボリビア人。こういうイベントには目が無い。


↑基本、みんな暇。


↑焼き。

ノンの仕事先であるCIDABもブースを構えていて、彼女も続々とやってくる客をさばきつつ、トゥルーチャの燻製やチップス、そして目玉商品であるらしいピチピチのトゥルーチャを売り込んでいた。


↑大阪育ちの彼女は売り込み上手。休日出勤には頭が下がる。


↑今回目玉商品のピチピチ・トゥルーチャ。

ちなみにボリビアには海はない(が、何故か海軍は存在する)。
しかしペルー国境をまたぐチチカカ湖という琵琶湖の12倍ある湖はある。国内で売られている魚といったらほとんどがここから来たもので、そして種類も少ない。いろいろ数えれば種類があるらしいけれど、自分はこのトゥルーチャ(鱒)とぺへレイ(トウゴロイワシの一種)しか食べたことがない。

日本では、岩手生まれの両親(旬の時期になると毎日カツオを食べ、仕事は鮮魚のプロの父と、好物はウニとホヤの母)の元で育ち、栃木県に住みながらも日々魚を食べることの多かった自分としては、はっきり言ってこの肉と芋だらけのボリビアの食生活には多いに不満がある。トゥルーチャもぺへレイも、この日々の生活の中ではご馳走だけれど、きっと両親が口にしたら一体何て感想を吐き出すんだろうと、いつも思う。

2年後日本に帰国して、お刺身を口にしたその瞬間、たぶん自分は美味しさのあまり倒れると思う。
ていうか倒れてもいいから食べたい。

ハビエルのママ、帰国。

2007年06月16日 | ボリビア日記
3週間くらいボリビアにいる息子たちの顔を見にやってきてて、自分にもたくさんのペルー家庭料理を振舞ってくれたママがついにペルーに今日帰った。

自分ですらなかなか上手にまぐろを洗えないのに、ママは「お~、まぐろ~。いい子にしてんだっぺよお(訳推測)」とまぐろの鳴き声は聞こえないものとし、いつもガシガシ洗っていた。そんな勢いのママに、まぐろも降参状態で、あこには噛んだり吠えたりするのに、ママには一切そういうのは無かった。


↑無抵抗状態


↑水浸しになると「誰?」って感じに様変わりするまぐろ

ママなら、たぶん日本の田舎とか行ってもすぐなじんでいそうだ。東方地方が合っている。

ママは60歳くらいなんだろうけれど、心はたぶんまだ17歳くらいなんだと思う。
嬉しけりゃ遠慮なく笑い、喜びを分かち合うためきつーーーーく抱擁してくるし、悲しいことがあると一目も憚らずオイオイと泣く。あこを見る目が、まるで施設の子どもらの好奇心いっぱいな目と同じだ。「ああ、こういう生き方もありだな」と思えた人だった。

ハビエルとそのお兄さんエドガーが経営する店まで行き、あこもママの見送りに付いていった。まぐろの表情にはなぜか安堵感が感じられた。


↑左から、エドガー、ママ、あこ&まぐろ、ハビエル

タクシーにママを乗せるとき、ハビエルが100ドル札をそっとママに手渡していた(100ドルって言ったらこっちでは大金)。「ママもこれで何か足りないものを買って。ペルーの兄妹たちにも渡してあげて。」と。嗚呼、なんてステキな家族愛。


↑その現場

ボリビア来て、初めて「南米の家族の風景」を感じさせてくれたのが、このママだった。だから彼女とこの家族全員にはすごく感謝している。

帰り道のまぐろの足取りは、ちょっとスキップのように見えた。






JICAなんか嫌いだ!

2007年06月15日 | ボリビア日記
現在住んでいるホームステイ先では、やたら家賃請求してきたり毎週のようにパーティーがあってゆっくり部屋で休めないし、買ってきた食材を勝手に使われてたり、26歳の妊娠中の娘の朝たまにおこすヒステリー(部屋で号泣、何か叫んでいる)が気持ち悪かったり、そして何より、ママ(小学校教師)の超マダムちっくな雰囲気と高圧的な「何様?」と問いかけたくなるような態度が、部屋のドアを閉めても染み込んで来るようで、ちっとも心から安らげる空間ではない。

彼らは表面上良くしてくれるが、なんだかんだいって、他のボランティア同期も言うように、自分たちJICAボランティアは、「金づる」でしかない。

自分が毎月払っている200ドルは、そっくりそのまま、現在スイスに留学中の息子に送金されている。この200ドル、半分の100ドルは配属先から支給されているものだけれど、残り半分の100ドルはJICAからのもの。つまり、日本国民の税金を基にしている。

なんでこんな精神的ストレス払いながら、こんな金持ちクソったれの家庭の息子の留学費用を日本国民の税金使って自分は払ってるんだ?
毎日目にする子どもたちは、鉛筆一本ろくに買えないのに。
この差は何?

こういった悶々とした気持ちと精神的な苦痛から、JICAの担当調整員と相談した。なんと3時間。マンツーマンで!!

が、結局返ってきた返事は、

・ ボランティアはもっとコミュニケーション努力してもらわないと。
・ ストレスの問題って、形では分かりませんしねー。
・ そう簡単に家変えられないんですよ。事務手続きも簡単じゃないし。
・ もうちょっと頑張ってください。他の皆さんもこういう悩みあっても数ヶ月後には案外収まってるものですし。

「はああああああああああああああ?!?!?!?!」って感じだ。
ストレスを馬鹿にすんな!「形」で見えてきてからじゃ遅いんだよアホ!
こっちだって毎日仕事抱えてるし、じっくり取り組みたい。本来リラックスできる場がこんなんじゃ、進まねーんだよ!家なんていくらでも探せばあるし、選択試がいくらでもあんのに現状維持は無いだろ。大体、事務手続きとやらを億劫に感じんな。なんのための「調整員」なんだよ。仕事しろ仕事!!

もー疲れた。この交渉。

一体どうなるんでしょう、私のこれからのボリビア生活。

とりあえず今は「JICA」がムカつく。

チャムがやばい

2007年06月13日 | 協力隊としてのお仕事日記
朝、日本の家から「チャムがやばい」という電話がはいった。
14歳になるチャム。ただでさえ「てんかん」の病気をもっているのに、この老体にこれから来る日本の猛暑は耐え切れるんだろうか。
てゆーか、今日明日すら心配だ。

JICAの中では前例が無いらしいけれど、もしチャムに何かあったら、即帰国するつもりでいる。

今日はそんな不安感のまま仕事に向かった。

毎週水曜日はCESDIという名の施設へ。ここでも昨日と同じく種まきアクティビティー。しかし昨日と違うのは、鉢とするペットボトルを皆で拾いにいったことだ。ペットボトルついでに、施設の周りのゴミ拾いも皆でやった。


↑全員集合


↑ゴミ拾いも楽しげ!


↑全員集合2


顔で笑って心で泣いて、とは今日のこと。頭はチャムのことでいっぱいだった。

夜、夕ご飯を誘われたので、ペルー人ハビエル宅へ。ママとお兄さんも一緒に皆で食べた。
その時にチャムの話をしたら、ママは「そのくらいの年なら死んでもおかしくない年齢かもねえ・・」と言った。
200%分かりすぎるくらい分かってた事実をこう他人に言われるとショック。

そして夕食後、隣の部屋でキャンキャンまぐろの鳴き声が聞こえるかと思って見て見たら、ハビエルのお兄さんがまぐろのしっぽに洗濯ばさみをつけてそれをぐるぐる追いかけてるまぐろを見て笑っていた。

超ショックだった。ショックすぎて涙が出そうなほど。
遊びのつもりでやってたんだろうけれど、既に我が子のような存在のまぐろにそんなイタズラすんなバカヤロー!!!!!

チャムのこともあり、今日ほど「犬」に対して敏感な日はなかったと思う。

チャムよ、頼むからあと2年待ってくれ!


種まき

2007年06月12日 | 協力隊としてのお仕事日記
毎週火曜日は家からバスで30分くらいかかるValle hermoso(バジェ・エルモソ『エルモソ谷』)という地域にある施設でのお仕事。
ここへ行くには、138番のミクロと呼ばれる大型のバスで行くルートしかない。ちなみに運賃は1ボリビアーノス(15円)。


↑すごい車体も古い。いい意味でアンティークな感じ。

一体ここの標高がどんだけなのかは知らないけれど、自分が住んでいるラパス市内を一望できる、とても眺めの良い小高い場所にある。

今日は子どもたちに持ってきてもらった家で使い終わったペットボトル(無い子はゴミから拾う)を再利用して、子どもたちオリジナルの「鉢」を作り、種を植えるアクティビティーをした。

切ったペットボトルの淵をギザギザにしたり、種の種類の絵を描いたりそれぞれ個性があっておもしろい。


その後皆で裏山を登り(←本当に息が切れる)、土を採取し、施設に戻って自分が用意した「トマト」か「二十日大根」の種のどちらかを選ばせて皆で種まき。
みんな家の畑なんかで種まきの経験はあるようだけれど、自分自身の「鉢」を手にしてそこに種まきというのは初めてだったみたい。すごく皆喜んでいた。


↑子どもらに「標高が高いから息切れる」という感覚は無いと思われる。

自分が小学生の時にも、ひまわり、朝顔、ミニトマトなんかの種を植えたっけ。
芽が出てきてその後の成長を水遣りしながら見守るのってすごく楽しかったっけなぁ。。。

自分としては、これから自分の家でボリビアちっくな植物を植えるつもり。
芋みたいな形した「マカ」がよく路上で売られてるから、それも植えてみたいし、日本では見たことないような種類の花の種もたくさん売られてた。コカも植えてみよーかと思ったところで、自分、コカ茶がやっぱり嫌いということに最近改めて気づき、これはやめとこうと思う。

ボリビアでしか出来ないことはこんな感じでいろいろある。
やっぱ、リャマ飼いたい夢は未だ消えていない。


↑この子はいつもあこのとびきりの笑顔を見せてくれるので癒されっぱなし☆


↑完成図。しかし、この数日後に他の子どもたちに盗まれたらしい・・(汗)

まぐろ危機

2007年06月09日 | ボリビア日記
最近まぐろの元気が無い。
水状の下痢、これまた水状の(胃液みたい)ゲロを繰り返し、好物の骨付き肉にも目をやらない。

原因としては、
①一人で遊んでいる最中に間違って異物(ビニールや紙)を食べた
②半ば腐りかけていた肉を「茹でれば大丈夫だろう」というアコの甘い期待を寄せてこしらえた骨付き肉

この二点が挙げられるのだけれど、たぶん②の確立が高く、その責任をヒシヒシと感じていた。

まぐろの元気の無い状態がついに三日間を超えたので、ペルー人の親友ハビエルと一緒に、まぐろを動物病院に連れていった。

途中、「腹が減っては戦は出来ぬ」ということで、ペへレイという名のチチカカ湖で捕れた魚の料理を、まぐろを横目に二人で腹ごしらえ。ごめん、まぐろ。


↑うまい。

向かった一軒目の動物病院の看板には、とても心休まる雰囲気とは程遠い看板を下げており、しかもそこの医者は、まぐろを一目チラッと見ただけで大した診察もせず、「この薬を買えばいいよ」みたいなことを言って汚い字で書いた処方箋を渡してきた。
即、アコとハビエルは「ダメだこのヤブ医者」と悟り、一分もしない内にこの病院を出た。出る間際にアコは、「Eres muy malo!!!(あんた最悪!)」と言い残しておいた。


↑看板からして「優しさ」を感じられない。

次に向かった動物病院では、40代位の快活なおばちゃん医者が待ち受けていた。
まぐろの症状を説明すると、彼女は体温計をまぐろのおしりの穴に入れて熱を測ったり、体のあちこちを診察した。


↑無抵抗のまぐろ。

そして、ビタミン剤の注射と下痢と嘔吐に効く注射をまぐろに打ってくれた。


↑背後に迫り来る恐怖・・・。


↑身悶えるまぐろ。

まぐろが暴れたにも関わらず、彼女は常に平常心を保ち、最後までそのプロ精神を発揮し、しっかりとまぐろの診察をやってのけてくれた。
さっきのヤブ医者とのこの違いは一体・・?

とにもかくにも、その後まぐろはすっかり元気になった。

これからは、確信の持てる安全な肉だけをあげようと思う。


↑すっかり元気に仕事中のまぐろ。

ペルーの母ちゃん

2007年06月08日 | ボリビア日記
いつも毎度お世話になっているペルー人兄妹宅に、先週からペルーより彼らのママがボリビア訪問をしに来て滞在している。

ママは現在55歳くらいらしく(定かでは無いらしい)、8人の子どもがおり、ものすごく明るく陽気で素直で、一目会った瞬間からアコを気に入ってくれて可愛がってくれている。

そんな彼女が、ペルー料理を食べてもらいたいとばかりに美味しい料理をこしらえてくれた。

アコはこの8人兄妹中、ハビエル(5男)、エドガー(次男)、シェイラ(7女)と仲良くさせてもらっていて、他の兄妹たちとも電話で話したり、プレゼントをもらったりしていて交流がある。「8人兄妹とはこういうものなのか」と思わせるくらい、彼らは家族愛に満ちていて、そして他人にも優しい。人の悪口を言ったり、ネガティブな発言というものが無い。いつもユーモアがあり、アコの拙いスペイン語もいつも一生懸命に聞いてくれる。

そんな兄妹たちのママは、やはり人間的に出来た人で、そしてそんなママを兄妹たちはすごく労わり愛情たっぷりに接する。たぶん、彼らに『反抗期』という言葉は存在しないのだろう。みんな「ママ」と呼んでいるけれど、日本語に訳すと、「お母さん」というよりは「母ちゃん」という訳の方がしっくりくるといった感じ。


ハビエルと近くの市場で、ニンジン、玉葱、牛肉、トマト、唐辛子、米、味の素、よく分からないスパイスを買い込み、ハビエルはせっせと皮むきを手伝い、アコは写真撮ったり部屋をうろちょろしてまぐろを相手したりして、そうこうしている内に料理は出来た。


↑手際よい。


↑世界中どこ行っても味の素はある。


↑彼女のスペイン語は早くて80%くらい理解できないんだけど、人間の良さは十分に伝わってくる。


ボリビア料理は肉と芋ばっかりなのに比べ、このペルー料理は野菜もふんだんにあってしかもすごく美味しい!


↑名前忘れたけど、旨い。

「ママー!ちょー美味しい!!!!」と絶賛すると、ママは「グラシアスペ(ありがとう)」と言った。

ちなみに、本来なら「グラシアス」と言うところなのだが、ママはいつも会話の最後に「ペ」を付ける。
例えば、「コモエスタペ(元気?)」、「シーペ(はい)」、「ノーペ(いいえ)」といった具合。
これらは全て普通は最後の「ペ」を付けない。
ペルーだから「ペ」なのかは依然謎なのだけれど、聞いてるこっちはなんだか調子が狂っておもしろい。まるで日本の田舎の「~だべ」みたいなニュアンス。スペイン語にもいろいろあるってことらしい。

しかし、「アコペ」と呼ばれたときにはちょっと「う~ん・・・・」と考えてしまった。


↑ママとまぐろとアコペ。

ボリビアの子どもについて

2007年06月05日 | 協力隊としてのお仕事日記
ボリビアに来る前にも、タイ、インド、ラオス、ネパールなどの国々、そして日本国内で、アコは子ども相手のボランティアをしていた。

国は違えど、やっぱりどの国の子供も基本的には皆一緒である。

遊ぶのが大好きで、いたずらっ子がいたり、シャイな子がいたり。
笑顔で駆け回ってはしゃいで遊んでいる子どもは、言葉が違うだけでどの国の子どもも皆同じように見える。

こういう世界の子供の共通点は、これだけじゃない。

これまで行ったアジアの国々でもボリビアでも、明らかな「貧困」の影を見る。

アコの働いている児童施設では、5~18歳くらいの子供・青年を対象に、様々な教育活動や食事提供を行っているのだけれど、例えばお金持ちの子供はこういうところには来ない。皆、私立の午前午後共にある学校へ行っている(ボリビアの公立学校は、午前か午後のどとらかしか行けない)

施設に来る子供たちは、親が一日中働いていてかまってもらえなかったり、服がボロボロだったり、鉛筆一本買えなかったり、いろんな事情を抱えている。
だからほとんどの子が「パトリシナドール」という養父をNGOを通して海外(アメリカなどの先進国)に持っていて、教育資金や教材なんかの援助を受けている。

しかし、道を歩けば、小銭を稼がなくては生きていけない、こういう施設にすら通う余裕も無い子供が、朝から夜まで働いている。
施設は基本的に無料で、食事も付いているのに、今日を生きるための小銭を稼がなくてはならない子供がたくさんいるということだ。きっと親も施設に行かせる余裕もないのだろう。

それは靴磨きだったり、バスの呼び込みだったり、食堂の給仕だったり、工場だったり。10歳にも満たない子も多い。

そういう労働を小さい内からやっている子供に見られる特徴は、どこか大人びているし聞き分けが良い反面、想像力や好奇心、そして子供らしい笑顔が少ない。


ボリビアは南米で最も貧しいと言われている。
道を歩けばこういう児童労働はいくらでも目に付く。

アコの仕事先はこの児童施設とJICAとの契約ではなっているけれど、これからもっと余裕が出てきたら、教育を受ける機会の全くない路上の子供たちにも何かやっていきたいと思う。

二年間は長いようできっと短い。
出来ることにはどんどんチャレンジしていくつもり。









↑施設の子供たち


↑みんなこういう崖みたいな急斜面に住んでいる子が多い。





クイを食いました。

2007年06月04日 | ボリビアの文化・食べ物・伝統など
先週はJICAの総会という名の全協力隊員による会議があり、一週間仕事に行けなかったが、この総会で皆の苦労話やアイデアを聞き、ちょっとやる気が落ちてた自分にやる気が復活した。

今日の活動内容も準備満タンで、「おっしゃー!」って感じで施設に行ったら、子どもたちがもうサッカーやる気満々で、そのやる気に押され準備してた活動もできず、結局「おりゃー!」って感じでサッカーして仕事は終わった。


↑サッカー後の昼ごはん。


↑食べてる最中いつも日本についていろいろ聞いてくる。



夜は、親友ペルー人ハビエルのママがペルーから来ていて、しかも以前からアコが食べたい食べたいと言ってた「クイ」というネズミ料理をふるまってくれた。
同期のヒサとノンも一緒にゴチになる。

このクイというネズミは、ここボリビアやペルーで食される動物らしく、大きさはモルモットくらい。
腸などを取り除き、そこに香辛料の効いた野菜の炒め物みたいなものを刻んだ腸と一緒に詰め込み、焼く。

予想してた以上に美味しかった。

が、食べてる最中に彼(クイさん)の毛が歯に詰まり、彼の前歯がカチッとあたったり、生々しく開かれた彼の手や指は、死に際に身悶えたであろう姿を容易に想像できてちょっと食欲が失せた。


↑皆でゴチになりました


↑でかすぎて皿からはみ出ている。


ともかく、念願のクイさんをいただけてよかった。