建物内の各所では人間の姿に化けたまま、狐や狸たちが拭き掃除やら掃き掃除やら、精力的に働いていた。
俺は彼らに部屋の場所を聞くと、俺の部屋は2階にあるという事だった。
ここには2階があるのか、と階段を探すがなかなか見あたらない。
見た目の割にこの建物は広く、部屋数も豊富だった。
確かに民宿として十分やっていけそうである。
ただ長い間使われていなかったのか、汚れ放題汚れていた。
そしてしばらく建物内をさまよった後、ふと目についた物置のような木の扉を開けると、そこに階段があった。
「なんと分かりにくい」
細くて急な階段は大変上りにくかった。
さらに滑る。
俺はどうにか滑らないように上へと上ると、両サイドにドア。
どちらも窓のようにガラスが張ってあり、左側のドアのガラスからはなにやらものがごちゃごちゃと詰め込まれているのが見える。
どうも左側の部屋は物置と化しているようだ。
俺の部屋はきっと右側の扉の先だろう。
ドアを開け、室内を覗いた俺は息を飲んだ。
「これは!俺の部屋ではないか!」
まぁ、俺の部屋なのは当たり前なのだが。
どうして俺がここまで驚いたのかというとだな。
前住んでいた部屋とそっくりの部屋だったからだ。
試しに後ろを振り返ってみたが、俺の背後には汚い廊下ではなく、物の詰め込まれている部屋の扉がある。
ここは俺が住んでいたボロアパートではない。
しかし、視線を前に戻せば確かにそこは俺の部屋である。
隅から隅までそのままのレイアウト。
前の家と違うのは、玄関やキッチンがない事と、入り口の位置が違う事くらいだった。
他は窓の位置まで不気味なほど同じであり、見慣れた六畳間はにおいまで同じである。
俺のこだわり遮光カーテンが風にさわさわと揺れていた。
俺は鳥肌が立ってしまった腕を摩りつつ、部屋を見回す。
すると、窓の斜め下辺りに置いてある机の上に何か置いた覚えのない物があるのが見えた。
「ガム!」
近づいてい見ると机の上に置いてあったのは俺の大好物のミントガムであった。
俺はすぐさまそれを手に取り頬ずりをする。
が、そこへ、「何してんの?」という声が響いた。
すぐに頬からガムを引きはがし後ろ手に隠す。
そして部屋の入り口を見ると、マッシュルームヘアの男が立っていた。
「な、なんだ。おまえか」
「今何隠したのさ?」
彼、”とろわ”もまだ人間に化けたままのようだ。
「何しにきた?君たちは掃除をしているんじゃないのか?」
「いや、なに。僕は戦力外なのさ」
「戦力外?」
ただのサボりではないのか。
「別にサボっているわけじゃない。僕が仕事をするとろくな事が起こらないからみんな僕に仕事をしろなんて言わないのさ」
ろくな事がないとはどういう事だ。
失敗ばかりするという事か?
「とにかく。僕は暇だからさ、オーナーについてくよ。この町の事とか、ここらに住む人間も人間以外の生き物も僕は狸一知ってる」
えっへんと胸を張る”とろわ”。
信頼しても大丈夫だろうか、こいつ。
「見知らぬ町で一人は不安でしょ?僕が案内してあげようじゃないか」
こうして俺の顔を覗き込む奴はよく考えると、見た目は俺と同じくらいの年に見える。
そういえば他の狸や狐たちの仲に俺と同い年くらいに見える奴はいなかったな。
目つきの悪いあの”いー”って奴も、俺より年上っぽかったし。
もしや一番気が合うのが、こいつだったりしてな。
髪型の趣味はさっぱり合わないが、その他の事ならもしかすると趣味が合うかも知れない。
「それなら案内してもらおうじゃないか。これからある喫茶店に客を迎えにいく」
俺は邪魔にはならないだろうと踏んで、奴を連れていく事にした。
何度も見た町だといっても実際に来たのは今回が初めてなわけで、些か心細い。
だれか一緒に来てくれるとなると、ありがたかった。
「ほぉ、赤っ鼻か」
俺がリョウにもらった地図のメモを見せると、彼はそう呟いた。
メモ用紙にはこの建物と道を示す線、目的地を示す丸しか描かれておらず店の名前などの情報は全く書かれていない。
「あ、あかっぱな?」
「そう、このあたりの喫茶店と言えばそこくらいしかないよ」
そんな奇妙な名前の喫茶店は見た事も聞いた事もない。
俺はなんとなく赤鼻のトナカイと、真っ赤な顔に長い鼻を持った天狗の姿を同時に思い浮かべた
「まぁ、案内するからとにかく行ってみようじゃないのさ」
:
空は爽やかに晴れ、朝とはいえ随分と暑い。
しかし隣の人間に化けた狸は長袖長ズボンでも何食わぬ顔をして歩いている。
化け物か?!
あ、そうか化け物か。
化け狸だものな。
八百屋や肉屋、魚屋など昔ながらの店が並ぶ通りを逸れ、しばらくわき道に入って進んでいくと、その喫茶店へと辿り着いた。
店は以外とお洒落で、都会でもやっていけそうなこ洒落た造りである。
店内の見えるショーウインドーのようなガラス窓と、木のドア。
それらの上には大きな看板が掲げられ、”AKAPPANA”とでかでかと真っ赤な色で書かれていた。
ここまで案内してくれた”とろわ”を後ろに引き連れ、俺は早速入店する。
中に入るとそこにはまず、レジなどが置かれた小さなカウンターがあった。
しかしカウンターには誰もいない。
カウンター脇にはのれんの掛かった通路があり、厨房などに通じているようである。
店内は真新しい木材で壁が作られ、床は石畳、どこか和風な喫茶店である。
置いてある机や椅子も木製で、椅子には日本らしい座布団が敷かれている。
なかなか新居心地が良さそうだ。
そして、店内を見渡すと、そこにはフランスとでかでかと書かれた旅行雑誌を読みふける男性客が一人いるだけだった。
彼は青い浴衣のような服を着ており、肌は白い。
そして彼は目立つ金髪ボサボサ頭であった。
いかれた学生か?
「おやぁ?カラスマさんじゃないか」
すると不意に俺の後ろにいた”とろわ”が顔を覗かせた。
彼の声を聞き、ひょいと顔を上げるいかれた学生のような男。
「おやぁ、“とろわ”ではないか!」
どことなく間延びした口調で言うと、男はぱっと表情を明るくした。
「カラスマ?」
さっき”とろわ”がそう言ったが、それが男の名前なのだろうか。
「そう、彼はカラスマさん。鳥に丸とかいてカラスマさんだ。トリマルさんじゃないよ」
烏丸?
京都かどこかでそんな地名を聞いたような気がする。
「君は?」
首を傾げる俺に例のカラスマさんが聞いてきた。
「あぁ、俺は田中と言います」
「ふぅん、人間界ではよく聞く名前だ。覚え易くてよろしい」
おまえに俺の名前の評価をされる筋合いはない。
というか人間界、という物言いはどういう事だ。
おまえはいかれポンチの学生ではないのか。
「君、やけに嫌な目で僕を見るねぇ。こう見えても僕は天狗だぞぅ」
「て、天狗?!」
俺は己が目を疑った。
何度も瞬きをし、目を擦ったが、目の前の金髪いかれポンチの姿は毛ほども揺らがない。
「何か失礼なことを考えていないかぁ、君ぃ。僕はフランスを愛するが故にこのような西洋人っぽい金髪をしているのだぞぅ」
なるほどこの人はフランスが好きでフランスの旅行雑誌を熱心に読みふけっていたのか。
しかし、髪を金髪にして西洋人っぽさを演出するのなら、服装もフレンチしたらどうなのだ。
服は明らかにジャパニーズではないか。
「僕はフランスも好きだけどねぇ、同じように日本も大好きなのさ。だから着物」
確かに顔は日本人である。
金髪は似合わない事もないが、全く天狗には見えない。
鼻も長くないし、顔も赤くないし、服装も地味な着物を着ているだけだし、天狗っぽい威厳やら風格が欠片もない。
まぁ、実際に天狗なんて物を見た事があるわけではないので、本物の天狗はこうだ!と言い切る事はできないが、彼の姿は天狗のイメージを根底から覆す物だった。
「で、烏丸さんがうちのお客さん第一号?」
「おぉ、そうだ。リョウ氏から話は聞いたよ。君が民宿をやるんだってね」
やはり彼もリョウから話を聞いたのか。
いったい奴はどれだけ暗躍すれば気が済むのだろう。
「ちょうどフランスから帰って来たところだったんだ。次の旅行に行くまでしばらく泊まらせてもらうよ」
「あ、ありがとうございます」
やはりここは店側として丁寧に礼を言っておいた方がいいのだろうか。
「それじゃ、一ヶ月は世話になるよ、よろしくね」
そしてカラスマさんは机の上にあったコーヒーを飲み干すと、席を立った。
彼はすたすたとレジに向かい、着物の袂から小銭をいくつか摘み出す。
まだレジカウンターには誰もいない。
一体店員はどこに行ったのだろう。
「ごちそうさん、また来るよ」
カラスマさんはレジの誰もいない空間に向かって声をかけると、小銭をカウンターにおき、さっさと店を出て行ってしまう。
じっとカウンターの方を見るが誰もいない。
もしかしてカウンター横の通路の方に誰かいるのだろうか?
しかしカラスマさんはあまり声を張っているようには見えなかった。
いくら首を傾げてもよく分からない。
「タロー君、早くしたまえ、烏丸さんが待ってる」
不意に”とろわ”に顔を覗かれた。
「こら!下の名前で呼ぶんじゃない!」
「何で?」
「な、何でもだ!」
「何でもって?」
「俺には俺なりの下の名前を呼ばれたくない理由があるのである!」
”とろわ”と言い争いながら店を出ようとすると、不意に後ろで小銭がぶつかるような微かな音がした。
振り返るといつの間にカウンター上に合ったはずの小銭が消えていた。
しかし、相変わらずカウンターに店員の姿はなかった。
:
このようにして、俺は妖怪向け民宿を経営する事となった。
記念すべき一番最初のお客はカラスマというフランスを愛してやまない自称天狗。
偏屈で取っつきにくい人物ではなかっただけマシだが、訳の分からない人物である。
そして、平凡レールを外れてからの俺は、一度入ってしまえば吐き気を催すほど回る羽目になる運命の渦に巻き込まれてしまった。
めくるめく非現実的日常。
お客を一人確保できたから安心というのは間違った考え方である。
お客がいるからこそ渦は加速し勢いを増すのだ。
俺に休む間も、渦から抜け出す隙もなかった。
俺の周りにはいくらでも渦の勢力源となる火種が転がっていたのである。
そもそもはリョウとかいう男が原因であるが、彼の話にイエスと言った俺も悪い。
ここからはできるだけ火種をまかないようにし、渦を沈めよう、そう考えていた矢先、目の前で火の粉が散ったのである。
今回の火種は、歓迎すべき客であるはずの、カラスマ氏であった。
「ねぇ、君。天狗にならない?」
彼の新たな火種的発言に俺は吐き気を催した。
俺は彼らに部屋の場所を聞くと、俺の部屋は2階にあるという事だった。
ここには2階があるのか、と階段を探すがなかなか見あたらない。
見た目の割にこの建物は広く、部屋数も豊富だった。
確かに民宿として十分やっていけそうである。
ただ長い間使われていなかったのか、汚れ放題汚れていた。
そしてしばらく建物内をさまよった後、ふと目についた物置のような木の扉を開けると、そこに階段があった。
「なんと分かりにくい」
細くて急な階段は大変上りにくかった。
さらに滑る。
俺はどうにか滑らないように上へと上ると、両サイドにドア。
どちらも窓のようにガラスが張ってあり、左側のドアのガラスからはなにやらものがごちゃごちゃと詰め込まれているのが見える。
どうも左側の部屋は物置と化しているようだ。
俺の部屋はきっと右側の扉の先だろう。
ドアを開け、室内を覗いた俺は息を飲んだ。
「これは!俺の部屋ではないか!」
まぁ、俺の部屋なのは当たり前なのだが。
どうして俺がここまで驚いたのかというとだな。
前住んでいた部屋とそっくりの部屋だったからだ。
試しに後ろを振り返ってみたが、俺の背後には汚い廊下ではなく、物の詰め込まれている部屋の扉がある。
ここは俺が住んでいたボロアパートではない。
しかし、視線を前に戻せば確かにそこは俺の部屋である。
隅から隅までそのままのレイアウト。
前の家と違うのは、玄関やキッチンがない事と、入り口の位置が違う事くらいだった。
他は窓の位置まで不気味なほど同じであり、見慣れた六畳間はにおいまで同じである。
俺のこだわり遮光カーテンが風にさわさわと揺れていた。
俺は鳥肌が立ってしまった腕を摩りつつ、部屋を見回す。
すると、窓の斜め下辺りに置いてある机の上に何か置いた覚えのない物があるのが見えた。
「ガム!」
近づいてい見ると机の上に置いてあったのは俺の大好物のミントガムであった。
俺はすぐさまそれを手に取り頬ずりをする。
が、そこへ、「何してんの?」という声が響いた。
すぐに頬からガムを引きはがし後ろ手に隠す。
そして部屋の入り口を見ると、マッシュルームヘアの男が立っていた。
「な、なんだ。おまえか」
「今何隠したのさ?」
彼、”とろわ”もまだ人間に化けたままのようだ。
「何しにきた?君たちは掃除をしているんじゃないのか?」
「いや、なに。僕は戦力外なのさ」
「戦力外?」
ただのサボりではないのか。
「別にサボっているわけじゃない。僕が仕事をするとろくな事が起こらないからみんな僕に仕事をしろなんて言わないのさ」
ろくな事がないとはどういう事だ。
失敗ばかりするという事か?
「とにかく。僕は暇だからさ、オーナーについてくよ。この町の事とか、ここらに住む人間も人間以外の生き物も僕は狸一知ってる」
えっへんと胸を張る”とろわ”。
信頼しても大丈夫だろうか、こいつ。
「見知らぬ町で一人は不安でしょ?僕が案内してあげようじゃないか」
こうして俺の顔を覗き込む奴はよく考えると、見た目は俺と同じくらいの年に見える。
そういえば他の狸や狐たちの仲に俺と同い年くらいに見える奴はいなかったな。
目つきの悪いあの”いー”って奴も、俺より年上っぽかったし。
もしや一番気が合うのが、こいつだったりしてな。
髪型の趣味はさっぱり合わないが、その他の事ならもしかすると趣味が合うかも知れない。
「それなら案内してもらおうじゃないか。これからある喫茶店に客を迎えにいく」
俺は邪魔にはならないだろうと踏んで、奴を連れていく事にした。
何度も見た町だといっても実際に来たのは今回が初めてなわけで、些か心細い。
だれか一緒に来てくれるとなると、ありがたかった。
「ほぉ、赤っ鼻か」
俺がリョウにもらった地図のメモを見せると、彼はそう呟いた。
メモ用紙にはこの建物と道を示す線、目的地を示す丸しか描かれておらず店の名前などの情報は全く書かれていない。
「あ、あかっぱな?」
「そう、このあたりの喫茶店と言えばそこくらいしかないよ」
そんな奇妙な名前の喫茶店は見た事も聞いた事もない。
俺はなんとなく赤鼻のトナカイと、真っ赤な顔に長い鼻を持った天狗の姿を同時に思い浮かべた
「まぁ、案内するからとにかく行ってみようじゃないのさ」
:
空は爽やかに晴れ、朝とはいえ随分と暑い。
しかし隣の人間に化けた狸は長袖長ズボンでも何食わぬ顔をして歩いている。
化け物か?!
あ、そうか化け物か。
化け狸だものな。
八百屋や肉屋、魚屋など昔ながらの店が並ぶ通りを逸れ、しばらくわき道に入って進んでいくと、その喫茶店へと辿り着いた。
店は以外とお洒落で、都会でもやっていけそうなこ洒落た造りである。
店内の見えるショーウインドーのようなガラス窓と、木のドア。
それらの上には大きな看板が掲げられ、”AKAPPANA”とでかでかと真っ赤な色で書かれていた。
ここまで案内してくれた”とろわ”を後ろに引き連れ、俺は早速入店する。
中に入るとそこにはまず、レジなどが置かれた小さなカウンターがあった。
しかしカウンターには誰もいない。
カウンター脇にはのれんの掛かった通路があり、厨房などに通じているようである。
店内は真新しい木材で壁が作られ、床は石畳、どこか和風な喫茶店である。
置いてある机や椅子も木製で、椅子には日本らしい座布団が敷かれている。
なかなか新居心地が良さそうだ。
そして、店内を見渡すと、そこにはフランスとでかでかと書かれた旅行雑誌を読みふける男性客が一人いるだけだった。
彼は青い浴衣のような服を着ており、肌は白い。
そして彼は目立つ金髪ボサボサ頭であった。
いかれた学生か?
「おやぁ?カラスマさんじゃないか」
すると不意に俺の後ろにいた”とろわ”が顔を覗かせた。
彼の声を聞き、ひょいと顔を上げるいかれた学生のような男。
「おやぁ、“とろわ”ではないか!」
どことなく間延びした口調で言うと、男はぱっと表情を明るくした。
「カラスマ?」
さっき”とろわ”がそう言ったが、それが男の名前なのだろうか。
「そう、彼はカラスマさん。鳥に丸とかいてカラスマさんだ。トリマルさんじゃないよ」
烏丸?
京都かどこかでそんな地名を聞いたような気がする。
「君は?」
首を傾げる俺に例のカラスマさんが聞いてきた。
「あぁ、俺は田中と言います」
「ふぅん、人間界ではよく聞く名前だ。覚え易くてよろしい」
おまえに俺の名前の評価をされる筋合いはない。
というか人間界、という物言いはどういう事だ。
おまえはいかれポンチの学生ではないのか。
「君、やけに嫌な目で僕を見るねぇ。こう見えても僕は天狗だぞぅ」
「て、天狗?!」
俺は己が目を疑った。
何度も瞬きをし、目を擦ったが、目の前の金髪いかれポンチの姿は毛ほども揺らがない。
「何か失礼なことを考えていないかぁ、君ぃ。僕はフランスを愛するが故にこのような西洋人っぽい金髪をしているのだぞぅ」
なるほどこの人はフランスが好きでフランスの旅行雑誌を熱心に読みふけっていたのか。
しかし、髪を金髪にして西洋人っぽさを演出するのなら、服装もフレンチしたらどうなのだ。
服は明らかにジャパニーズではないか。
「僕はフランスも好きだけどねぇ、同じように日本も大好きなのさ。だから着物」
確かに顔は日本人である。
金髪は似合わない事もないが、全く天狗には見えない。
鼻も長くないし、顔も赤くないし、服装も地味な着物を着ているだけだし、天狗っぽい威厳やら風格が欠片もない。
まぁ、実際に天狗なんて物を見た事があるわけではないので、本物の天狗はこうだ!と言い切る事はできないが、彼の姿は天狗のイメージを根底から覆す物だった。
「で、烏丸さんがうちのお客さん第一号?」
「おぉ、そうだ。リョウ氏から話は聞いたよ。君が民宿をやるんだってね」
やはり彼もリョウから話を聞いたのか。
いったい奴はどれだけ暗躍すれば気が済むのだろう。
「ちょうどフランスから帰って来たところだったんだ。次の旅行に行くまでしばらく泊まらせてもらうよ」
「あ、ありがとうございます」
やはりここは店側として丁寧に礼を言っておいた方がいいのだろうか。
「それじゃ、一ヶ月は世話になるよ、よろしくね」
そしてカラスマさんは机の上にあったコーヒーを飲み干すと、席を立った。
彼はすたすたとレジに向かい、着物の袂から小銭をいくつか摘み出す。
まだレジカウンターには誰もいない。
一体店員はどこに行ったのだろう。
「ごちそうさん、また来るよ」
カラスマさんはレジの誰もいない空間に向かって声をかけると、小銭をカウンターにおき、さっさと店を出て行ってしまう。
じっとカウンターの方を見るが誰もいない。
もしかしてカウンター横の通路の方に誰かいるのだろうか?
しかしカラスマさんはあまり声を張っているようには見えなかった。
いくら首を傾げてもよく分からない。
「タロー君、早くしたまえ、烏丸さんが待ってる」
不意に”とろわ”に顔を覗かれた。
「こら!下の名前で呼ぶんじゃない!」
「何で?」
「な、何でもだ!」
「何でもって?」
「俺には俺なりの下の名前を呼ばれたくない理由があるのである!」
”とろわ”と言い争いながら店を出ようとすると、不意に後ろで小銭がぶつかるような微かな音がした。
振り返るといつの間にカウンター上に合ったはずの小銭が消えていた。
しかし、相変わらずカウンターに店員の姿はなかった。
:
このようにして、俺は妖怪向け民宿を経営する事となった。
記念すべき一番最初のお客はカラスマというフランスを愛してやまない自称天狗。
偏屈で取っつきにくい人物ではなかっただけマシだが、訳の分からない人物である。
そして、平凡レールを外れてからの俺は、一度入ってしまえば吐き気を催すほど回る羽目になる運命の渦に巻き込まれてしまった。
めくるめく非現実的日常。
お客を一人確保できたから安心というのは間違った考え方である。
お客がいるからこそ渦は加速し勢いを増すのだ。
俺に休む間も、渦から抜け出す隙もなかった。
俺の周りにはいくらでも渦の勢力源となる火種が転がっていたのである。
そもそもはリョウとかいう男が原因であるが、彼の話にイエスと言った俺も悪い。
ここからはできるだけ火種をまかないようにし、渦を沈めよう、そう考えていた矢先、目の前で火の粉が散ったのである。
今回の火種は、歓迎すべき客であるはずの、カラスマ氏であった。
「ねぇ、君。天狗にならない?」
彼の新たな火種的発言に俺は吐き気を催した。
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