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なるべく早く襄陽城へ出立せねばならない。
伊籍《いせき》のはなしでは、斐仁《ひじん》は程子文《ていしぶん》を殺したその直後にとらえられ、いまは牢につながれているという。
だが、その牢でまちがいがあったら、手がかりを持つ斐仁が死んでしまう可能性がある。
『壺中』ということばの意味は、はっきりわかっていないが、なんらかの組織、あるいは集団を指すことばなのだろう。
その集団が、斐仁の命を狙う可能性もある。
だからこそ、急がねばならないのだ。
本来なら、すぐさま馬を飛ばして南へ走りたいところだが、劉備たちにあいさつしなければならないし、伊籍のこともあるし、寝込んでいる趙雲の熱も下がりきっていない。
焦れる気持ちを抑えつつ、孔明は劉備のもとへ向かった。
趙雲から聞いたはなしをひととおり劉備たちにもする。
かれらは一様に、斐仁が言った『壺中』という組織、あるいは集団に心当たりがないと言った。
「斐仁の足が悪くなかったということもおどろきだが、『壺中』というものにもおどろきだ。いったい、どういう集団なのであろうな。その『壺中』とやらが、斐仁をこき使っているわけか」
劉備のことばに、孔明はうなずく。
「おそらくそうだと思われます。斐仁はわが君を見張るために派遣されていた男とみてまちがいないでしょう。その斐仁の家族が殺されたのは、口止めか、見せしめのためにちがいありません」
「見せしめというと、いったい誰に対しての見せしめなのだろう」
首をひねる劉備に、孔明もおなじく首をひねらざるをえなかった。
「わかりませぬ。ただ、想像する以上に、『壺中』という集団は大きい集団なのかもしれませぬ。斐仁のようにしくじると、家族を殺してしまう凶悪な集団でもあるようです。恐怖で支配することで、集団の結束をはかっているのかもしれませぬ」
ううむ、と腕組みして考え込む劉備。
「しかし、わしを見張っていたとなると、『壺中』は曹操の手の者であろうか」
「兄者、わしは『壺中』というもののことは初耳だ」
関羽が口をはさんだ。
曹操のもとにとらえられ、一時期、こころならずも仕えていた関羽は、いまいる劉備の家臣たちのなかでは、ずば抜けて曹操の内情にくわしい。
「では、ほかにだれが?」
劉備のつぶやきに、孔明はひとりの男の顔を思い浮かべていた。
それは、老いた劉表の補佐をしている、蔡瑁《さいぼう》の顔であった。
蔡瑁。
あざなを徳珪といって、野心家で、劉表の寵愛を一身にあつめる後妻の蔡夫人の弟でもある。
孔明の妻の黄月英《こうげつえい》の叔父でもあるが、あまり付き合いがなく、むしろ疎遠といっていいほどの間柄だった。
蔡瑁は、司馬徽《しばき》とその弟子たち…つまりは徐庶と孔明が劉備に接近したことをおもしろくなく思っている。
さらに蔡瑁は、劉備の名望の高さをねたみ、恐れている。
老いた劉表が、後継を長男にするか、次男にするか迷っているなか、劉備がその候補に割り込んでくる可能性があるのではと恐れているのだ。
あからさまに敵意を見せて、襲ってくるような馬鹿な真似はしてこないが、かれが劉備とその家臣たちを煙たがっているのは、荊州では知らない者がいないほどになっていた。
その蔡瑁が『壺中』を組織しているとなると、話の筋が通る。
劉備をおそれる蔡瑁が、『壺中』の一員である斐仁を間諜の代わりにして、劉備を見張らせていた。
斐仁は目立ってはいけなかった。
だが、長年の平和な暮らしの中で気が緩み、斐仁はへまをやる。
娼妓を買い、空いていた屋敷に連れ込んだはよいが、そこで運悪く『狗屠』なる娼妓殺しの下手人に襲われる。
命からがら、斐仁だけは生き残ったが、しかし、趙雲に目撃されてしまった…
つづく
なるべく早く襄陽城へ出立せねばならない。
伊籍《いせき》のはなしでは、斐仁《ひじん》は程子文《ていしぶん》を殺したその直後にとらえられ、いまは牢につながれているという。
だが、その牢でまちがいがあったら、手がかりを持つ斐仁が死んでしまう可能性がある。
『壺中』ということばの意味は、はっきりわかっていないが、なんらかの組織、あるいは集団を指すことばなのだろう。
その集団が、斐仁の命を狙う可能性もある。
だからこそ、急がねばならないのだ。
本来なら、すぐさま馬を飛ばして南へ走りたいところだが、劉備たちにあいさつしなければならないし、伊籍のこともあるし、寝込んでいる趙雲の熱も下がりきっていない。
焦れる気持ちを抑えつつ、孔明は劉備のもとへ向かった。
趙雲から聞いたはなしをひととおり劉備たちにもする。
かれらは一様に、斐仁が言った『壺中』という組織、あるいは集団に心当たりがないと言った。
「斐仁の足が悪くなかったということもおどろきだが、『壺中』というものにもおどろきだ。いったい、どういう集団なのであろうな。その『壺中』とやらが、斐仁をこき使っているわけか」
劉備のことばに、孔明はうなずく。
「おそらくそうだと思われます。斐仁はわが君を見張るために派遣されていた男とみてまちがいないでしょう。その斐仁の家族が殺されたのは、口止めか、見せしめのためにちがいありません」
「見せしめというと、いったい誰に対しての見せしめなのだろう」
首をひねる劉備に、孔明もおなじく首をひねらざるをえなかった。
「わかりませぬ。ただ、想像する以上に、『壺中』という集団は大きい集団なのかもしれませぬ。斐仁のようにしくじると、家族を殺してしまう凶悪な集団でもあるようです。恐怖で支配することで、集団の結束をはかっているのかもしれませぬ」
ううむ、と腕組みして考え込む劉備。
「しかし、わしを見張っていたとなると、『壺中』は曹操の手の者であろうか」
「兄者、わしは『壺中』というもののことは初耳だ」
関羽が口をはさんだ。
曹操のもとにとらえられ、一時期、こころならずも仕えていた関羽は、いまいる劉備の家臣たちのなかでは、ずば抜けて曹操の内情にくわしい。
「では、ほかにだれが?」
劉備のつぶやきに、孔明はひとりの男の顔を思い浮かべていた。
それは、老いた劉表の補佐をしている、蔡瑁《さいぼう》の顔であった。
蔡瑁。
あざなを徳珪といって、野心家で、劉表の寵愛を一身にあつめる後妻の蔡夫人の弟でもある。
孔明の妻の黄月英《こうげつえい》の叔父でもあるが、あまり付き合いがなく、むしろ疎遠といっていいほどの間柄だった。
蔡瑁は、司馬徽《しばき》とその弟子たち…つまりは徐庶と孔明が劉備に接近したことをおもしろくなく思っている。
さらに蔡瑁は、劉備の名望の高さをねたみ、恐れている。
老いた劉表が、後継を長男にするか、次男にするか迷っているなか、劉備がその候補に割り込んでくる可能性があるのではと恐れているのだ。
あからさまに敵意を見せて、襲ってくるような馬鹿な真似はしてこないが、かれが劉備とその家臣たちを煙たがっているのは、荊州では知らない者がいないほどになっていた。
その蔡瑁が『壺中』を組織しているとなると、話の筋が通る。
劉備をおそれる蔡瑁が、『壺中』の一員である斐仁を間諜の代わりにして、劉備を見張らせていた。
斐仁は目立ってはいけなかった。
だが、長年の平和な暮らしの中で気が緩み、斐仁はへまをやる。
娼妓を買い、空いていた屋敷に連れ込んだはよいが、そこで運悪く『狗屠』なる娼妓殺しの下手人に襲われる。
命からがら、斐仁だけは生き残ったが、しかし、趙雲に目撃されてしまった…
つづく