千葉市美術館 「生誕140年 吉田博展」 2016.4.9~5.22
水彩にはとくに見とれました。
感じてはいるけどとりたてて認識しない採光、体にまとう空気を、可視化しているような。
夕暮れの色はこんなだった。朝の光は、こんなに澄んでいた。靄はこんな感じで立ち上っている。そういうものを、手につかめる形で絵にしている。
そして、もし自分が外国人旅行者だったらきっと目を留めるであろう日常の光景を絵にしているので、その美しさを再認識。
彼は、旅する画家、切り拓き戦う画家、折れない画家。その人生は、映画が一本作れそう。
久留米生まれ。絵を見込まれて、図画教師の家へ14歳で養子に。京都での修行、さらに東京の小山正太郎主宰の不同舎に修行の場を切り拓いたのが、17歳。
不同舎調のスタイルがあるようで、当時の鉛筆画やデッサンを見ると、吉田博の絵の基礎がここにあると感じる。先輩弟子の小杉放庵が「絵の鬼」と評するくらいだから、どれだけ打ち込んだんだろう。10代での基礎がしっかりしているから、その後の彼もあるのだと思いました。
「村里の子供たち」1894-95 心にすうっと入ってくるよう。
当時は水彩画ブーム。イギリス由来の、外国人が見た視線のような風景。それがとても心地よい。
18歳にして養父を亡くし、一家を養う立場となる!生活費は、横浜のアメリカ人に絵を売って稼ぐ。けっこう売れていたとか。
そして23歳で渡米。洋画界で幅をきかせる黒田清輝一派への対抗。官費でフランス留学する彼らに反発し、自費でアメリカへ。
借金をして買った片道切符でデトロイトに降り立って向かったのは、後にフリーア美術館を作るフリーア邸。横浜で出会っていたというのが驚き。
フリーアが出張中で会えない不運。が、困難を倍返しにする彼の強さ。作品を持ち込んだデトロイト美術館で、館長が感激し、いきなりの展覧会開催。サラリーマン13年分くらいの売り上げ。その後も各地で大売り上げ。
途中渡ったパリでは、浅井忠、黒田清輝、和田英作らにも会っているそうですが、「皆、平ベタだ。おかしな色だ。殊に黒田、久米初めダメだ」と日記に。ヒロシ、強い。
帰国後の作品は、それまでの作品の雰囲気は残しつつも、もっとひかれる作品だった。
「土手の桜」1901-03
「霧の夕陽」1903
「霧の農家」1901-3
そして二度目の外遊は、義妹の16歳のふじをとともに。兄弟展は大成功。
今回は、ボストン郊外の芸術村で二人、制作に打ち込む。
油彩の「チューリンガムの黄昏」1905
ポツンとした灯り。暮れているけれどまだ雲が見える、この曖昧な時間。眼が慣れてくると草原のやわらかい感じも見えてくる。
フロリダの「ポンシデレオン旅館の中庭」1906
フロリダの暖かさと眩しいくらいの陽光。
彼の絵は、日本でも海外でも、温度と彩度と湿度が手の中に感じられる。
さらにロンドン、パリ、ベルギー、オランダ、ドイツ、スイス、スペイン、モロッコ、はてはエジプトまで。この時代にスフィンクスを描いた日本人がいるって驚き。
3年あまりの旅。
帰国後、黒田清輝らの白馬会と、吉田博らの太平洋画会(名前からして官費でフランス帰りの黒田らに対抗)との対立。黒田を殴ったとかいうのは、このころの話のよう。
油彩も描いたようですが、彼の水彩画、特に銚子を描いたこの静かな作品は見入ってしまいました。
「新月」1907
すぐに移ろうであろうこの時間と、ほのかに灯った民家の灯り。この時間て、どうしてこんなに美しいと思うんだろう。
「月見草と浴衣の女」も月見草が幻想的。
外国を旅した彼の外国人目線は、美しいもの、美しい時間に、とてもよく気づいていて、日常すぎて鈍感になっている私にも、しんしんと伝えてくる。
それが可能なのは、彼の絵のうまさゆえなのでしょう。彼は「むまい」(うまい)ということをとても重視していた。絵の鬼と言われ培った力量は、昨日今日の画家とは比べようもないですが、けしてそれだけでもない。
不同舎で学んだ姿勢か、上っ面だけでなく描くものと自然の中に、自らが入っていることを大切にしていたように思えた。
この後、穂高や槍ヶ岳などの高山の絵がつづきます。
それも本格的に登山に打ち込んだこその絵。歩き、壁を登り、野営をはり、何日も吹きさらされながら朝に夕に時々刻々とおりなす変化。
「鷲羽岳の野営」1926は、焚き火の灯りにも、その実感を感じたような。
山では「三千米」1938も印象深い作品。
この前には、関東大震災で罹災した太平洋画会を救うため、1923年、三度目の渡米。震災の3か月後という行動力。
絵はあまり売れなかったけれど、転んでもただでは起きない彼の強さ。現地でもてはやされていた浮世絵版画の質の低さに驚き、自分ならもっといいものが作れるのに、と自ら製作に乗り出す。49歳のチャレンジ。
まっしぐらで、負けん気の強さ。それがまた、中途半端でなく、凄い。
一般的な色絵は10回位色を擦り重ねるそうですが、彼は30回以上、100回のものもあったとか。
そして版画でも、時間の移り変わりが面白い。
同じ版木でする、瀬戸内海の「帆船」1926のシリーズは、全部で6枚。見比べると面白い。
午前は、空気が澄んでいる
靄がかかったら、向こうの舟が見えなく・・
夕は、逆光が美しく、海も空も茜色に溶け合う
そしたら夜は…
こうきたか。船にもポツリと小さな灯り。
吉田マジック。
夜の美しさの秘密、朝のすがすがしさの秘密。その時間に、自分が何を見て何を見ていないのか、時々刻々と変わる変化の秘密を、彼が時間をかけて抽出したエッセンス。
同じ版木で擦り分けたシリーズは、大正から、さらには昭和には入り60を過ぎて回った世界の光景まで、いろいろあり、どれも感嘆。
マタホルン山、スフィンクス、カンチャンジェンガ 、タジマハールなど。だんだん、朝がこうなら夜はどう来るか?を予想するのが楽しくなった。
彼自身にも再現不可能といわしめたインドの一枚は、目をみはるほど。
「フワテプールシクリ」1931
同系色で擦り出され、版画と思えないほど。アラベスク模様の透かし窓と、床に反射する光や光沢。他の作品では移り変わる時間の流れが惜しまれるような美しさでしたが、これは、時の流れが止まったかのような。
この「インドと東南アジア」シリーズを見ていると、すぐにもふらりと旅に出たくなりそう。
そして戦争。
「急降下爆撃」1941
絵も急転直下。戦争にも動じてない。従軍中に搭乗経験があったようですが、彼は本当に強い。
戦後は、自宅の洋館がGHQに接収されそうになったら、自ら乗り込んで収用を免れたとか。さらに、アメリカで人気のあった吉田家は、進駐軍関係者が集まり、缶詰やチョコがあふれたとか。
戦後の作品は少ないようですが、「農家」1946には、しみじみ。
戸外の明るさと逆に、薄暗い室内はどこかホッとする。台所の火が、ちょっとラトゥールのよう。
これは最後の木版画だそう。
ドラマティックな彼の人生、幼くして子供を亡くすという悲しい出来事もあったようです。「頑固一徹」、「コワモテのむずかしや」、「すきあらば高いところに登りたがる」とかなりな言われよう。なのにあんなにも美しく静かに心に馴染む風景。絵にも彼にも、とてもひかれた展覧会でした。
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