今日は長崎に原爆投下されて70年になる。2015。
これは若い人を含めて、誰でも知っているだろうが、
これが、本来、その日の朝まで、米軍は小倉に投下予定だった。
これは周知の事実らしいが、長崎の被災者を考慮して、
未だに、全国的には、余り、語られないようだ。
したがってご存知でない方もおられると思うので・・・。
原爆投下時間は広島と同じく午前8時頃予定だったらしいが、
あいにくの曇天でB29からは目標を目視できなかったらしい。
この原爆投下ミッションは、
レーダー照準ではなく目視して行えというのが、
米軍の指令だったらしい。
小倉上空は、曇天でなく、黒い煙で覆われ続けていたらしい。
B29は、三回チャレンジしても、目標を目視できずに、燃料が切れ、
予備燃料に切り替えて午前10時30分ごろ小倉をあきらめ、
長崎で投下されたようだが、実は長崎も曇っていて目視ができずに、
レーダー照準で指令をやぶって投下したらしい。
当日は快晴だったという諸説もあるが・・・??地域差?
投下後の米軍撮影映像記録では厚い雲の間からキノコ雲が見れるようだ。
それが午前11時2分という、中途半端な時間帯に、又、
本来の目標をはずれたエリアに投下された理由らしい。
爆弾性能も広島型よりも強力だったらしいので、
晴天下なら、より被害は・・・。
この時のB29はテニアン島に帰る燃料はなく沖縄?の占領地の
空港で燃料補給した折には、20Lぐらいの残燃料で、
ガス欠寸前だったらしいが・・・????
当時の小倉上空の黒煙には諸説あるらしいが、
近年になって、リークされたのが、
八幡製鉄が、当日コールタールを燃やして、その煙を煙幕として、
戦術利用したらしいということだ。これは2014年7月26日付けの
毎日新聞に掲載されたようだが、もう毎日のウェッブでは見れないが、
小倉在住の方のブログに掲載されいてたのが現在でも読める。
「小倉原爆スクープ」
http://d.hatena.ne.jp/shins2m+new/20140726/p2
これ以外に気になるのが、広島投下後に、日本軍が、次の標的を
小倉と予測して、急遽、米軍捕虜を5000名、人間の盾として、
8月7日に小倉に連行してきたというのだ。
これに関しては、正式な情報公開はないが・・・・。
それも目標変更の要因として、考えてもおかしくはない。
詳しくは、上の方の別項目のブログに書かれてある。
『原爆投下は予告されていた』 (一条真也さんのブログ)
http://d.hatena.ne.jp/shins2m/20110810/1312902090
この8月7日という日が、昨日書いた、原爆プルトニウムを運搬し、
下ろして別の任務についていて撃沈されたインディアナポリスの
漂流していた搭乗員を、米軍が救助を終えた日に偶然該当するので、
ここらの、日米の情報合戦は、
それなりにシビアーだったのかもしれない。
日本側の最高責任者は東京裁判で、すでに他界済みなので、
ここら辺の、真の、情報開示は今後もまったくないと思われる。
だから推測の域になるかもしれないので、
メジャーマスコミからも、今後、報道される事はないかもしれない・・・・・。
今年の報道でもないようだ。
やはり、どうしても長崎の被災者に、配慮して、
遠慮していく内容ではあるだろう・・・。
ただ、若い人たちに、次のことは言いたい。
真珠湾攻撃の報復と思われるが、内容が違う。
日本軍はハワイの米軍の施設や艦艇を攻撃し、
現地の民間地域の無差別攻撃を行っていない。
そんなことしてたら、今だにハワイには行きにくいだろうに。と
それに対しては、なんの罪のない人の上に、
焼夷弾や原爆は・・・・。
戦時下は米軍に限らず、すべての戦時国が、どうかしていたのか?
世界的に異常な狂気の時代だったかもしれない。その戦火の中、
自分たちの先代が生き延びていてくれたから、今の我々がある。
そのありがたみ、苦しさ?、ともども感謝しなければと思う。
生きていればこそだ。死んだら終わり。
神が原爆を引き寄せたと信じる。命を大切に。!!