hanana

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●「伊東正次展」京王プラザホテル本館3階ロビーギャラリー

2017-04-16 | Art

「日本画 伊東正次展」京王プラザホテル 本館三階ロビーギャラリー

2017.4.11~19

 

作年の日展で伊東さんの「野仏図」を見てひかれ、よくよく見たらこの大きな画が気の遠くなるようなペン描きから成っているのに気づいて目を見張り、他の絵も見られる機会を楽しみにしていた。(日展の日記

 

 ホテルのロビーに大型の3点と、ティーラウンジのわきに花の小品。半地下のギャラリーには、スケッチやはがきサイズの絵等、約50点。

ホテルなので人が行きかい、美術館とはまた違う環境だけど、至近で見られる。パブリックな場所というのも絵を観る本来の場所のひとつであるし、中国語やスペイン語やスマホで話すビジネスマンの声も気にならず、むしろホテルの程よい雑踏感がいい感じ。不思議なことに美術館よりも没頭して見ていたかもしれない。

 

 まず、「桜図(三春の滝桜からイメージして)」という大襖絵に圧倒。

わ!と声が出てしまった。墨と銀の地に、気のとおくなるような膨大な桜の花びら。これだけの数をよくも描けるものだと、この方はどれだけの時間をこの絵とともに過ごしたのでしょう。

もうなんだかどう形容していいかわからない。

伊東さんも「どうやって描いたか思い出そうとしてもあまり思い出すことができません。たぶん無我夢中だったのだと思います」と。

福島の有名な滝桜ですが、絵を超えたなにかを内から放っているよう。

左の方の太い幹をみると、りゅうりゅうとうねるようで、内から盛り上がりあふれるような。

無骨な古木の幹の細部は細かく無数の筆で描き込んであり、その膨大な流れを目で追うと、伊東さんのリズムにとりこまれ、なんだか見るこちらもその血流?と同期化してしまう感じ。幹に生命はみなぎり、流れるものがある。実物の桜をみているのじゃないのに。

この古木の幹のなかに、襖をあけて入っていくことを想像すると、桜の木の精気が体に流れ込んできそう。

それから襖の右のほうに歩くと、闇夜にはらはら散る花びら。

咲きほこる花も、散る花びらも、夜の闇も美しくて、やっぱりなんかもうどう形容していいかわからない。

この闇夜の襖をあけてこの中にはいったら、どんなに幻想的な夜の世界なんだろう。

咲いて、樹を離れて散っていく花のかすかな呼吸。

まだこの三春の桜を見たことがないけれど、この絵で観られただけでもよかった。観るというより、感じる時間だった気もする。

 

それからこの絵の前を離れて、「岩上独猿図」へ。

少し高いところに展示してあったので、まず下の方の枯草が目に入る。それが筆ではなく、銀箔を貼っているのに驚き。それも荒々しく。

岩の放出するパワーときたら。岩の「意」が迫ってくるような。

 着色でというよりは、これも日展の絵のように、ペンでみっしりと描いてこの岩の立体感、硬い岩肌を表し出している。岩が、中の中まで無限の粒子でできてることを思い出す。どこの細部を観ても、膨大なもの。自然のものも、どれだけつき詰めていっても空でなく、膨大な細胞からなっていて、最後は元素に行きつき。とか思ったり。

これだけ緻密なのに、「暴力的」という言葉が浮かぶ。適切ではないのかもしれない。どうしてそう思ったのかなと思うと、たぶん人力を超えた自然の圧倒的なものを感じ、畏れの念がよぎったのかも。この長い作業の間に、伊東さんは岩の中にそういうものを感じていただろうか。

気付くと猿がこちらを見ている。目が合う。はってある銀箔もきっちりではなく、ゆらりとこの情景がゆれるような。逆光が輝く。ふと幻惑されるような。

 

それから「枯松上梟図」 壁一面の大きさ。

長谷川等伯の水墨(日記はこちら)を思い出す。あの絵ではカラスとふくろうの関係性に悩んでしまったのだった。

これは梟も烏も朽ちた木も森もすべてで、自然の気となる。人間の領域じゃないよう。

そしてこの樹の無数の枝↓↓のところには、心がいっぱいになった。突き放されたようで、泣きそうになる感覚。

凄い、としか。自然から受けた意をそのまま私はここで感じたような。写実なのか細密なのか、描く人が自然の意を体に取り込んで、そのまま腕から筆先からペンの先から表出させたよう。

 

三点の絵それぞれの、自然に憑依していたような膨大な時間と行為。伊東さんの絵を観て打たれるのは、そのかけた時間と行為によって、自然の内にある呼吸、精、めぐるもの、エネルギーなどをそのままに感じてしまうからなんでしょう。

鑑賞というより、感じる体験だった。

 

伊東さんは1962年 愛媛の久万高原生まれ。多摩美大を出、昨年の日展の出品作では特選も取られた。

花の絵やギャラリーに展示されていた木のスケッチも、心に残る気配を放っていました。

特に木のスケッチでは、山歩きのネイチャーガイドさんに聞いた話を思い出した。木は中が空洞になって、外側だけになって立っているものもあるけれど、養分や水を取り込んでいるのは外側の部分なので、立派に生きているのだとか。空洞で朽ちたような外観は壮絶ですらあるけれども。

次に伊東さんの絵を観て感じられのを待ち遠しく楽しみにしていよう。