野間記念館「革新から核心へ 横山大観と木村武山」展 2017.3.11~5.21
http://www.nomamuseum.kodansha.co.jp/installation/index.html#ehon2
先日、木村武山(1876(明治9年)~1942(昭和17年))を楽しみに訪問。そごう美術館の福井美術館展と、岡田美術館で見た大きな屏風がとってもよかった。
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大観と武山。ありそうでなかった二人展。
岡倉天心が失脚した時には、二人も下村観山や菱田春草とも共に、茨城の五浦へ拠点を移した。
同志とはいえ、なんとなく序列的には「1大観、2観山、3春草・武山」という印象だったけれど、そういえば大観と武山の関係というと、気にする機会もなかった。大観と観山の合作はたまにみるけれど、武山の合作は見たことがない。また、東博で展示していた1915年に大観、観山、今村紫紅、小杉未醒の4人が資金調達のために東海道を旅しながら描いた「東海道53次絵巻」にも、春草はすでに亡き人だけれども、そこに武山はいなかった。
にべもなく、冒頭の解説にはこのように。
「(略)四人のうち、大観と武山は、必ずしも親密な友人という関係ではなかったようです。大観はのちに『木村君は笠間の出身で、私とは同郷の茨城県の出身でありますが、あれは下村観山君との関係でした』と語っています」。
微妙な距離感が・・。
大観は明治元年生まれ、観山はその6歳下、春草は観山より1歳下、武山は春草よりもさらに1歳下。
武山は、東京美術学校ではすでに助教授であった観山と深い絆で結ばれていたとか。「五浦の4人は、親友の大観と春草、年齢的に大観の弟分となる観山、その弟子筋の武山」という関係で、「武山はほかの三人の先輩たちとは一線を画していたようです」と。
五浦では、ちょっと頭が上がらなかった感じだろうか。なにか武山の言葉が残っていればいいのだけれど。
今回知ったのだけど、武山の父はあの常陽銀行の創立者。武山は再興日本美術院の経営にも力を尽くし、1937年(昭和17年)の脳梗塞で右手が不自由になってからも、左手で描き続けた。
今回の展示は、五浦を出てからの作品。
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武山の作品で心に残ったものを、ざっくり年代順に。
「錦魚」大正12年(1923年) 47才。
水上の世界と水の中の世界が溶けあう。池の金魚は一匹じゃなくて、もう一匹ゆらめくようにしっぽが見える。水面下の豊かな世界。浮かぶ水草、あめんぼ、めだか、ザリガニらしきシルエットも。太い杭は水上に出ていて、細い葦が画面を縦にふわりと伸び上がる。なんだか満ち足りた気持ちになる掛け軸だった。
武山といえば、無骨な風貌には意外なパステルな色彩の仏画。しかし仏画に精力的に取り組んだのは、1913年(大正3年)に日本美術院が再興されてからだそう。
2枚の仏画が向かい合わせで展示されていた。武山はカラリストと言われているようだけど、特に仏画に対して独特の色彩が発揮されている。
「観音」1923年(大正12年)は、蓮の花びらが散り、霞がかかっていた。眼や眉、髪のブルーが印象的。
「慈母観音」1925(大正14年)も花が舞う。観音さまの手に持つ蓮から、右手に流れ、子供に至る流線形。写真で見るより、細部まで色も線も、とても繊細な感じ。
師であった狩野芳崖の「悲母観音」に影響が受けたもの、とあった。悲母観音と印象は違うけれど、死の4日前に描き上げた芳崖の病床でのすさまじい精神性を受け止めて、自らも力を尽くしたのだろうか。
昭和初期は、大胆な構図の絵が続く。
「春暖」昭和初期は、没骨、たらしこみのヤツデに、カワセミなのか青い鳥。ふんわりぬるむ春の空気。
「金波」昭和初期も、フリルのような波がデザイン的で、唐突にぽっかり顔をを出した月は、まるで海ぼうずみたい。どこかおかしみのある光景だった。どうした武山??
昭和5年の「鴻門のはんそ(←漢字が難しい)」は、主人の劉邦を守ろうと、項羽をにらみつけるはんその目力がすごい。
その迫力に反して、武山らしいパステルの鮮やかな色彩。丁寧で端正な筆致。はんその幅の裾のグラデーションは、武山の描く仏画のよう。
昭和7年に描かれた八幅対の色紙大の「仏画」も並んでいた。観世音菩薩、虚空蔵菩薩、普賢菩薩、勢至菩薩、大日如来、不動明王、阿弥陀如来。これらの仏様たちが、4枚は紺地に金泥の線描のみで、4枚は着色で。細密な線描には全く狂いも乱れもなく、安定していて美しい。写経のようにも感じた。
前年に亡くなった母の供養に、笠間の邸宅内に大日堂を建立しようと思った武山は、野間清治に援助を頼んだ。そのお礼に贈ったもの。(野間さん・・)。これに対する武山からの100円の領収証も展示されてあった。この仏画は、大日堂の絵画の習作だとか。
「桐花鳳」昭和初期も、ピンク、ブルー、オレンジ、緑など極彩色が仏画のように優しくまとめられている。
「旭光双鶏」昭和初期 は、趣が一変していて驚いた。
濃い朱に染まる画面に、旭日。黒い鶏と、白い鶏。すべてが強い印象。足元の笹葉は欠けていて枯れつつある。それでも鶏の目は、どちらも誠実そうだった。
武山の絵をこうして通して見てくると、誠実で安定した感じ。仏教に信心を深め、実直な人柄を想像する。
最後の一部屋には、武山の12か月色紙。それがなんと7セット。1927年(昭和2年)から、昭和3年、5年。7年は4セットも。たらしこみの琳派風であったり、院体画風であったりの花鳥風月。
そんななかで、いくつかに登場したのが、ほっぺたがぷくっとかわいい、ぽっちゃりスズメ。
それから金魚も時々出てくる。武山は金魚が好きなんだなあ。
そして、きっと昆虫も大好き。あちこちにミツバチ、トンボ。葉蔭にかくれるコオロギやバッタ。毛虫もいた。見えないくらい小さいのに、蟻すらしっかり描いている。
熊谷守一を思い起こす。庭の小さな世界を、朝に夕にじいっと見ていたんだろう。
小さな生き物に対してとても愛情深い武山。
昭和3年の12月の色紙「梟」は、最高にかわいかった。
地面にふんっと立っている。絣の着物を着たおじいさんみたい。小鳥が「な、なんだなんだ!?」
この年の色紙は、他のに比べてもわりに細やかに描かれていた。
昭和5年のものは、背景が朱のものがめだっていたけれど、先に観た「旭光双鶏」と同じ時期ににかかれたのかもしれない。二羽の鷺は少し警戒した目をしていて、芙蓉も芥子あやめも少し落ち着かない風だった。どうしたのかな?。植物や虫のリアルを追求したのかな?。それでも、雪に埋もれそうなぽっちゃり雀と南天がかわいかった。
昭和7年になると、なんだか自由になったような。波も自由なリズムを楽しんでいた。月に向かう蝙蝠の後ろ姿も、うきうき楽し気。少し稚拙に描かれた鳥など、面白みが見え隠れ。
生真面目なのにほんのちょっとだけおもしろみがかいま見える武山が、好ましくてならない。
とはいえ、さすがに1年に4セット目になるにつれ、武山も、飽きてきた感が・・。見る私が疲れてきたせいかな。この年は大日堂の建立の年。資金集めにせっせと描いたのだろうか。
最後のセットの11月は、飛び立つ小さな雉がかわいく、12月は三羽のぽっちゃり雀が「おわったぞ~」と伸びをしながら言ってるみたいだった。
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大観の備忘録を少しだけ。
大観「松鶴図」1915頃は、背景は地のまま。展覧会に出品されたものでなく、誰かの求めに応じたもの、とあった。六曲一双、大きな空白の背景は地のまま。たまに大観のざっくり過ぎにこんなんでいいのか?と思う。思い返してみれば、武山の「春暖」も地のまま残してあるけれど、その分ヤツデの面の緑や青、茶の複雑な色に入り込めたし、「錦魚」も、うすく墨がはいてあって、奥に広がる空気感の中にこちらを溶けこみ入らせてくれる。これもなにかもう少し・・。素人のたわごとです
参考展示の書籍「大正大震災火災」1923(大正12年)は、大観が表紙絵を手掛けた、その原画。真っ赤な大火に街が包まれて、すさまじいものだった。野間清治は、この災害を記録にとどめようと、震災後10日で編集案をまとめ、一ヶ月で刊行した。震災で大観邸は焼け残ったけれど、郵便局に占領され、大観自らも救護活動にあたったとか。
同じく参考展示で、「生々流転」1924(大正13年)の縮小版の複製がある。やはり複製でも見入った。これも震災でも焼け残ったもの。山中の深い霧に満たされた後、深い靄の中から川が流れ、こまかい水しぶき。そこは岩の山の別世界。猿が樹に。
「月明り」1920(大正9年) この作品は大観の気合が入っている。
雄大な山やまのすそを霞がみたす。少し見える月が白く輝くのを、二人の仙人が見上げる。松は細く松葉の線を描き込み、松ぼっくりも。月のあたりが一番明るく、手前の山の方はまだ暗やみに包まれていた。静かでしんとした空気。子供のころ実家でいつも見ていた遠くの山に似た形の山を、二つも見つけて驚いている。
「夜梅」1925(ぶれの大きい)大観が丁寧に描いた作なのだろう。
梅の蕾のがくには微妙な濃淡で墨が重ねられ、ほんのり色を感じるくらい。絵にむかう最初は暗さが印象的なのだけど、目が暗闇に慣れてくると、どんどん月の光の明るさが増してきた。最後には逆光が梅を浮かび上がらせるほど。そこに至るまでに少し時間が必要で、その間はつかの間の充足となる。
「飛泉」1928年(昭和三年)は、画面全体が斜め下へ大きく流れるている。と、流れていると思ったのは岩肌。滝の水流はうっすらとした青。水煙がのぼり瑞々しかった。
雨の日に傘をさして来たかいがありました。
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