はなナ

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●安田靫彦展

2016-05-04 | Art

安田靫彦展 国立近代美術館 2016・3・23-5.15

 

安田靫彦(1884-1978)の108点に及ぶ回顧展。

何年前だったかまだ日本画にさほど興味もなかったころ、不思議なオーラに捕まった、靫彦ワールド。人物の表情の妙味にはまった。

きっかけとなったのが、このおばあさま。

「赤星母堂像」1942

 このシンプルな絵はなに!? このばばさまの風格はなに!?と。(図は全て画集から)

いつから靫彦は靫彦になったのだろう?

「品格の高さ」という言葉でよく評されるけれど品格って?。あの(しれっとした?)顔はいつから?と、積もった知りたいことだらけ。回顧展を待ちわびていた。

 今回は、15歳の時の絵から展示されており、変遷の過程を知ることができる構成。文化財の保存など、絵以外にも力を尽くしていたことも初めて知った。


靫彦は、15才からすでに靫彦だった。と、前述の自分の疑問にひとつ答える。

画風の変遷はある。でも目指すものが一貫していて、一枚一枚完成された美の世界。

歴史画では、早い時期から滅私の画風。描き手が気迫をみなぎらせたり、感情を高ぶらせたり、自己をぶつけたような絵もあるけれど、靫彦は自己よりも、主題と登場人物の精神のほうを前面に出す。

人格の高さということなのだと思うのですが、だからこそ、この展覧会では靫彦の生身の姿にもう少し触れる資料が少なかったのが少し残念。

以前神保町で買った古い画集には、赤星母堂像の下絵が15枚も載っていて、対象の精神に迫ろうとした試行錯誤と苦心が靫彦にもあったことに感じ入いった。

だから今回も下絵や手紙などを期待していたのですが、下絵類はなく残念。

とはいっても、大大満足な展覧会。

 

14歳で画家になると決意し、小堀鞆音に入門。

「吉野訣別」1899(15才)

同じく15歳の時の「木曽義仲図」とともに、まだ表情は写実的ではありますが、15歳から尋常じゃないうまさ。

2年で方向性の違いから師のもとを離れ、青邨、紫紅らと会を結成する。活動的な人だったのが意外。描きたい世界を、この年から明確に持っている。

「守屋大連」1908 24歳(図は部分)

保守的な守屋の、イメージ通りの表情が怖いくらい。曽我との戦いの前の緊迫感。

山岸涼子さんの日出所の天子の守屋に似ているけれど、靫彦の絵を参考にしたのだろうか。

靫彦はこの絵について「写実がすぎる」と。24歳で早くも、抑制の美学。

 

「夢殿」1912 28歳

淡い色が夢のよう。この画像ではわからないけれど、足元の花もとても美しくて、そこだけでも長く見とれました。

奈良の留学から大きな影響を受けたのでしょう。三の丸尚蔵館で知ったばかりですが、テレビもカラー画集もない当時、奈良時代からのロマンあふれる宝物を見る機会をえたことは、貴重なこと。

「天台仙境」1917(33歳)↓、「御夢」1918(34歳)では、歴史を考証しつつも、自由。すっかり独自のイメージの世界。

私が靫彦に魅力を感じてしまうのは、この自由さが基本にあったのかも知れません。

 

それにしても、靫彦の描く”眼ヂカラ”、すごい。

鉄線の細い線2本と、黒目をちょん。これだけなのに、ものすごく眼で語る。

「孫子勒姫兵」1938(54才)

帝の寵姫(一番右側の姫)の嘲笑の眼!

右から左へと、姫たちと孫子の感情を読み取りたく、何度も眼を往復してしまう。

 

「吉水の庵」1934(50才)の法然上人の眼も、好きな一枚。

例えば忙しくしているときでも、この法然と椿のあいだの空気感に触ったら、ふっとココロひと休み。お坊さんの目線と、それをやさしくつつましく受ける椿。ほんのりぽっと、かわいい人みたい。

 

靫彦の眼も魅力なのですが、その人物・人物の過去将来すべて暗示するかのような微妙さも、感嘆。

 「出陣の舞」1970 (86才)

 比叡山焼き討ちなど狂気に近い行動をとった信長らしいこの目。不穏な空気や、流れるろうそくの炎は、まもなく燃え落ちる本能寺と信長を暗示しているような。

 

「伏見の茶亭」1956(72才)

 

華やかなこの世の盛りの秀吉ですが、その手の花切り小刀の緊迫感には、ぞくっと。トップに上り詰めるまでにどれほどのことをしてきたのか、そして今もいつ足元をすくわれるかわからない・・。背景は、光さしつつ、忍び寄る影。靫彦の描く為政者の絵には、どこかに破滅の影。終わりの予感。

 

「黄背川陣」1940-41(56-57才)

頼朝の威厳と冷徹な目線もさることながら、義経のひたむきな目線は、なんだか哀れに感じてしまった。こんなに忠義を尽くしているのに、真ん中に薄墨で描かれた草花に同じくらいに、はかなく。

左側の暗雲に撒かれた金と赤い葉は、散ってしまう義経の運命みたいですが、それを美しく象徴させているのは、戦時中の作だからでしょうか。

この絵は他の戦時中の絵とともに戦意高揚に歓迎され、立場のある靫彦なりに、報国の役割を果たそうとしたと書かれていましたが、とてもあいまいな表現ではあります。少なくとも声高らかに愛国を訴えた絵ではない。逆に、松本俊介や他の画家のように、疑問や苦悩を訴えた形跡もない。

大きく見ると忠義の美しさ。でも細部にそこここに、悲しみや哀れさが散っていると思う。


いつも抑制のきいた靫彦の表現からは、靫彦が実際のところ、戦争にどのような思いを抱いていたのかはよくわからなかった。

でも、この時まもなく60才。時局がどうあれ、少なくとも絵にブレはなく、絵の道、美の道をただただ追求していたんじゃないかな。戦時下に求められた題材を描いているけれど、絵は、迎合するでもなく、抵抗するでもなく。

どのような立場であれ、15のときから連綿と続く歴史の盛衰を学び、求める美がはっきりしていた靫彦にとって、戦局の中でもぶれることはなかったのかも。

「保食神」1944(60才)も戦争末期に食糧増産を願って描いたとありますが、どのようなことであれ、この靫彦の本道みたいな色彩と、眼線が魅力的。

 

敗戦後には、一転して、日本画や歴史画は非現実と非難にさらされる。それでも動じることなく靫彦は歴史画を描き続けた。結局のところ、戦時下でも戦後でも、靫彦自身の進む道は、たゆまず変わらなかったんじゃないのかな。

 

歴史画では滅私の境地と申しましたが、花の絵は、多少、違う靫彦も感じるような。幾分素直に自分を出しているような。

「菖蒲」1931(47歳)(部分)

後期になると、明るい色使いも洗練されて、自由に謳歌していくようで、見とれました。

「窓」1951

花瓶にささっているようで、実は窓の外のアジサイだっていう、遊び心?

 

「朝霧」1951

色も花も葉も戯れるような。

「室内」1963(79才)

水墨画・オレンジの壺・首みたいに大きなクレマチス・南欧風の派手な皿!?常に「品格」って言われる基本線があるのだけれど、79才でこの取り合わせって。全部が楽しく、どこまでも自由に。

 

1968「紅白梅」(84才)

ここまでびっしり描きこんでいるのは、31歳ころの「羅婦仙」を思い出しました。

靫彦の花は多様で、どれも自由で華やか。洗練。過ぎない色使い。調和。

靫彦の美意識に触れたよう。 

その美意識は、女性の絵にも現れているような。

 「挿花」1932(48歳)

かすかな緊迫。フェルメールの牛乳を注ぐ女のように一点に。

黒髪も、青い着物も、散った赤も、色がとてもきれい!

花と女性の描き方の違いが印象深かった。

 

「花づと」1937(53才)もなんて美しい。

 着物の柄の美しさ!抑制のきいた赤色にのさし方にも、ただただため息。

 

あいまいな表情が、美しく。秘められたなまめかしさも。

日傘をたたんで、花たばをささえ、その所作の瞬間。「挿花」や「茶室」1962(78才)もですが、靫彦の女性画には、なんというか刹那の美というか。

  

目線で語る靭彦なのですが、簡単にはつかみどころがないのが、良寛の表情。

「良寛和尚図」1937(53才)

もう一作の63才の時の毬を持つ「良寛和尚」も同じような眼。簡単にはいうことのできない含蓄が・・。

靫彦は良寛に深く傾倒していたそうですが、余計なものを極限まで省き、本質を描いているようではあります。靫彦にとっての良寛が絵に描かれているのだと思うのですが、良寛についての記述や他の絵も見てみたいです。

他に見とれたのが、「森蘭丸」1969(85才)

「出陣の舞」の信長の隣にかけられていました。

信長とともに本能寺の変で最期をとげる、美貌の小姓。才気あふれる中にも、ほっぺや唇や長いまつ毛に、カラバッジオのバッカスを思い出す。

武将と色小姓的ないわくまで靭彦がこめたのかはわかりませんが、奥ゆかしさが美しい。よく靫彦が評される「品格を保つ」ことの美しさを実感。

小物の使い方も、感じ入った一枚。床の間の梅の枝が意味ありげ。

赤星母堂像の下絵では、仏像の位置に苦心し、ずらした形跡が見えた。他の絵でも、小物の探索もしていったら楽しそう。

 余計な背景を捨て去り、線にもむだな物はなく。和の美が余白に美を見出すのだとしたら、靫彦は全体に余白のような含蓄があるようで。いつまでも、見たくなるのはそういうとこかな、とか、ずいぶんたって思いました。

 

91才まで、衰えない画業は、驚くばかり。

「吾妻はや」1971 (87才)も好きな一枚。

 ヤマトタケルの表情には悲しさと悔しさがこみあげているけれど、全体的な明るめの色や、とげとげしさのない山たち。明るめなのに、寂しくて。悲しい時も、自然は澄み切って、いつもそこに変わらず寄り添うようなものなのかも。

楽しい時間でした。

しばらくしてから図録の年表をみていたら、20代のころ修善寺の新井旅館で静養していた靫彦ですが、「1934年、新井旅館のため設計した浴室が完成し、天平風呂と名付けられる」と。法隆寺金堂などの意匠をとりいれた意匠も当時のまま、今でも健在とのこと。新井旅館といえば、修善寺にいけば必ず通りかかる目抜通りのお宿。いつか行かなくては♪。

 

 



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