このままでは、女にまた井戸に突き飛ばされてしまうのではないか。となると、おれは死んでしまうということか?
追いはぎ、そして張無忌のことが脳裏に浮かぶ。
かれらもこうして死んで行ったのだろうか。
連中には死ぬ理由があったが、おれにはなんにもないぞ。
ここはかわいそうだが、女を逆に井戸に封じ込めたほうがいいのではないか。
徐庶はごくりとのどを鳴らした。
そんなことをしたら、追いはぎや張無忌と変わらないではないか。
この女を助けてやりたい。
どうしたらいいのだろう。
じり、じり、と近づいて、徐庶を井戸端に追い詰める女。
徐庶はもうここいらで起きてしまおうとおもったが、そこで不意に、女の肩に白い指先が置かれたのが見えた。
その指先が、女の動きをぴたりと止める。
夢だからであろうか、指先から腕にかけての像が蜃気楼のようにぼんやりとしていて、それが徐々に徐々に、霧の中からあらわれるように明らかになっていく。
輪郭がはっきりして見えてきたのは、ほかでもない、となりで寝ていた孔明であった。
孔明は徐庶を見ると、破顔した。
「ああ、よかった。どうやったら夢に入れるかとおもっていたが、なんとかなったぞ。待たせたな、徐兄」
「夢に? 入れる?」
わけがわからず混乱する徐庶に、孔明はいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「くわしい話は後だ。彼女を黄泉路へ送ろう」
「どうやって。その井戸のなかに放り込むのか」
「まさか。簡単な方法ですむはずだよ」
言いつつ、孔明はふところから黒い毛の束を取り出した。
かもじである。
そしてそれを手のひらを上に向けて受け取る仕草をしている女に渡してやる。
するとどうだろう、ひと言だって話さなかった女が、かもじを受け取ったとたんに、
「ああ」
と声を発したのだ。
それは絶望の声ではなく、あきらかに喜びの声であった。
とたん、井戸から吹き上げる風の強さが、さらに強くなった。
風はまるで女を呼び寄せるかのようにびゅうう、びゅううとその口から風を吐く。
かもじを受け取った女は、それまで緩慢な動きしかできなかったのが、急に機敏になり、かもじを手に大事そうにかかえて、ぴょん、と飛蝗のように井戸のなかに入っていった。
井戸のなかはいったいどうなっているのだろうか。
徐庶には想像することができなかったが、女が井戸に入ると、風はぴたりと止み、どころか、井戸そのものも、まさに夢のなかの出来事らしく、一瞬でなくなってしまい、あとには石畳も鬱蒼とした草木もなく、ただの砂地に変わってしまった。
「なんだよ、いまのは」
「女心というやつだろうねえ。女は追いはぎに衣を奪われただけではなく、かもじもいっしょに奪われていたんだよ。女だって早く黄泉路につきたいとおもっていたのだろうが、髪の毛の禿げているのがどうしても気になって、なかなかそれができないでいたのさ。
ほら、刺された市場の古着屋の親父。かれの怪我が治ってきたので見舞いにいったついでに、追いはぎからなにを買ったのか聴いたのさ。そうしたら、上衣といっしょにかもじも買った、と答えてね。上衣はもう燃えてしまってないし、愛した男はすでに冥土におくってある。となると、女が執着するのはかもじだろうと読んだのさ」
みごと、大当たり、といって、孔明は誇らしげに声をたてて笑った。
「ちょっと待て。おまえはなぜおれの夢のなかに?」
「わたしもこの件に深入りしたのに、女は徐兄のところにしかあらわれない。おそらく、女は細っこいわたしよりも、徐兄のほうが頼りになると踏んで、徐兄の夢のなかにいりびたっていたのさ。そこで、わたしのほうが、徐兄の夢のなかに入ることにした。やってみるまでどうなるかわからなかったが、意外に簡単だったな」
「どうしたのだ」
「徐兄と手をつないで寝たのさ。そうしたら、夢のなかに入れた」
「なんだって? とすると、いまおれとおまえは、あの草庵で手をつなぎ合って寝ているっていうのか」
「そういうことだね」
「そういうこと、ってな」
「まあ、いいじゃないか、うまくいったんだから」
「よくない! だれかに見られたらどうするんだよ、まちがいなく誤解されるじゃないか。早く起きるぞ! というか、起きてやる!」
そうして思い切って目から覚めた徐庶は、すでに草庵の窓の外が白んでいて、夜明けが近づいているのを感じた。
となりの孔明は、まだぐっすり眠っている。
その寝顔は、ずいぶん得意げだ。
自分の手をしっかり握ってねむる孔明の手を、やさしくほどいてやりながら、徐庶は安堵のためいきを、ひとつ、ついた。
以来、井戸の女は徐庶の夢のなかにあらわれない。
おわり
ご読了ありがとうございましたv
追いはぎ、そして張無忌のことが脳裏に浮かぶ。
かれらもこうして死んで行ったのだろうか。
連中には死ぬ理由があったが、おれにはなんにもないぞ。
ここはかわいそうだが、女を逆に井戸に封じ込めたほうがいいのではないか。
徐庶はごくりとのどを鳴らした。
そんなことをしたら、追いはぎや張無忌と変わらないではないか。
この女を助けてやりたい。
どうしたらいいのだろう。
じり、じり、と近づいて、徐庶を井戸端に追い詰める女。
徐庶はもうここいらで起きてしまおうとおもったが、そこで不意に、女の肩に白い指先が置かれたのが見えた。
その指先が、女の動きをぴたりと止める。
夢だからであろうか、指先から腕にかけての像が蜃気楼のようにぼんやりとしていて、それが徐々に徐々に、霧の中からあらわれるように明らかになっていく。
輪郭がはっきりして見えてきたのは、ほかでもない、となりで寝ていた孔明であった。
孔明は徐庶を見ると、破顔した。
「ああ、よかった。どうやったら夢に入れるかとおもっていたが、なんとかなったぞ。待たせたな、徐兄」
「夢に? 入れる?」
わけがわからず混乱する徐庶に、孔明はいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「くわしい話は後だ。彼女を黄泉路へ送ろう」
「どうやって。その井戸のなかに放り込むのか」
「まさか。簡単な方法ですむはずだよ」
言いつつ、孔明はふところから黒い毛の束を取り出した。
かもじである。
そしてそれを手のひらを上に向けて受け取る仕草をしている女に渡してやる。
するとどうだろう、ひと言だって話さなかった女が、かもじを受け取ったとたんに、
「ああ」
と声を発したのだ。
それは絶望の声ではなく、あきらかに喜びの声であった。
とたん、井戸から吹き上げる風の強さが、さらに強くなった。
風はまるで女を呼び寄せるかのようにびゅうう、びゅううとその口から風を吐く。
かもじを受け取った女は、それまで緩慢な動きしかできなかったのが、急に機敏になり、かもじを手に大事そうにかかえて、ぴょん、と飛蝗のように井戸のなかに入っていった。
井戸のなかはいったいどうなっているのだろうか。
徐庶には想像することができなかったが、女が井戸に入ると、風はぴたりと止み、どころか、井戸そのものも、まさに夢のなかの出来事らしく、一瞬でなくなってしまい、あとには石畳も鬱蒼とした草木もなく、ただの砂地に変わってしまった。
「なんだよ、いまのは」
「女心というやつだろうねえ。女は追いはぎに衣を奪われただけではなく、かもじもいっしょに奪われていたんだよ。女だって早く黄泉路につきたいとおもっていたのだろうが、髪の毛の禿げているのがどうしても気になって、なかなかそれができないでいたのさ。
ほら、刺された市場の古着屋の親父。かれの怪我が治ってきたので見舞いにいったついでに、追いはぎからなにを買ったのか聴いたのさ。そうしたら、上衣といっしょにかもじも買った、と答えてね。上衣はもう燃えてしまってないし、愛した男はすでに冥土におくってある。となると、女が執着するのはかもじだろうと読んだのさ」
みごと、大当たり、といって、孔明は誇らしげに声をたてて笑った。
「ちょっと待て。おまえはなぜおれの夢のなかに?」
「わたしもこの件に深入りしたのに、女は徐兄のところにしかあらわれない。おそらく、女は細っこいわたしよりも、徐兄のほうが頼りになると踏んで、徐兄の夢のなかにいりびたっていたのさ。そこで、わたしのほうが、徐兄の夢のなかに入ることにした。やってみるまでどうなるかわからなかったが、意外に簡単だったな」
「どうしたのだ」
「徐兄と手をつないで寝たのさ。そうしたら、夢のなかに入れた」
「なんだって? とすると、いまおれとおまえは、あの草庵で手をつなぎ合って寝ているっていうのか」
「そういうことだね」
「そういうこと、ってな」
「まあ、いいじゃないか、うまくいったんだから」
「よくない! だれかに見られたらどうするんだよ、まちがいなく誤解されるじゃないか。早く起きるぞ! というか、起きてやる!」
そうして思い切って目から覚めた徐庶は、すでに草庵の窓の外が白んでいて、夜明けが近づいているのを感じた。
となりの孔明は、まだぐっすり眠っている。
その寝顔は、ずいぶん得意げだ。
自分の手をしっかり握ってねむる孔明の手を、やさしくほどいてやりながら、徐庶は安堵のためいきを、ひとつ、ついた。
以来、井戸の女は徐庶の夢のなかにあらわれない。
おわり
ご読了ありがとうございましたv