5
満月が煌々と空高く上ったその日。
涼州の勇将であった馬岱はひとり、まんまると太った月を肴に繁華街である長星橋にて飲んでいた。
繁華街は、劉備軍と劉璋軍が激突していたさなかはひっそりとしていたそうだが、いまは逆で、おおくの男女でにぎわっている。
じっと息を詰めて我慢していたのが、爆発した雰囲気だ。
赤々と輝く提灯があたりに飾られ、橋や川面をきらきらと照らしている。
酔客たちは、だれも空にある大きな月を見上げることはない。
地上にある落ちた星ともいうべき女たちを追い回すのに忙しいからだ。
浮かれ女たちは男たちをなびかせようとあの手この手で誘惑し、男たちは男たちで、いかにうまく駆け引きを楽しむかを仲間内で競っている。
その騒がしさ、やかましさ。
酒がまわって興奮している若者、ろれつが回らなくなっている者、やたらとはしゃいでいる者、肩を組んで、故郷の歌を唄う者、それにあわせた調子っぱずれな楽器の音色。
それらのわめく言葉と音楽が混然となって、馬岱の耳に洪水のように押し寄せてくる。
蜀のなまりは、最初は聞きなれないので苦労したが、このところやっと慣れてきた。
といっても、劉備が統括する城内においては、蜀のなまりで話す人間は少数派で、圧倒的に荊州の人間が幅を利かせている。
劉璋から劉備の家臣に鞍替えした劉巴にしても、もとは荊州の人間だし、諸葛孔明ら左将軍府の面々もほとんど荊州。
対する蜀の人士の代表みたいな顔を威張っている法正でさえ、蜀の人間ではなく扶風の人間である。
そのため、馬岱は荊州の人間のなまりのほか、各地から寄せ集まった家臣たちのなまりも聞き分けなければいけない。
その苦労を毎日しているから、ときどき、涼州のことばを話す人間が恋しくなる。
しかし、どれだけ周りを見回しても、部下のほかは、涼州の人間はいないのだ。自分が異邦の地に流れ着いたのだとしみじみ思わされる瞬間である。
従兄の馬超が、このところ口数が少なくなったのは、自分と同じく、聞きなれないことばたちに囲まれて、疎外感を抱いているからではないかと馬岱は推理していた。
今日だって、ほんとうは従兄といっしょに繁華街に繰り出す予定だった。
ところが、馬超は、行かないという。
以前は、元気があり余って弾けそうな勢いであったのに、蜀に入ってからの馬超は、しおれた芙蓉の花のようだ。覇気が全く感じられない。
目はどんよりとして表情がないし、動作も緩慢で、歩き方も足を引きずるような歩き方。
しかも、蜀に入ってからあたらしく迎えた妻女によれば、馬超は夜中にひとりで泣いていることすらあるそうな。
夜に泣くなんて、夜泣きする赤ん坊ではあるまいし。
馬超のことを思うと、自然と馬岱の表情は暗くなり、ため息も漏れる。
涼州にいたころの馬超は、けしてこんなふうではなかった。
だが、曹操に負けてから、だんだん様子がおかしくなった。
陽の気のかたまりだったような明るかった馬超。
飛将呂布を思わせる勇者であった馬超。
それが、いまでは、濁った沼のような目をして、毎日泣き暮らしている。
かれを決定的におかしくしたのは、妾を敵に奪われたことでも、愛児を殺されたことでもない。
龐徳が去ったことだ。
股肱の家臣だと信じてきた男が、蜀に入る土壇場で、馬超を裏切って、よりによって曹操に降った。
このことは大きかった。
馬超は自分の自信を失ってしまったのだ。
気張ってなんとかおのれを支えていた。
その支えの一つであった龐徳そのひとに裏切られ、こころがぽっきり折れてしまったのだ。
龐徳が、どうして馬超のもとを去っていったか、その本当のところは本人に聞かないとわからないが、おそらく、馬超のツキのなさに、龐徳自身、うんざりしてしまったのではないか。
命さえあれば、ツキなどまためぐってこように。
才気煥発だった馬超が、いまは呼び掛けても、一拍たってから、のろのろと、しかも見当ちがいのことを答えてくるのを見るのはつらかった。
龐徳のことは、おたがい触れてはいけない話題になっているため、互いに黙っているが、それでも馬超はおりにつけ、
「おまえは俺のそばにいてくれよ、馬岱。おまえだけが頼りなのだ」
と震える声で言うのだ。
まるで、親に捨てられることを恐れている子供のように。
いなくなるものか、と馬岱はいつも答えるのだが、馬超はにごった目のまま、じっと、すがるように馬岱を見る。
疑い、焦り、恐怖、そういった苦い感情がごちゃまぜになった表情で。
以前の快活な兄者に戻ってほしいと思う。
「あれでは、病人ではないかっ」
思わず独り言をこぼすと、まわりにいた酔客が、ちらっと何事か、というふうに目線を寄こしてきた。
だが、馬岱はかまわず飲み続ける。
長江につづく川に面した露店で、ほかにも大勢の客があつまって騒いでいた。
川面に移った黄金色の月がゆらゆら形を崩して揺れている。
涼州の夜空も美しかった。
月の明かりをたよりに城を抜け出し、満天の星々をながめて、草原で寝そべって、天下を語った。
あのころは楽しかった。
この場所は明るい。
だが、明るすぎて星が見えない。
いかん、泣きたくなってきた。
目頭を押さえた馬岱に対し、なにを思ったのか、露店の酒場娘が寄ってきて、言った。
「どうなすったの、なにか悲しいことでもあったのかしら」
馬岱も、わざわざ成都でいちばんにぎやかな繁華街にやってくるだけあって、呑むのも遊ぶのも好きである。
だが、いまは放っておいてほしかった。
「目にゴミが入っただけだ」
「あらそう、ゴミならとってあげましょうか。ほら、杯も空いておりましてよ。もう一献どうぞ」
慣れた手つきで酌をするその娘の白い手をぼんやりながめる。
馬岱とて、妻子を激戦の中で失っている。
はたから見れば悲しい身の上だ。
だが、龐徳の裏切りにはげしい怒りを燃やすことができた。
思うに、馬超は、怒りを発しようにも、もう燃やすものが残されていなかったのかもしれない。
『兄者、かわいそうに』
面と向かってはとてもではないが言えない。
だからこそ、悲しい。つらい。
馬超はこのまま、こころを塞いだまま、衰弱してしまうのではないか。
「あらあら、泣きそう。ほんとうに、どうなすったの、おかわいそうに」
娘は言って、馬岱に心配そうに肩を寄せてくる。
馬岱は黙って、娘のついでくれた酒を一気に飲んだ。
「そうそう、呑んでしまうのがいちばんよ。そして忘れてしまうの。一晩寝れば、また元気になれるわ」
たしかにそうだ。こうして自分もめそめそしていても仕方ない。
なにか、馬超のこころを明るくする話題でも持って帰ろう。
そう決めた馬岱は、となりにいる厚化粧の娘にたずねた。
「なにか変わったことはないか」
「あるわ」
娘は即答した。馬岱が怪訝そうな顔をすると、なぜかくすぐったそうに笑った。
「今日はね、あたし、とっても機嫌がいいの。日ごろからしつこくしてきた、いやな奴が今日はいないんですもの」
「それが変わったことか」
「いやね、ちがうわ。法孝直さまが、町中のごろつきを集めていることはごぞんじ」
「ごろつきを。はて、なぜであろう」
「知らないわ。でも、おかげで、今日の長星橋は平和よ。そのごろつきのひとりが、あたしの取り巻きのひとりだったのよ。大儲けできそうなうまい話があるから、といって出かけて行ったけれど、どうでしょうねえ」
「ふむ」
つづく
(Ⓒ牧知花 2021/07/21)
満月が煌々と空高く上ったその日。
涼州の勇将であった馬岱はひとり、まんまると太った月を肴に繁華街である長星橋にて飲んでいた。
繁華街は、劉備軍と劉璋軍が激突していたさなかはひっそりとしていたそうだが、いまは逆で、おおくの男女でにぎわっている。
じっと息を詰めて我慢していたのが、爆発した雰囲気だ。
赤々と輝く提灯があたりに飾られ、橋や川面をきらきらと照らしている。
酔客たちは、だれも空にある大きな月を見上げることはない。
地上にある落ちた星ともいうべき女たちを追い回すのに忙しいからだ。
浮かれ女たちは男たちをなびかせようとあの手この手で誘惑し、男たちは男たちで、いかにうまく駆け引きを楽しむかを仲間内で競っている。
その騒がしさ、やかましさ。
酒がまわって興奮している若者、ろれつが回らなくなっている者、やたらとはしゃいでいる者、肩を組んで、故郷の歌を唄う者、それにあわせた調子っぱずれな楽器の音色。
それらのわめく言葉と音楽が混然となって、馬岱の耳に洪水のように押し寄せてくる。
蜀のなまりは、最初は聞きなれないので苦労したが、このところやっと慣れてきた。
といっても、劉備が統括する城内においては、蜀のなまりで話す人間は少数派で、圧倒的に荊州の人間が幅を利かせている。
劉璋から劉備の家臣に鞍替えした劉巴にしても、もとは荊州の人間だし、諸葛孔明ら左将軍府の面々もほとんど荊州。
対する蜀の人士の代表みたいな顔を威張っている法正でさえ、蜀の人間ではなく扶風の人間である。
そのため、馬岱は荊州の人間のなまりのほか、各地から寄せ集まった家臣たちのなまりも聞き分けなければいけない。
その苦労を毎日しているから、ときどき、涼州のことばを話す人間が恋しくなる。
しかし、どれだけ周りを見回しても、部下のほかは、涼州の人間はいないのだ。自分が異邦の地に流れ着いたのだとしみじみ思わされる瞬間である。
従兄の馬超が、このところ口数が少なくなったのは、自分と同じく、聞きなれないことばたちに囲まれて、疎外感を抱いているからではないかと馬岱は推理していた。
今日だって、ほんとうは従兄といっしょに繁華街に繰り出す予定だった。
ところが、馬超は、行かないという。
以前は、元気があり余って弾けそうな勢いであったのに、蜀に入ってからの馬超は、しおれた芙蓉の花のようだ。覇気が全く感じられない。
目はどんよりとして表情がないし、動作も緩慢で、歩き方も足を引きずるような歩き方。
しかも、蜀に入ってからあたらしく迎えた妻女によれば、馬超は夜中にひとりで泣いていることすらあるそうな。
夜に泣くなんて、夜泣きする赤ん坊ではあるまいし。
馬超のことを思うと、自然と馬岱の表情は暗くなり、ため息も漏れる。
涼州にいたころの馬超は、けしてこんなふうではなかった。
だが、曹操に負けてから、だんだん様子がおかしくなった。
陽の気のかたまりだったような明るかった馬超。
飛将呂布を思わせる勇者であった馬超。
それが、いまでは、濁った沼のような目をして、毎日泣き暮らしている。
かれを決定的におかしくしたのは、妾を敵に奪われたことでも、愛児を殺されたことでもない。
龐徳が去ったことだ。
股肱の家臣だと信じてきた男が、蜀に入る土壇場で、馬超を裏切って、よりによって曹操に降った。
このことは大きかった。
馬超は自分の自信を失ってしまったのだ。
気張ってなんとかおのれを支えていた。
その支えの一つであった龐徳そのひとに裏切られ、こころがぽっきり折れてしまったのだ。
龐徳が、どうして馬超のもとを去っていったか、その本当のところは本人に聞かないとわからないが、おそらく、馬超のツキのなさに、龐徳自身、うんざりしてしまったのではないか。
命さえあれば、ツキなどまためぐってこように。
才気煥発だった馬超が、いまは呼び掛けても、一拍たってから、のろのろと、しかも見当ちがいのことを答えてくるのを見るのはつらかった。
龐徳のことは、おたがい触れてはいけない話題になっているため、互いに黙っているが、それでも馬超はおりにつけ、
「おまえは俺のそばにいてくれよ、馬岱。おまえだけが頼りなのだ」
と震える声で言うのだ。
まるで、親に捨てられることを恐れている子供のように。
いなくなるものか、と馬岱はいつも答えるのだが、馬超はにごった目のまま、じっと、すがるように馬岱を見る。
疑い、焦り、恐怖、そういった苦い感情がごちゃまぜになった表情で。
以前の快活な兄者に戻ってほしいと思う。
「あれでは、病人ではないかっ」
思わず独り言をこぼすと、まわりにいた酔客が、ちらっと何事か、というふうに目線を寄こしてきた。
だが、馬岱はかまわず飲み続ける。
長江につづく川に面した露店で、ほかにも大勢の客があつまって騒いでいた。
川面に移った黄金色の月がゆらゆら形を崩して揺れている。
涼州の夜空も美しかった。
月の明かりをたよりに城を抜け出し、満天の星々をながめて、草原で寝そべって、天下を語った。
あのころは楽しかった。
この場所は明るい。
だが、明るすぎて星が見えない。
いかん、泣きたくなってきた。
目頭を押さえた馬岱に対し、なにを思ったのか、露店の酒場娘が寄ってきて、言った。
「どうなすったの、なにか悲しいことでもあったのかしら」
馬岱も、わざわざ成都でいちばんにぎやかな繁華街にやってくるだけあって、呑むのも遊ぶのも好きである。
だが、いまは放っておいてほしかった。
「目にゴミが入っただけだ」
「あらそう、ゴミならとってあげましょうか。ほら、杯も空いておりましてよ。もう一献どうぞ」
慣れた手つきで酌をするその娘の白い手をぼんやりながめる。
馬岱とて、妻子を激戦の中で失っている。
はたから見れば悲しい身の上だ。
だが、龐徳の裏切りにはげしい怒りを燃やすことができた。
思うに、馬超は、怒りを発しようにも、もう燃やすものが残されていなかったのかもしれない。
『兄者、かわいそうに』
面と向かってはとてもではないが言えない。
だからこそ、悲しい。つらい。
馬超はこのまま、こころを塞いだまま、衰弱してしまうのではないか。
「あらあら、泣きそう。ほんとうに、どうなすったの、おかわいそうに」
娘は言って、馬岱に心配そうに肩を寄せてくる。
馬岱は黙って、娘のついでくれた酒を一気に飲んだ。
「そうそう、呑んでしまうのがいちばんよ。そして忘れてしまうの。一晩寝れば、また元気になれるわ」
たしかにそうだ。こうして自分もめそめそしていても仕方ない。
なにか、馬超のこころを明るくする話題でも持って帰ろう。
そう決めた馬岱は、となりにいる厚化粧の娘にたずねた。
「なにか変わったことはないか」
「あるわ」
娘は即答した。馬岱が怪訝そうな顔をすると、なぜかくすぐったそうに笑った。
「今日はね、あたし、とっても機嫌がいいの。日ごろからしつこくしてきた、いやな奴が今日はいないんですもの」
「それが変わったことか」
「いやね、ちがうわ。法孝直さまが、町中のごろつきを集めていることはごぞんじ」
「ごろつきを。はて、なぜであろう」
「知らないわ。でも、おかげで、今日の長星橋は平和よ。そのごろつきのひとりが、あたしの取り巻きのひとりだったのよ。大儲けできそうなうまい話があるから、といって出かけて行ったけれど、どうでしょうねえ」
「ふむ」
つづく
(Ⓒ牧知花 2021/07/21)