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1945年8月9日、小倉(現北九州市?)に原爆は投下予定が、なぜ?長崎へ?

2015年08月09日 | 原爆秘話・ドキュメンタリー

今日は長崎に原爆投下されて70年になる。2015。

これは若い人を含めて、誰でも知っているだろうが、

これが、本来、その日の朝まで、米軍は小倉に投下予定だった。

これは周知の事実らしいが、長崎の被災者を考慮して、

未だに、全国的には、余り、語られないようだ。

したがってご存知でない方もおられると思うので・・・。

原爆投下時間は広島と同じく午前8時頃予定だったらしいが、

あいにくの曇天でB29からは目標を目視できなかったらしい。

この原爆投下ミッションは、

レーダー照準ではなく目視して行えというのが、

米軍の指令だったらしい。

小倉上空は、曇天でなく、黒い煙で覆われ続けていたらしい。

B29は、三回チャレンジしても、目標を目視できずに、燃料が切れ、

予備燃料に切り替えて午前10時30分ごろ小倉をあきらめ、

長崎で投下されたようだが、実は長崎も曇っていて目視ができずに、

レーダー照準で指令をやぶって投下したらしい。

当日は快晴だったという諸説もあるが・・・??地域差?

投下後の米軍撮影映像記録では厚い雲の間からキノコ雲が見れるようだ。

それが午前11時2分という、中途半端な時間帯に、又、

本来の目標をはずれたエリアに投下された理由らしい。

爆弾性能も広島型よりも強力だったらしいので、

晴天下なら、より被害は・・・。

この時のB29はテニアン島に帰る燃料はなく沖縄?の占領地の

空港で燃料補給した折には、20Lぐらいの残燃料で、

ガス欠寸前だったらしいが・・・????

当時の小倉上空の黒煙には諸説あるらしいが、

近年になって、リークされたのが、

八幡製鉄が、当日コールタールを燃やして、その煙を煙幕として、

戦術利用したらしいということだ。これは2014年7月26日付けの

毎日新聞に掲載されたようだが、もう毎日のウェッブでは見れないが、

小倉在住の方のブログに掲載されいてたのが現在でも読める。

小倉原爆スクープ」

 http://d.hatena.ne.jp/shins2m+new/20140726/p2 

これ以外に気になるのが、広島投下後に、日本軍が、次の標的を

小倉と予測して、急遽、米軍捕虜を5000名、人間の盾として、

8月7日に小倉に連行してきたというのだ。

これに関しては、正式な情報公開はないが・・・・。

それも目標変更の要因として、考えてもおかしくはない。

詳しくは、上の方の別項目のブログに書かれてある。

『原爆投下は予告されていた』  (一条真也さんのブログ)

http://d.hatena.ne.jp/shins2m/20110810/1312902090

この8月7日という日が、昨日書いた、原爆プルトニウムを運搬し、

下ろして別の任務についていて撃沈されたインディアナポリスの

漂流していた搭乗員を、米軍が救助を終えた日に偶然該当するので、

ここらの、日米の情報合戦は、

それなりにシビアーだったのかもしれない。

日本側の最高責任者は東京裁判で、すでに他界済みなので、

ここら辺の、真の、情報開示は今後もまったくないと思われる。

だから推測の域になるかもしれないので、

メジャーマスコミからも、今後、報道される事はないかもしれない・・・・・。

今年の報道でもないようだ。

やはり、どうしても長崎の被災者に、配慮して、

遠慮していく内容ではあるだろう・・・。

ただ、若い人たちに、次のことは言いたい。

真珠湾攻撃の報復と思われるが、内容が違う。

日本軍はハワイの米軍の施設や艦艇を攻撃し、

現地の民間地域の無差別攻撃を行っていない。 

そんなことしてたら、今だにハワイには行きにくいだろうに。と

それに対しては、なんの罪のない人の上に、

焼夷弾や原爆は・・・・。

戦時下は米軍に限らず、すべての戦時国が、どうかしていたのか?

世界的に異常な狂気の時代だったかもしれない。その戦火の中、

自分たちの先代が生き延びていてくれたから、今の我々がある。

そのありがたみ、苦しさ?、ともども感謝しなければと思う。

生きていればこそだ。死んだら終わり。

神が原爆を引き寄せたと信じる。命を大切に。!!

もし、歴史を変えられるならば原爆阻止か?

広島・長崎の原爆―アメリカ製作フィルム

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もし、歴史を変えられるならば原爆阻止か?

2015年08月08日 | 原爆秘話・ドキュメンタリー

これはあくまでも、

一部、仮想のはなしSFの世界なので、

そういう前提で読んで欲しい。

ーー インディアナ・ポリス(重巡洋艦)、魚雷沈没事件 ーー 

テニアン島に原爆のパーツを輸送したインディアナ・ポリスを

テニアン島、到着までに、沈めたら歴史が変わっていたのだが、

ウィキーによれば、1945年7-16サンフランシスコを出て、

7-19ハワイ真珠湾経由 7-26テニアン島(サイパン島の隣の島)到着。

そこで極秘荷物を降ろし、それが8-6広島。8-9長崎に落とされたのだ。

ただこの船は、7-30に日本海軍の潜水艦伊58に魚雷攻撃で沈められたのだ。

この時投げ出された水夫達の一部がサメの餌食になり、その話が映画
「ジョーズ」の中で、サメ狩りの船長が披露していたようだが・・・。

乗員1199名中、300人が沈没時死亡。約900名が漂流。

8-2に米軍哨戒機が発見。8-7に生存者は300名になり救助を終える。

600名はサメや救命胴衣なしの漂流疲れで海の藻屑と化した。

このインディアナポリスの艦長は、

その後、米軍の軍法会議で有罪になり、

水夫の遺族達に責められて1968年自殺したらしい。 

軍法会議では伊58の艦長も出廷証言させられたらしい。

要するにタイムトンネルがあれば、伊58に乗り込んで、

テニアン島到着までに魚雷と回天の総攻撃で攻撃、沈没させたら、

広島・長崎の惨状はなかった事になる。この時代の戦況下、

伊号には回天も含んでいたらしい・・・・。

とまぁ、まったくありえない一部、仮想の話だが、

事実としての、沈没・救助の日付と

広島・長崎投下の日付を重ねると興味はある。

米軍にとっても極秘荷物を下ろした艦が、

数日後に伊58に撃沈されたことは、ショックで、

日本側、伊58でもなにやら重要船沈没の情報は掴んでいたらしい。

こういったことが日本への原爆投下にも、

少なからずの影響はあったかもしれない。

この沈没事件さえなければ、インディアナポリスの乗組員や艦長は

エノラゲイのクルーのように英雄として賞賛されたかもしれないが。

日本側の伊58の艦長もテニアン島到着前なら、

大金星の英雄になれたかも。

いずれにせよドイツ降伏の後の時期では、

日本の敗色は時間の問題だけだったので、

原爆投下を阻止しても、さらに戦況は悪化の一歩を

たどってしまい予測不可能な状況にはなっただろう。

1945年8月9日は、小倉(現北九州市?)に原爆は投下予定だったのに。なぜ?長崎へ?

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因縁のフェリー事故。日本航海士のすごい航法。

2014年04月22日 | 原爆秘話・ドキュメンタリー

お隣の大惨事海運事故の5年前に、日本国内でも

同様の事故はあった。船は異なるが、なんと今回の前所有会社が

同じA海運会社で、ほぼ同様の形式の船体だった。しかし、

この時の船長の操船能力は、問題なく、的確な処理だった。

なんと傾いたまま2時間も動いていて、最終的には浅瀬に乗り上げ

沈没を食い止めたようで、今回のお隣の国の事故とは対照的だった。

フェリー強風で横倒し28人を全員救助

 三重県沖(09/11/13)

海上保安庁撮影 マルエーフェリー

「ありあけ」横転事故 2009.11.13

見よ!!この日本の航法??すごい!!

 

今回の事故原因はだんだん詳細が明らかになっていくが、

結局過積載に起因する事故で、避難指示の不手際の、

多重過失事故なのかもしれない。

話は変わるが4000年の国のM商船の鉄鉱石運搬船の

差し押さえ事件も恐ろしい話だ。

あの国では民事の時効がないのか?

戦前に我々の親やおじきに貸した金を返せという主張が

認められているというような判決が出て、それの代執行という訳だ。

本国や香港旅行中にいきなり当局から身柄拘束されるようなものだ。

金回りが豊かになっているはずの国だが、やることはヤ・ZAに等しい。

あいかわらずあなどれないない国のひとつかもしれない。

この事件中華思想を理解しておれば、ある程度の察しはつく。

中華思想では罪人は永遠に罪人で、日本では罪人も死ねば

おとがめはナシになるが、向こうでは死んでも罪人は罪人のままになる。

そういう考えなのだ。それにしても民事の時効はあの国ではないのか?

よく調べていないので正確な詳細は不明。 

 

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