はなナ

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●ホテルオークラ アートコレクション展「佳人礼讃」

2017-08-13 | Art

ホテルオークラ アートコレクション展「佳人礼讃」

2017.7.31~8.24

 

「監修者のあいさつ」に、プリニウスが登場していました。プリニウスは、ランプで壁に投じられた恋人の影をある娘がなぞって残したエピソードを伝え、これが「人の姿をうつす」芸術の起源の一つであると。

今回のテーマは、「美人」ではなく、「佳人」。美しい人に変わりはないけど、佳人というと、外面的な美しさにとどまらない、広やかな感じがします。それも納得の内容でした。

以下、備忘録です。

一枚目の絵からそれを納得。まさにこれから居並ぶ佳人たちの筆頭にふさわしい「芸術の女神」。

「ミューズ」19世紀末ギョーム・シニャック(1870~1924) 鹿子木孟郎が住友コレクションのために買い付けてきたもの。

ミューズは芸術の女神。書きつけているのは詩?絵?それともメロディ?。自分の個の中の知とアートに遊ぶこの生き生きした表情がいいなあ。自然の中でのこののびやかな境地は、文人画と同じかも。小さく描かれた青い花、黄色い花、ピンクのバラは、頭の中に次々浮かんでくる素敵なひらめきのよう。

 

 その横で張り詰めたような雰囲気を醸し出していたのは、岡田三郎助の妻。

岡田三郎助「支那絹の前」1920

ミューズと打って変わって、重い色彩。当時の日本の女性、という感じがしなくもない。刺繍の凹凸まで細密。シナ絹の模様は、中国といえばみたいな先のとがったあの桃。形はかわいいけれど、味はすっぱいらしい。

 

キスリングの二点はみもの。

「スペインの女」1925 は素敵だった。黒い髪と赤いストールが、確かにスペインらしい。都会的でおしゃれなのに、どこか土俗的な魅力。大きな手、見つめる瞳は、強く迫ってくるものがあった。

 

キスリング「水玉の服の少女」1934も、スペインの女と同じく、ピンクとブルーの二色に塗り分けられた背景。女性の微妙にうつろう内面か、隠し持つ二面性を暗示しているよう。女性はひとすじなわではいかない。この女性は、やわらかな光の中に描かれ、ちょっとつかみどころのない感じだった。

 

モディリアニ「婦人像」1917、口をとじ、感情をあえて打ち消した瞳。内に込めたら、逆にゆらりと放ってくるものがある。絵にかいた人でしかないのに、それを超えた存在感、普遍性。モディリアニってやっぱりすごい。

 

矢崎千代二「教鵡」1900は、言葉を教えていると思わしき少女の口元と、オウムの口に流れるやりとり。その少女の口元がかわいらしい。穏やかな午後の色彩、着物も合わせのピンクもいいなあ。

中澤弘光「静思」1941、後ろには各地からの土産と思われる人形たちの顔顔顔。その圧の前で自己をガードして自分の思索に入っている女性。

金山平三「祭りの日」1924、顔の描かれていない女性。特別な日の思いをあえて秘めているような。他の作品もみたくなった画家。

 

小倉遊亀「若いひと」1962、若い女性の、恐れも知らぬ生気あふれる不遜さが、オーラを放っている。爪だってきれいに整えられている。この世代を映しているような絵だった。この若い年齢の人を見つめる、67歳の遊亀の目。いまや自由で自我を大事にする時代になったのだ。これは吉野石膏さんのコレクション。こちらは高山辰雄の「聖家族」のシリーズをみせていただいたり、心に残る作品をお持ちなのだなあ。

 

ここまでは洋画だったけれど、(あれ?遊亀は油彩ではなかったような)、二章は日本美術、「美人画に見るうるわしき佇まい」

上村松園の5作が並ぶと、洗練された美しい空間になる。どれもシンプルなのに、実は練られた構成と構図にほれぼれ。

上村松園「三美人之図」1908

よく見ると三人いる。傘のジグザグが洒脱。足元へと散る花びらとともに、着物の柄に描きこまれた桜も舞っているよう。と、緑の着物の柄には、蝶も舞っている。一番若い女性の傘の中に、花びらか蝶でも入り込んだのかな。

 

上村松園「うつろふ春」1938、ため息しか出ない。大胆に対角線に分割された構成に、この目線ときたら。着物の美しさ、赤の分量が極まって。

ちょっと小悪魔的な魅力の女性。耳たぶのほのかな赤みはほろ酔いなのかな、カラバッジォのバッカス的なしどけなさ。目で追う花びらの一枚は少し色あせていて、春があっというまに過ぎてしまうのと同じように、女性の美しさも短いあいだのこと。女性は時間の流れにあらがうでもなく身を任せているようで、63歳の松園だからこそかけるのかも。

 

上村松園「円窓美人」1943

二つの大きな弧といくつかの小さな弧で構成されたリズミカルさなのに、女性は物憂げそう。窓に映る花影もどこかうつろ。あいまいな表情の女性を描いても、イメージだけのはりぼてのような美人にならず、女性の本体まで感じる松園の美人画。円窓と美人の組み合わせは、明清時代の「仕女図」に由来するもの、と。

 

伊藤小坡の2点、「醍醐の花」、「紅葉狩り」があったのも興味深い。制作年不詳とのこと、松岡美術館で見た絵なども思い起こすと、松園と同門になる以前、わりに初期のころのものなのかな?(勝手な解釈)。

 

伊東深水の3点も、うれしい。

伊東深水「香衣」1927、29歳の作。

妖艶な生々しさに目が釘付け。乱れた髪は情事のあと?、むしろ赤い唇、絞りの着物は蛇のうろこのようにも見えてきて、定まらない視線とともに、今まさに人間に化身したばかりなのか、と妄想。しかも土の地面ではないか。

 

伊東深水「小雨」1929も、とても上手い!緻密!。深水のどこか刹那的な美、好きだなあと思う。赤い半襟は秘めた激しさのよう、まだ表には出たことがない。

 

伊東深水「楽屋」1959、作った顔ではない、素の表情が美しい。一瞬を切り取って、実感があるなあ。楽屋裏に精通?した深水ならでは。ひたむきで自力で強く生きている女性を、率直に見つめている。

深水の三点、どれも髪飾りが美しかった。

 

中村大二郎「読書」1906、椅子に座り読書をする女性は油彩画にもよくあるけれど、これは日本画。ぺたんと塗っただけなのに、迫力があるなあ~。華やかなのは椅子の布張りだけ。少し見える向かい合わせの椅子の存在が、行きかうなにかのようで気になる。

 

第三章は、「人物画の魅力に出会う」。油彩、日本画問わず、多種多様な表現。

寛永期の洛中洛外図があった。

びっちり描きこんだタイプ。洛中洛外図を人物画と思ったことがなかったけれど、その概念を訂正せざるを得ない。小さくとも確かなキャラクターを与えられた人間が、ここに何百人もいる。お正月の情景、大晦日、祭列、お相撲さんも。

 

今回はプチ鏑木清方展ともいえそう。9点+雨月物語のシリーズの8場面。

「狐狗狸」1931、は、なんと。小学校の時に教室でやったあのこっくりさん。まんじりとした顔は、覚えがある。影が薄く、あやしいぞ。

「雨月物語」1921は、上田秋成の作の中から「蛇性の淫」の8場面。清方はよく古典研究をしていたとのこと、舞台設定も練られていた。

1「雨宿り」では、これから始まる物語を、波や雨が予感させる。 2「まろや」侍女のまろやも、セリフはないのに雰囲気醸し出すのに重要な役回りをおっている。 3「ちぎり」は、(蛇女)真女児のあやしく狙う視線。乱れた髪。紅葉は青紅葉と赤い紅葉が入交じり、萩も見え、秋の初めの様子が美しかった。室内のしつらえもばっちり。 5「もののけ」は、みどころのひとつ。朽ちた板、からまる蔦の荒れた屋敷。櫛をもち座る女は、かすかに笑みを浮かべている。不穏な雲のにじみがすばらしい。 6「泊瀬」男が再開した真女児とまろや。

7「吉野」は、正体を見破る老人の厳しい目。ばっと風が吹き、木々も迫力、桜が舞い散る、緊迫のシーン。 8「蛇身」は正体を現し、滝に飛び込んだ二人。激しい波と、妖しく泡立つ波頭。

金箔を用い、美しいやまと絵に仕上げていた。

 

島成園「お客様」1929は、今回最もお気に入りのひとつ。

長女と次女の性格の差を、目線の落とし方や手のしぐさで、こんなに繊細にあらわしている。緊張している二人は、扇に救いを求めているよう。あどけない二人の女の子のなかに、かすかに妖しいものが。

それにしても、現代的な感覚の絵だ。成園(1892~1970)は、独学で絵を描き始めたのに、若くして人気を博して活躍した大阪の女性。当時では過激な画題だったようで、マスコミや画壇からの逆風にも見舞われる。北野恒富、野田九帆に私淑し、助言を受けることがあったとか。1920年に親の圧力で結婚し、銀行員の夫について転居を繰り返す間は、描くことも少なかったよう。戦後に大阪に戻ってからまた絵筆を持ち、個展を開いたり後進の指導にもあたった。

「お客様」は、夫の転勤で大阪を離れ画業を休止する直前の作品。たいへん心にのこり興味惹かれる絵だったので、ショップにあった絵ハガキを買ってきました。

 

「女」1917 100年も前の絵とは到底思えない。しかも25歳の作とは。

 

「春宵」1921 クリムトみたいな美しさ

戦後の作も見てみたいもの。ショップにおいてあった本「あやしい美人画」に作品が出ているようなので、買おうか迷っている。。

 

他に印象深かったもの

三雲祥之助「馬と少年」1929、青い馬

小嶋悠司「母子像」1985、テンペラ画。母子は、不安そうでもあり、それでも母の強さ、母の表情を伺う子と、その関係性において安定ともいえ。

最後の一枚は、ミレイ「聖テレジアの少女時代」1893

カスティーリャの聖女、テレジアは、殉教者になろうとして、度々家出をした。ミレイは、イギリスのジョージ・エリオットの小説「ミドルマーチ」のなかから、この弟を連れたテレジアを描いた。コートだけ持って家出する女の子と、手を引かれた弟のあどけなさ。大人から見るとかわいらしいばかりだけれども、それでも強い瞳と固く結んだ口元のテレジアの姿には、この子ならばと将来も見えて、思わずリスペクトしてしまう。

ミレイは、美しい女性をたくさん描くけれども、いつもふわふわしただけでない女性の芯の強さをしっかりとらえていて、好きだなあと思う。

今回もたいへん見ごたえのある展覧会でした。来年も楽しみにしております。ちなみに、アスコットホールの絨毯がきれいだったのですが、「英国のウィルトン織り」だそう。

 

 



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