(1962/ジャン=リュック・ゴダール監督・脚本/アンナ・カリーナ、サディ・レボ、ブリス・パラン、アンドレ・S・ラバルト/84分)
allcinemaでデータを見ようとタイトルで検索したら「該当なし」。仕方なく「ゴダール」で見つけたわけですが、なんと、漠然と何十年も「男と女のいる鋪道」と思っていたというお粗末な結末でした。
ゴダールの長篇劇映画第4作で、原題【 Vivre sa vie: Film en douze tableaux 】の意味は、「自分の人生を生きる、12のタブローに描かれた映画」。「タブロー」というのはフランス語で持ち運びの可能な絵画(=キャンパス画、板絵)のような意味の美術用語らしく、映画も12の章に分けた作りになっていました。
女優志願の女性ナナは子供を置いて離婚したが、レコード店員の給料では家賃の支払いもままならず、ある日見知らぬ男性から街娼に間違われて成り行きでホテルに入り、小銭を貰ったことから本当にソチラの道を歩み始めるも、やがて知り合った若い男の想いを受け止めて足を洗おうとするが・・・というお話。
いつの世もありそうな話ですな。それを、ゴダールが彼らしい洒落たセンスのモノクロ映像で語っている。相変わらず独りよがりな所もあるが、話の割にはジメジメしてないのも彼らしい。
なんといってもこの映画の魅力は主演のアンナ・カリーナだな。以前、「スタイルはいいけれど顔の印象が弱く、名前は知っていても顔が思い出せない女優の最右翼だった」なんて書いたけど、この映画の彼女はショート・ボブで、表情が「チェンジリング」の時のアンジェリーナ・ジョリーによく似てる。特に正面からの顔が。こんなにも存在感があって、セクシーな22歳って・・・素敵だ。
ナナは舞台女優になるのが夢で、映画にも一回だけ出たことがある。だけど、彼女がどこまで本気だったのかは分からないし、画面からも熱意は感じられない。普通の人生を送りたくはないという雰囲気は出ていて、少しだけ「俺たちに明日はない」のボニーを思い出した。
成り行きで恐る恐る始めた娼婦稼業が、終盤ではすっかり街角に立つ姿も板について・・・という感じはよく出てた。
同じショットをリフレインで2度、3度流すシーンがいくつかある。あれって、スローモーションとかストップモーションなんかと同じ効果を狙ってるんだろうな。つまり印象的にするっていう意味だけど、微妙にニュアンスが違うのが面白い。でも、映画技法的には小さな事だ。「突然炎のごとく (1961)」でトリュフォーがストップモーションを使ったのを思い出す。ヌーベルバーグって、こんな風に色々とそれぞれが実験的な試みをしていたんだな。
そういえば、終盤で街中を車で移動するシーンで上映されている「突然炎のごとく」の看板が映し出された。まだ、トリュフォーとゴダールがうまくやっている時代だ。
終盤の章で、カフェで読書をしている老人とナナが会話をするシーンがある。哲学的な問答でとても印象深いが、導入部のカメラの使い方も洒落ている。カフェの席に座ったナナが、ちらと隣を見て誰かに話しかけるんだが(声は聞こえるので大人の男性ということは分かる)、初対面らしい相手は画面には映らないんだ。相席していいかと言うナナにその人がOKを出して、初めてその人が老人であることが分かる。割と長い二人だけのシーンなのに、結局二人が一緒に写るショットは無いんだよね。
意外に、老人が素人俳優で一人でないと撮影できなかった、なんて単純な理由なのかもしれないけれど。
上(↑)のシーンを観ていると、これは単純に台詞の意味を印象付けようとしているのが分かる。二人のシーンなのに二人が同時に写らないというのは、二人の関係性を表現しようとしていないからだ。
娼婦の話というとフェリーニの「カビリアの夜」があるが、なんと趣の違うことか。ゴダールの映画は「勝手にしやがれ」、「気狂いピエロ」、「軽蔑」しか観てないけど、どれも最後は死んじゃうんだな。北野武の映画も、多分最後は"死”で締めくくったのが多いと思うんだけど、安直な感じがしてどうも気に食わないね。そういえば、北野もヴェネチアで2度賞を貰っているが、この「女と男のいる舗道」も1962年に審査員特別賞を受賞したらしい。
序盤でナナが男と映画を観るシーンがある。上映されていたのはカール・ドライヤーの「裁かるゝジャンヌ (1928)」。ナナは、死刑を宣告されて涙するジャンヌのシーンで同じように涙を流した。
アンナ・カリーナがジュークボックスから流れる軽快なジャズに合わせて一人で踊るシーン(↓)があるが、音楽担当はミシェル・ルグランです。
allcinemaでデータを見ようとタイトルで検索したら「該当なし」。仕方なく「ゴダール」で見つけたわけですが、なんと、漠然と何十年も「男と女のいる鋪道」と思っていたというお粗末な結末でした。
ゴダールの長篇劇映画第4作で、原題【 Vivre sa vie: Film en douze tableaux 】の意味は、「自分の人生を生きる、12のタブローに描かれた映画」。「タブロー」というのはフランス語で持ち運びの可能な絵画(=キャンパス画、板絵)のような意味の美術用語らしく、映画も12の章に分けた作りになっていました。
女優志願の女性ナナは子供を置いて離婚したが、レコード店員の給料では家賃の支払いもままならず、ある日見知らぬ男性から街娼に間違われて成り行きでホテルに入り、小銭を貰ったことから本当にソチラの道を歩み始めるも、やがて知り合った若い男の想いを受け止めて足を洗おうとするが・・・というお話。
いつの世もありそうな話ですな。それを、ゴダールが彼らしい洒落たセンスのモノクロ映像で語っている。相変わらず独りよがりな所もあるが、話の割にはジメジメしてないのも彼らしい。
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なんといってもこの映画の魅力は主演のアンナ・カリーナだな。以前、「スタイルはいいけれど顔の印象が弱く、名前は知っていても顔が思い出せない女優の最右翼だった」なんて書いたけど、この映画の彼女はショート・ボブで、表情が「チェンジリング」の時のアンジェリーナ・ジョリーによく似てる。特に正面からの顔が。こんなにも存在感があって、セクシーな22歳って・・・素敵だ。
ナナは舞台女優になるのが夢で、映画にも一回だけ出たことがある。だけど、彼女がどこまで本気だったのかは分からないし、画面からも熱意は感じられない。普通の人生を送りたくはないという雰囲気は出ていて、少しだけ「俺たちに明日はない」のボニーを思い出した。
成り行きで恐る恐る始めた娼婦稼業が、終盤ではすっかり街角に立つ姿も板について・・・という感じはよく出てた。
同じショットをリフレインで2度、3度流すシーンがいくつかある。あれって、スローモーションとかストップモーションなんかと同じ効果を狙ってるんだろうな。つまり印象的にするっていう意味だけど、微妙にニュアンスが違うのが面白い。でも、映画技法的には小さな事だ。「突然炎のごとく (1961)」でトリュフォーがストップモーションを使ったのを思い出す。ヌーベルバーグって、こんな風に色々とそれぞれが実験的な試みをしていたんだな。
そういえば、終盤で街中を車で移動するシーンで上映されている「突然炎のごとく」の看板が映し出された。まだ、トリュフォーとゴダールがうまくやっている時代だ。
終盤の章で、カフェで読書をしている老人とナナが会話をするシーンがある。哲学的な問答でとても印象深いが、導入部のカメラの使い方も洒落ている。カフェの席に座ったナナが、ちらと隣を見て誰かに話しかけるんだが(声は聞こえるので大人の男性ということは分かる)、初対面らしい相手は画面には映らないんだ。相席していいかと言うナナにその人がOKを出して、初めてその人が老人であることが分かる。割と長い二人だけのシーンなのに、結局二人が一緒に写るショットは無いんだよね。
意外に、老人が素人俳優で一人でないと撮影できなかった、なんて単純な理由なのかもしれないけれど。
上(↑)のシーンを観ていると、これは単純に台詞の意味を印象付けようとしているのが分かる。二人のシーンなのに二人が同時に写らないというのは、二人の関係性を表現しようとしていないからだ。
娼婦の話というとフェリーニの「カビリアの夜」があるが、なんと趣の違うことか。ゴダールの映画は「勝手にしやがれ」、「気狂いピエロ」、「軽蔑」しか観てないけど、どれも最後は死んじゃうんだな。北野武の映画も、多分最後は"死”で締めくくったのが多いと思うんだけど、安直な感じがしてどうも気に食わないね。そういえば、北野もヴェネチアで2度賞を貰っているが、この「女と男のいる舗道」も1962年に審査員特別賞を受賞したらしい。
序盤でナナが男と映画を観るシーンがある。上映されていたのはカール・ドライヤーの「裁かるゝジャンヌ (1928)」。ナナは、死刑を宣告されて涙するジャンヌのシーンで同じように涙を流した。
アンナ・カリーナがジュークボックスから流れる軽快なジャズに合わせて一人で踊るシーン(↓)があるが、音楽担当はミシェル・ルグランです。
・お薦め度【★★★=一見の価値あり】
僕も時々どちらか解らなくなります。
IMDbの検索なら関連ありそうなタイトルは全て出してくれますが、わが邦のallcinemaはちょっと違っても出て来ない。日本語とアルファベットの違いかもしれませんが、もう少し何とかなりませんかねえ。
>結局二人が一緒に写るショットは無い
なるほど。そう言われてみると確かにそうでした。
かの老人は本当の哲学者で、アンナを相手に勝手に喋っているわけですが、仰るように案外アンナとは別に撮っている可能性もありますね。
>トリュフォーとゴダールがうまくやっている時代
そうなんですねえ。
前作「女は女である」でも撮影中だったらしい「ジュールとジム」の話題を出している。
あんなに仲が良かったのにね。
僕が昔から言っているように、トリュフォーは本人が気付いていなかっただけで、やはり古典主義だったんですよ。
確かに、ドキュメンタリーみたいだったし、俳優には見えなかったし。
>アンナの役名ナナが・・ゾラの「ナナ」を想起させ・・トリュフォーのバルザック好きに対抗する印象を残して個人的に大変興味深い。
ゾラの「ナナ」は未読なんですが、すぐに連想はしますよね。