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それから数日間、毛は趙雲のうしろにくっつくようにして、あちこちを移動しつつ、絵を描くべく、書画の道具をもって、孔明の姿の見える場所に陣取り、下書きをはじめていた。
とはいえ、それは描いては、破棄し、ふたたび描いては、首をひねって、やっぱりやめる、といった繰り返しである。
紙はとても高価なものであり、劉備が自腹を切って、毛のために用意したものである。
こいつはわかっているのかな、とハラハラしつつ、趙雲はなりゆきを見守っていた。
毛は、開け放たれた孔明の執務室からよく見える、中庭の東屋に座り、青葉のはざまから見える、机に向かって刀筆を動かしている孔明の姿を、熱心に観察していた。
趙雲も、調練の合間をみては、毛のとなりで、同じように、じっと孔明を観察する。
いつも見慣れているものだったから、注意して観察したことがなかったが、孔明の容姿は素晴らしく均整が取れていると思う。
座って、背を伸ばし、やわらかな光沢を見せる絹の衣裳を床に垂らして、細い指先をしきりに動かしている様は、近づけば、すぐそこにいることはわかっているが、どこか蜃気楼のようにつかみ所がなく、神秘的な別世界の住人のようにも見える。
孔明は、徐庶に剣を倣った程度で、集中して身体を鍛えたことが無いという。
それでいて、あの余計な肉のひとつもない、完璧なまでに均整のとれた身体を保っていられるのだから、たいしたものである。
孔明という人物を説明するとき、能力に見合うだけの努力をしているのもたしかだが、生まれつき天に愛されている者、ということで、本当はすべての説明がついてしまうのかもしれない。
「わたしは、なんとなく判ってまいりました」
と、筆を動かしつつ、毛は言った。
横を見れば、そこには、十七の若者とは思えない、真摯な表情があった。
「当初、主公に軍師の絵を描け、と言われたとき、わたしはあのかたの外貌を、いかに捕らえるかばかりを考えておりました。
男とも女ともつかぬ、曖昧な美。それがどこから発せられるものなのか、魏将軍がおっしゃったように、顔立ちは女のようであるのに、上背がある、という不均衡さに不可思議な魅力があるのか、関将軍がおっしゃったように、表情にあるのか、それとも胡主簿がおっしゃったように、仕草と雰囲気か、あるいは張将軍がおっしゃったように、琅邪のご出自だから、もともとからして不思議なお方なのか」
「結論は出たのか」
「まだ迷いはございますが、胡主簿がおっしゃったとおり、あの方の外貌だけを描こうとするのは無理なのです。張将軍が描かれたような、単なる美人画になってしまいます。魂がそこに入らなければ、それは軍師の絵ではない」
「おまえ、むずかしいことを言うな」
「そうでしょうか。軍師のことを尋ねると、みなさまは、わたしが絵を描くとわかってらっしゃるのに、その外貌ではなく、内面を語ろうとなさる。
親しい方であればあるほど、あの方がどんな方か、わたしに教えようとなさる。あの方は、とてもみなさまに好かれておいでなのですね」
「そうだろうか」
ぶっきらぼうに答えつつ、趙雲は、こいつは、若いのに、なかなかよく見ているな、と感心していた。
毛は、傍らにおいていた紙を、一枚趙雲に差し出す。
そこには、ほぼ完成品といってもよい、孔明の姿を描いた物があった。
立ち姿であり、均整の取れた美しい身体に、豪奢な衣裳を身に包み、切れ長の双眸はどこか遠くを見つめている。
「さすが、はるか洛陽まで行って、名人に弟子入りしようとするだけある。たいしたものだ」
これだけでも、十分に劉備は喜ぶであろう。
趙雲は感心するが、しかし、毛は、それはだめだ、と首を振る。
「わたしの筆先が、なにかが足りない、これはちがうと訴えてまいります。将軍、いつか、おっしゃいましたね、軍師は、一で十を知るお方だと」
「うむ」
「それほどに心の鋭いお方は、おそらく心が休まらず、たいがいは内側に籠もってしまわれる。そうしなければ、己を保つことができないからです。
僭越ながら、わたしめにもそういう傾向がございますので、軍師のお心のうちは、なんとなく察しがつくのです。
わたしの頭にございます軍師というのは、とても苦しんでおられる。貴方様に、絵のことでこぼしておられた、あのお姿が、頭から離れないのです。ですから、その苦しみが、その絵の目に表れているのでございます」
言われて、あらためて見れば、彼方を見遣る孔明の目に、力強さはなく、どこかじっと耐えて、なにかを我慢して見つめているようにも見える。
「それは、軍師にそっくりな、ニセモノの絵でございます。軍師が、苦しみを抱えてもなお、あのように力強くも清い眼差しをしておられるのか、その理由を知りたいのです」
「ニセモノは言いすぎだろう。この顔は、見覚えがある」
新野に、軍師として招かれたばかりのころ、孔明は、こんな顔をしていた気がする。
傲慢で、偏狭で、頑なな顔をしていると、趙雲も反発を覚えたものだ。
その中に、不安と恐怖と怯えが潜んでいたことに気づいたのは、だいぶ後になってからだった。
明朗な言葉と、倣岸な態度に隠されて、抱えていた弱さに気づくのが、遅れたのだ。
あれからもう、二年にもなるわけか。
あまりにいろいろなことがあって、まるで人生の初めから、共にいたような感覚すらおぼえるときがあるのだが、まだ二年なのだ。
「あいつの目の力の源は、自信ではないか。大きな仕事をやり遂げたという、自信。おまえは知らぬかも知れぬが、大変なものであったのだぞ」
自信、と毛は鸚鵡返しにして、それから筆を止め、なにやら考え込んでいる。
「将軍、あらためてお伺いしたいのですが」
「なんだ」
「皆様方より、軍師に関しての、たいがいのお話は聞くことができました。しかし、いまだ将軍の口より、軍師をどのように見ておられるか、聞いておりませぬ。
毛が拝見いたしましたところ、軍師にもっとも近しいところにいるのは、貴方様でしょう。貴方様が、軍師をどう見ておられるか、それをお伺いしたいのです」
「それは、絵に関係するのか」
「はい」
きっぱり言い切ると、毛は、趙雲の返事をまって、真剣そのものの眼差しをむけてくる。
このまま席を立ってもよかったが、それでは、この青年の、絵に対する真剣さをも踏みにじってしまうような気がして、出来なかった。
「誰にも口外せぬと約束できるか」
「それはもちろん。毛は、絵が完成しましたら、すぐに洛陽に参ります。洛陽に着いたとしても、決してだれにも話しませぬ」
「そこまで大仰にする話ではなかろう。俺が、軍師をどう見ているか、つまり、俺にとって軍師はどのような位置にあるか、ということだな」
「はい」
趙雲は、青葉の向こう側にいる、孔明の姿を見た。
いつの間にか、すべての中心が、自分の思考によるものではなく、ただ一点にのみに集中して動くようになっていた。
栄達も財貨にも興味はない。
以前はそれなりにあったはずだが、どうでもよくなってしまった。
「あれは、俺にとって、目であり、心であり、真実を語る唇だ。軍師が、生きてさえいてくれれば、それだけで嬉しいと思う」
自分で、すごいことを口にしたな、と思ったが、隣の毛は、真剣そのものの顔をして、じっと趙雲を見つめている。
毛の、絵に対する真摯さに引きずられた。
おのれを見上げる毛の顔に、驚きや呆れ、戸惑いがなかったことに、趙雲は、ほっとした。
そして、青葉のはざまの向こう側にいて、筆を動かし、たまに手をとめて、思案げに後れ毛をかき上げては、また竹簡に目を落とす、といった仕草をくりかえしている孔明を見、納得したらしく、なるほど、とだけ言った。
※
それから毛は、一気に孔明の絵を描きあげて、劉備に献上した。
劉備は出来上がった絵を見て、こりゃあ、たいしたものだと、大いに喜び、約束どおり、毛に路銀をあたえ、さらに見送りまでつけて、無事に洛陽に届けてやった。
出来上がった絵は、劉備は出し惜しみして、孔明本人ですら、なかなか見せてもらえなかったが、主公ひとりでずるい、との声が大きくなってきたので、ようやくみなの目に触れることとなった。
絵は、趙雲が東屋で見せてもらった絵を基本に、表情を変えたものであった。
彼方を見遣る双眸の、自信に満ちた、幸福そうでいて、どこかで悲しげな、矛盾する笑みを浮かべた、謎めいた表情は、まさに孔明の内面を写しきっている。もともとの外貌の美しさとあわせて、見事に孔明という人物を描いたものであった。
孔明自身は、こんな顔をしているかな、と戸惑っていたが、周囲の者たちは、これはたしかに軍師だ、あの毛というやつ、きっと将来はたいした画師になるだろうと、口々に、できばえの素晴らしさを誉めあげた。
さて、趙雲はというと、毛を見送ってのち、毛を数日のあいだ、軟禁していた部屋を、みずから片づけていた。
兵卒たちに命令して、片づけさせてもよかったのだが、仕事をいかに達成したかは、最後の締めくくりにかかっている、というのが趙雲の持論であったから、こうして、掃除も買って出ているのである。
その点、孔明と趙雲は、仕事に対する考え方が、とてもよく似ていた。
掃除を進めていると、毛が置いて行った書画の道具の一式がでてきた。
もともと、偉度が貸してくれたものであったから、返してやらねばな、とまとめていると、道具と一緒に、巻きつけた紙が一枚あった。
下書きを処分し損ねたものか、と趙雲が開いてみると、趙子龍さまへ、と毛の字が片隅にあり、そこには、劉備に献上したものと同じ孔明の絵があった。
いや。
趙雲は、窓辺に寄って、書画をあらためた。
すらりとした体躯に、豪奢な衣裳を身に纏う、凛とした立ち姿。
だが、その表情は、劉備に献上したそれとは違い、澄明な双眸は、はっきりと此の方を見つめており、憂いはなく、ひたすら明るく幸福そうに微笑んでいた。
それだけではない。劉備に献上した絵の孔明は、手に羽扇を持っていたが、その絵は剣を持っていた。
その剣を確かめた時、趙雲は思わず絵を閉じて、そのままどこかへ放り投げてしまいたくなるほどの気恥ずかしさに襲われた。
しばらく、どうしたものかと迷って、思案してから、おちついて、ふたたび絵を開く。
見れば、絵の片隅に、書付があり、そこにはこうあった。
『献上いたしました絵も、こちらの絵も、同じく真の姿であろうと、毛は信じてございます』
「大きなお世話だ、お節介が」
ここにはもういない者に、思わずつぶやき、趙雲は、書画をふたたび、今度は丁寧に閉じると、偉度に返す道具をきちんとそろえて、それから部屋を後にした。
孔明に会わないといいな、どんな顔をすればよいか、わからないから、と思いつつ。
おわり
御読了ありがとうございました。
(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/14)