はなナ

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●東博に初詣1 埴輪猿・松林図・李迪・仁清

2017-01-07 | Art

この日の東博の常設。 

三が日のイベントは終わってしまったけれど、まだお正月モード。

 

ひゅうと不思議な「埴輪猿」に捕まる。古墳時代6世紀 茨城県行方市置洲大日塚古墳

なんて邪気のない顔。両手と背中に?離痕があり、もとは子供を背負っていたらしい。背中を見遣るようなひねりはそのせい。子供、どこに行っちゃったんだろうね。どこかで出土してないんだろうか。

 

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長谷川等伯「松林図」は、昨年も観たのに同じ絵かと思うほど。揺さぶられる。

右隻の、激しい筆致は叫びのよう。去年もこんなに激しかっただろうか。等伯も亡き妻や息子を思っていたかもしれない。けっきょく絵は、どんな有名作でも、もうこの世のひとではない誰かが描いた痕跡。と無常感にさいなまれ始め、心を立て直したり。

横から強い風にはげしく押される。

そして大きな空白。風がぬけていく、大きな心の空白のよう。

それから上へ巻き上げられる。

意識が上へ飛んでいく。


左隻に移ると、遠くに山が見え、静かに木々が遠くから近くに。満ちていく大気の中で、意識が着陸していく。風が幾分収まったのかもしれない。大気の流れが右隻と少し違っている。

空間にも、木々の重なりが薄く。

足元にも余白の大気のところにも、うすく墨をひいていた。根元の方にも横に薄くひいていた。ここに等伯はどれだけいたんだろう。

左隻の松も筆致は荒いけれど、次第になびくように静かに。また満ちてくる大気、感情。

諦観、諦め、流され。失ったり去ったりしたあとに見える景色のように思えて、少し悲しくなった今年の松林図。

樹の根元に目が行ったのは、今年が初めてかもしれない。根を張るところもしっかり描いていた。等伯もここに足をつけて立っていた。

来年は、また違ったふうに感じるんだろう。と思ったら、来年のお正月は国宝ルームには展示されないらしい。

 

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二週間ほどの限定公開の、李迪の国宝へ直行。

15室 歴史の記録の部屋

 李迪「紅白芙蓉図」南宋時代 慶元3年(1197)

 
南宋「院体画」は、御舟も一時はまっていた。折に触れ日本の画家に影響したその本家本元。
 
朝のうちは白く、午後から色づき始める酔芙蓉。
左幅の白い芙蓉は少し青みがかって。朝のしんとした空気まで伝えてくる。
 
右幅は一輪は薄く色づき、もう一輪はより色を増して、昼すぎから夕方へのあいまいな時間の経過まで一枚に。
 
写実的で細密でありながら、ゆらめく気配を漂わせて、神秘的。
 
横にいた年配のグループの方々が、これ昔は東洋館にあったわよね、昔はもっと黒っぽくてよくわからなかったけど修復したのね、とおしゃべりしてたのを小耳にする。修復された方々の技術に感動。
 
 
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小川一馬Wikipedia)の静謐な写真。

「興福寺東金堂破損仏」1888

「金剛峯寺金堂内部」1888

明治15年に渡米し、ボストンの写真館で住み込みで学んだ技術。明治21年からは、九鬼伯爵らによる古美術文化財調査に加わり、文化財の調査撮影を行った。その写真自体が、いまや文化財になっている。

大政奉還後の廃仏毀釈で荒れた寺社。ひび割れ、摩耗した柱。無造作に立てかけられた仏像。静かに伝えてくる。

夏目漱石の肖像写真も小川一馬だったとは。

 

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仁清が数点。中学校の教科書で授業中にきれいだなあと見ていた仁清。実物に出会える幸せ。

野々村仁清「色絵月梅図茶壷」17世紀

後ろに回ってみると、月が。

ぐるっと一周歩く。

黒い梅の花。この情景が夜の闇の中であることに気付く。月は夜空と黒く反転し、雲が月光に照らされている。

一方の写真ではみえなかったところに、こんな月夜の世界が広がっていたとは。いまさらの発見、壺って360度の世界なのですね。

 

「錆絵山水図水差」仁清

逆さ三日月。仁清は水墨画風のさび絵(鉄絵)も腕が立つそう。ひび割れは関東大震災で破損したもの。なんと修復したのは六角紫水

 

「色絵梅花文茶碗」仁清 17世紀

なんてかわいい。金と赤と墨色の三色で。制限された中で、こんなに馥郁とした情感。お茶碗のほっくりとしたかたち、梅の花もつぼみもまるくてふっくら。心楽しくなるお茶椀。

 

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他にこの日の、鎌倉や室町の水墨や書で好きなものを置いておきましょう。

この時代のものは、気迫や内なる精神性のようなものが、筆にそのまま表出。

 

鎌倉末期では黙庵「白衣観音」 黙庵さんの顔はゆるくていいなあ。ほどける~。

 

 

一休さん、すごい。一筆で書き切る気迫

 

「山水図屏風」「秀峰」印 16世紀 は、名前もしらないけれど、しばらくこの屏風の中に漂う。

(クラーナハ画集を持った方が写りこんでしまった(すみません)。こうして見ると、山水とユディトの素敵な邂逅。)

 ふわりとした、モノクロの世界。墨がやわらかい。

 右隻

 もくもくとした雲と、どことなくかわいい村人にほっこり。

 ふわりとした中に、いくつかの濃い焦点。線だけで表現する山や岩の険しさ。微細な線も、ダイナミックで荒々しい線も見惚れてしまう、謎の「秀峰」さん。

右隻の最後は、湿った大気が充ち、スコールのような雨。

左隻は趣が一変。右隻は横の水平ラインなら、左隻は縦の垂直ライン。

薄日が差してきたところから始まる。

そして激しく切り立った山。筆を上から掃き下ろしたような、現実の形を超えた潔さが心地よい。ひとすじ塗り残した滝は、素直に重力に従う。

まるでナイアガラの滝のように、地球の核に収束。

 そしてそびえる雪山との合間に満ちてくる大気。

 この雄大な情景を見渡す高士に、私が見たものが凝集されるように移入して、収束。すばらしい体験だった。

この画家の中では、山も大気も岩も、形というより、「意」。

縦/横。ふんわりした筆/激しい筆。満ちるやわらかな大気/硬く澄んだ岩山。対比が面白い世界でもありました。

「秀峰」の名は不詳とのこと。"うねりと動きのある構図、猫背の人物は、雪村に近いが、雪村の号として「秀峰」は確認できない”と、思わせぶりな解説。今年は雪村展もあるので、心にとどめておいて確かめてみよう。


江戸絵画は次回に。



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