はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

生まれ出(いず)る心に 7

2018年07月17日 09時25分13秒 | 生まれ出る心に
「偉度さまは、変わっておられる」
そういう景であるが、偉度の着替えを手伝うその様子は、鏡越しに、どこかしら、うきうきとしているように見える。
景はどこから用意したのか、さまざまな色の、瀟洒な絹の衣裳を持ち出して、髪を解き、薄物一枚のほかは、ほとんど素肌をさらしている偉度の肩に、これはどうか、これは似合わない、などと、あれこれ選別をしている。
「まさか、お前が着ているものではなかろうな」
さすがに偉度がいうと、景は、例の、声を立てずに肩を揺らす笑い方をして、答えた。
「わたくしめの物ではございませぬよ。わけあって、手元に置いているものでございます」
「その、わけ、とやらは聞きたくないな」
「それが賢明かと」
景は、どこか得体のしれない笑みをうかべて、肩を揺すった。
景は、さいごに、薄い桃色の衣を持ち出すと、偉度さまの肌には、これがいちばんお似合いだとつぶやいて、それにあわせて衣裳を一式、調えた。

この男は、洛陽で宦官をつとめていたときも、こんな役目をしていたのかと、ふと思う。
調えられた衣裳、帯、領巾、簪、首飾り、どれも互いに目立ちすぎず、地味にならず、ほどよく中身が引き立つように選ばれている。
景の、太く白くやわらかな指に手伝ってもらいながら、偉度は衣裳を手馴れたふうに身にまとう。
解いた髪に香油をさして、当世の流行にあわせて結ってみる。
蛇のようにくねって束ねられた髪に、銀色の簪を挿す。
白粉を肌にはたき、鮮やかな紅を差す。
自分がどんどん別のものに成り代わっていくのが鏡に映る。
その変わり行く姿を見るたびに、偉度は、笑いがこみ上げてくる。
変装をするのは好きだ。
もともと、自分にはこうした趣味があるのかな、と恐ろしくなったときもあったが、実のところ、老婆に化けようが、商人に化けようが、何に成り代わろうと、そうなる手前の瞬間で、偉度は快感をおぼえている。
『孔明の主簿』というのだって、実は周りを欺き、化けているようなものだ。
むしろ、こうして闇の顔を取り戻しているときのほうが、素なのかもしれない。素を取り戻せるので、偉度はうれしくなって笑うのか、そのあたりは自分でも判然としないし、はっきりさせるつもりもなかった。
ほどなく鏡の前には、橙色の明かりに照らされた、いささか盛りの過ぎた、それでもなお、銀花のように美しい妓女の姿があらわれた。
偉度はくるりと一回転して、袖と領巾を優雅に揺らして、自分の姿を確かめると、眉をしかめて、景を真正面から見た。
「この界隈にいるにしては、不自然なほど、上等な女に見えないか」
景は、おだやかに首を振り、もの静かな笑みを浮かべたまま、言う。
「いいえ、このあたりに最初に漂い落ちる者は、最初はみな、このように『まとも』でございますから」
「笑いながら恐ろしいことを言うやつだな。まあ、目立てればよいか」
言いながら、偉度は愛用の短刀を懐に隠し、領巾を身に纏いなおす。
いまでこそ、明かりがあるから女装した男だと、すぐにばれるであろうが、暗がりに潜めば、月明かりの魔術によって、男らしさの痕跡は消えうせる。
そして、偉度は、その気配を消すことに長けていた。
「高く売れそうかい?」
と、一見すると大人しそうな美しい妓女は、不敵な笑みを、にっ、と景に見せる。景はやはり、にこにこと、おだやかに笑うばかりで、答えない。
景が、なにを考えているのかということは、いまの偉度には関係なかったから、景の反応の曖昧さに、肩をすくめると、さらに鏡を覗き込み、化粧をあらためる。
すると、またも鏡越しに、景が言った。
「あまり、遊びすぎてはなりませぬよ」
「遊ぶ? そんなふうに見えるかい」
そういう意味ではない、と景は首を振る。
「偉度さま、正義というものは、毒を含んだ美酒でございます。あまり呑みすぎてはなりませぬ。悪酔いをして、いつか良識というものが潰されてしまう。気づくと鬼になっている。そうして潰れてきた『善きひと』を、わたくしは何人も目にいたしました。
偉度さま、あなたさまが鬼になる様を見たい気もいたしますが、やはり、貴方様は、陽の当たる場所へ向かわれるべきお方でございますよ」

陽の当たる場所か、と苦くつぶやきつつ、ふと、蕭花と、薛、そして許婚であったという三人の、ほんとうに『善きひと』を思い出していた。
彼らになんの咎があったという。
正義とはなんだ。運命とはなんなのだ。

「景よ、おまえはわたしを『善きひと』だと誉めてくれたようだが、それはちがうよ。わたしは、『悪』なのだ。『悪』であるから、常ならばせぬ、このような衣裳をまとい、男を誘う仕草もしてみせる」
「それは、縁も所縁もない、あまたの女たちの恨みを晴らすため、でございましょう」
「いいや、単に黄元の息子が気に食わないからさ。おまえにわかるだろうか、これは純粋に、縄張り争いなのさ。わたしの目の光るところで、愚か者が、親の威光を笠にして、下劣な真似をして威張り腐っている。これは叩きのめさねばならぬ。狼がそうするように、わたしも迷い込んできた愚かな狼を牙にかけにいく。それだけのことだ」
すると景は、肩を揺らして、声を立てずに笑いながら、そういうことにしておきましょう、と言った。


景の家を出ると、まさにそこは天と地のごとき差をみせる暗闇の世界が広がっている。
当初、ここへ来たときは怖じたものであるが、偉度はもはや、うつむきも、目を逸らすこともしなかった。
さながら女神のように傲然と、歩みを進めて、泥と汚物の混ざり合った界隈をあるく。
目のうつろな人々、なにかを求めて、するどくあたりを睥睨するもの、意味のない言葉をぶつぶつとつぶやき、まるで天空からだれかに操られているかのように、ぐるぐるとあてもなく周囲を回っている者。
たまに、つよく肩をつかまれ、引き止められそうになったが、偉度は、それをきつく跳ね除けた。
求めているのは、その手ではない。
偉度は、おのれの美貌を見せつけるように、うつむきかげんに路地にさまよう人々を、堂々と見据えた。

日が昇れば、この界隈の人々は、夜に目を開いていた分を取り戻すために、陽光から逃れるようにして日陰に隠れ、そこで眠る。
安宿があって、薄汚い部屋に、ネズミのよう肌を寄せ合って、そこで眠るのだ。
そうして夜になると、ふらふらと表にあわれて、己の正体を曖昧にさせてくれる闇に身を浸して、幽鬼のように、常人のまえに姿をあらわす。
かれらを、哀れとは思わない。
かれら自身は、なるべくしてなったのではない、仕方がなかったのだ、と叫ぶだろう。
しかし偉度からすれば、彼らは、やはり自ら選んで、闇に住まい、身をかがめた人々であった。
いくつもいくつも、踏みとどまるきっかけはあったはずだ。
差し伸べられた手はあったはずだ。
かれらの目が眩んでいただけ、耳が塞がっていただけだ。
血反吐を吐くような思いをして、なんとか陽光の容赦ない明るさに身を照らし、おのれの恥や弱さと向き合う努力を、なぜ、おまえたちは放棄した。
おまえたちは救われない。自分で自分を救おうとしないからだ。そして自ら死んでいく。
路地に彷徨う者は、男も女も関係ない。
老いた者、子供でさえ関係がない。
ふと、憎憎しげに自分を睨みつけている少年と目があって、偉度は逆にその目を厳しく見据えて、逸らさせた。
勝った、とは思わなかった。
むしろ、自分の目から逃れない勇気が、その少年にあったほうが、偉度は救われたであろう。
その少年は、ちょうど樊城にいて、ちがう名前を与えられ、自堕落に生きていた自分と同じくらいであった。

「やたら高そうだな。ここいらの相場とは釣りあわねぇだろう」

偉度は振り向かず、やれやれ、と小さくため息をついて、場に似合わぬ、むしろ、その界隈の人々が、避けて散っていくほどに、明るい声に振り返った。
そこには、やたらと周囲から浮き上がっている、赤い頭巾が立っていた。
「なぜここに? 景が、使いを寄越したのですか」
いいや、と赤頭巾は首を振ると、偉度のつま先から頭のてっぺんまでをじっくり眺めて、一瞬だけ、困ったように笑い、それから、それから胸を張った。
「わしは、なんでもお見通しなのだ」
「嘘をおっしゃい。景が使いを寄越したのではない、というのなら、ご自分で、事態をなんとかしなければと、こんなところに、一人でやってきたのでしょう」
赤頭巾は、嬉しそうに目を細めて、お、察しがいいじゃねぇか、などと喜んでいる。
しかし、その全身から、まさに陽気とも言おうか、陽光の燦々とした翳りのない光が、全身からにじみ出ているがゆえに、どっぷりと泥のように沈み込む闇の世界に、赤頭巾はまったくもってなじまずに、浮き上がっていた。
「お帰り下さい」
偉度が言うと、赤頭巾は、頭巾の中で口を尖らせた。
「なんでだよ」
頭が痛くなってきた。
偉度は、銀の簪の音をしゃらん、しゃらんとさせながら、首を振る。
「周りをご覧なされませ、周りを! あなたさまは目立ちすぎる。これでは、わたくしの苦心も、水泡に帰してしまいます。いうなれば、邪魔です」
偉度の、容赦のない、邪魔、のひとことに、赤頭巾・劉備はぐっさりときたようであった。
「でもよ、これは、わしも首を突っ込んだことなのだぜ?」
正直なところ、偉度は自分のこの姿を見られたことを恥ずかしく思ったし、同時に、劉備のような陽性の男が、黄元の息子の淵とやらをどう処罰するのか、せいぜいが捕らえて説教して、黄家に対して、なんらかの制裁を加える程度だと踏んでいたから、なおさら邪魔であった。
仕方がない。
「では、主公、その目立ちすぎる頭巾をなんとかして、それから、物陰に隠れて、黄淵とやらがやってくるのを見張ってはいただけませぬか」
見張り、と聴いて、劉備は退屈そうだと思ったようで、気乗りがしないとくずっていた。
だが、それでも確かに、偉度がひとりでうろうろしていたほうが、黄淵を釣れそうだと判断し、なんてヤツだよ、とぶつぶつ言いながら、おとなしく朽ちかけた板塀の後ろに隠れていった。

つづく……

生まれ出(いず)る心に 6

2018年07月16日 09時36分11秒 | 生まれ出る心に

ああ、こいつが蕭花の夫になるはずだった男か、と偉度は見当をつけた。
突然に、花嫁に自殺された男なのだ。その死の原因を知りたくなるのは当然であろう。割って入ればややこしいことになりそうだし、しばらく様子を見ようと、偉度は物陰に隠れることにした。

「養父上、なぜ隠されるのですか。蕭花に、禍事が降りかかった、それを恥じて、あれは死を選んだという、その話は本当なのでございますか?」
「奉や、なぜお前それを知っているのだ!」
奉、と呼ばれた男は、ああ、と悲しそうな声をあげて、その場に膝から崩れ落ち、地面を拳で打った。
その様を見て、薛はやはり、天を仰いで、胸をつよく叩く。
「奉、誰に聞いたのだ? あの男か。あいつが、もしや蕭花のことを言いふらしているのか? この世には天もないのか! 娘に死を選ばせるほどの恥を与えておきながら、さらに死者を踏みつける真似をする! 黄家が何者ぞ!」
「黄家? 養父上、なにゆえ黄家なのでございますか? 狼藉者を、ご存知なのですか? それなのに、なぜ訴えようとなさらないのです!」
立ち上がり、詰め寄る奉の言葉に、薛は愕然とした顔をする。
「ちがうのか。おまえ、だれから、蕭花の話を?」
「賄い女でございます。叱らないでやってください、わたしがあまりに落胆しているので、実はと教えてくれたものでございます」
それを聞いて、偉度は、あのおしゃべり女め、とちいさく悪態をついた。
「養父上、黄家の男なのでございますね? 脅されているのですか? そうなのですね?」
「あやつは狼藉を働いたあと、蕭花の身につけていた簪を奪い、もしもお上に訴えようものならば、おまえの恥をあますところなく世間に知らせてやろう、どちらにしろ、我は漢嘉太守の息子なり、おまえたちには手出しはできぬ。しかし、これは万が一のための口止めだといって、去って行ったのだ」
「卑劣な…! 養父上、それで沈黙をしているというのですか! それではあまりに蕭花が哀れにすぎまするぞ!」
「では、訴えてなんとする! 蕭花は、死をもってすべてに口を閉ざしたのだぞ。それを、我らが暴いてよいのか? わたしも怒りがおさまらぬ、悲しみも癒えぬ、言葉では、尽くせぬほどなのだぞ。だが、相手が悪すぎよう」
「泣き寝入りをなさると? そんな、意気地のない! わたしには我慢ができませぬ!」
「どこへ行く!」
「お上に訴えに行くのでございます! 黄家が出てくるならば、出てくるがよいのです!」
「待て、ならぬ!」

出番だな、と偉度は物陰からさっと姿を現すと、意気込み走り去ろうとする奉の、着物の襟元をぐっと掴んで足を止めさせた。
「待て。お上に訴えること、いまは、まかりならぬぞ」
なんとなく、どこかの誰かに口調が似てきたな、と自分で思いつつ、偉度は、自分を止める者を驚いて振り返る奉に、厳しく言った。
「養父の言に従え。お上に訴えれば、蕭花殿だけではない。同じ被害に遭って、それでも訴えることもできずに、口をつぐんでいる者たちすべてが傷つくことになるのだぞ」
「胡偉度さま!」
薛がおどろいて声をあげると、その名だけは知っていたようで、奉はぎょっとして、もがくのをやめたが、それでも敢然と睨みつけてくる。
同年か、すこし年上、といったところであろうか。
背丈がほぼ同じなので、にらみ合うと、真正面に目がある形となる。
「では、狼藉者を、このまま野放しにされるというのか!」
「そうは言うておらぬ」
「われらの悲しみはどうなる! 蕭花を奪われた悲しみは? ただ指をくわえて、事態がなんとなく収まるのを、ただ見ていろとおっしゃるのか?」
だんだん、偉度は腹が立ってきた。
格好は地味ではあるが、薛と同じくらい裕福で、幸福な家庭に暮らし、天然の要害の成都のなかにあり、さしたる戦乱の恐怖を味わったこともなく、いままで安穏と過ごしてきた男なのだろうな、と思う。
その環境に、嫉妬したのではない。
この男が、憤りを晴らすために、お上、お上と、ひたすら人を頼っている、その態度が、情けなく見えたのである。
ただし、この男自身に意気地がないわけではない。
意気地がなければ、名家であり豪族の、黄家に繋がるものを、訴えようなどとは思わないだろう。偉度とでは、歩んできた人生があまりにちがいすぎる、ということなのだ。
「わたしがおまえならば、お上に訴えなぞしない」
「では、どうなされる?」
挑戦されれば応えずにはいられない、偉度の悪癖が、ここで出てしまった。
敢然と睨みつけられた偉度は、その視線をまっすぐ受け止め、つんと顎をそらし、まるで挑発するかのような表情で、答えた。
「恨みは、己の手で晴らすさ」
もしも、孔明なり、趙雲なりがいれば、偉度は派手に拳骨を喰らっていたにちがいない。
奉は、それを聞くや、やはり偉度を睨みつけたまま、黙って背を向けて走り去って行った。
しまったな、と思ったが、とりあえず、お上に駆け込むことはなかろうと判断し、ひとり、力なく残された、薛のところへと向かう。
「偉度さま、お応え下さいまし。娘のことを、もしや左将軍府のみなさまは、じつはご存知なのでは?」
「安心するがいい、このことを知るのは、左将軍府では、わたし一人だ。上の者も、黄家の者が『名前ばかりの盗賊』であるなどとは、掴んでおらぬ」
一番上が掴んでいるが、あれは例外である。
「黄家に、お咎めは行きましょうや? その際には、娘や…ほかの同じ目に遭った娘たちはどうなりましょう?」
「すまぬが、いまは、わからぬ、としか言えぬ。奉という男に、わたしもずいぶんきついことを言ってしまった。すまぬが貴方から、偉度が謝っていたと伝えてくれぬか」
「奉は、蕭花の幼なじみでございまして」
と、薛は、ふと昔をなつかしむような、優しい、しかし遠い目をして言う。
「早くに親を亡くし、わたくしどもで面倒を見ておりました。あの二人は、兄妹のようにいつも一緒で、いつしか自然に、夫婦になる約束もできていたのです。奉は、じきにわが婿養子となるはずでございました」
「そうであったか」

自分とは遠い、幸福な光のあるところに住んでいた者たち。
だからこそ興味をおぼえたし、惹かれもした。
妾腹だったから、かわいそうだった? 
冗談ではない。その程度の寂しさが原因で、人々を踏みにじる権利が、いったいおまえのどこにある。
偉度は、胸につかえていた痛みが、転じて怒りと義務に変わっていくのを覚えていた。
これを正義感とも呼んだかもしれないが、偉度は自分の心にうまれた義憤の心を、正義とは見たくなかった。
自分は、日陰に生きるものでいい。
その覚悟は、偉度の誇りでもある。
日陰に生きる覚悟をした者には、それなりの規則がある。
それは、光を侵食してはならぬという不文律だ。
それを破ったものには、相応の仕置きをせねばなるまい。

「薛どの、ひとつ申し上げたい」
なんでございましょう、と薛は顔をあげて偉度を見た。
その、わずかの間に、一気に老け込んだ顔を見て、偉度はやはり、とおのれの勘のよさに頷いた。
「死ぬおつもりであれば、あと三日。三日だけ、この世に留まられよ。三日過ぎてからは、自由にされるがよい。わたしも口をはさまぬ」
薛は、心の内をずばり言い当てられ、言葉をなくしてうろたえている。
そして偉度は、ある準備をするために、その場を静かに立ち去った。

つづく……

生まれ出(いず)る心に 5

2018年07月15日 09時34分55秒 | 生まれ出る心に
景の案内で中に入ると、さらに意外なことに、そこはまったく普通の、明るく清潔で健全な精神の気配がある家であった。表の陰惨な光景との差が激しい。
こほん、こほんと咳をする、弱弱しい女の気配がある。女と知れるのは、その咳のやわらかさゆえである。
景は、しばしお待ちを、と言って、正面からすぐにらせん状に二階にあがる階段を、やはりこれも規則正しく、たんたん、と上っていくと、奥まった部屋に入っていく。
妻女が? 
宦官でも妻は持てようが、とあれこれ奇妙な想像を働かせながら待っていると、景が、ふたたび顔を出した。
「母でございます」
景に母親がいた、ということを、偉度は、これまた初めて知り、やはり驚いた。室内の、古びた、元妓楼という淫靡な雰囲気のあるなかにも、それにも勝る清浄さがこの家にあるのは、景の母とやらが、家をきちんと仕切っているからなのだろう。景が劉備とさほど変わらない年頃だということを考えれば、おそらくかなりの高齢であるにはちがいないが。

家屋は、簡素ながらも、趣味がよかった。
仰々しく、高価なものをごてごてと見せびらかせる豪華さ、というものがあるが、それとは対称的に、静かな空間に、計算されて、よい物がぽつんと目を引くように置かれている、というふうだ。
二人は、元妓楼の、凝った家屋のつくりに感心しつつ、客間に通された。
景は手早く茶を用意して、ふたりのために淹れてくる。
思わぬ、茶、という最上のもてなしに、さすがの偉度も恐縮しつつ、景に、さっそく用件を切り出した。
「押し込み強盗の件であるが、こちらでは何か噂になっておらぬか」
「近々、いらっしゃるのではと、思うておりました」
「おまえの口ぶりからすれば、遅いくらいであった、というわけかな」
間近で見る景の顔は、男とも女ともつかぬ、あいまいな柔和さを持っている。
孔明もやはり、男女の境が曖昧な顔を持っているが、あちらは鋭角的で冴え冴えとした清浄さがあるのにくらべ、こちらは、柔和で曲線的であるが、どこか影がある。
「いいえ、こちらがそろそろ、偉度様のところへお伺いせねばと。遅くなって申し訳ございませぬ。母の容態が、このところ思わしくないもので、なかなか家を空けることができなかったのでございます」
「おっかさんは、肺を病んでらっしゃるのかい」
と、劉備が目を細めて尋ねると、景は寂しそうに、もう歳でございますから、と言った。
「ところで強盗の件、自分がやったのだと吹聴する者がおりまして」
やはり、と劉備と偉度は顔をあわせた。
さすが年の功、劉備の読みはぴたりと当たったわけである。
「前々から、評判の悪い男でございます。まあ、このあたりをうろつく者に、まともな者はおりませぬが、あれは、特に折り紙つきでございます」
「どのように」
「妓女を、ふつうに扱うことが嫌なのでございますよ。さきほど、阿片を買うための金をもとめて、立っている女たちがいたでしょう。あの中から、見栄えのよい者を選んで、声をかけるでもなし、肩を叩くでもなし、いきなり連れ出して、値段を交渉することなしに、人気のない道端、あるいは廃屋に連れ込んで、いきなりことに及ぶのでございます」
「そいつぁ、女もたまらねぇな。怖えぇだろうし、痛ぇだろうに」
「女が痛がったり、悲鳴をあげたりするのを聞くのが、楽しい、という男なのでございますよ。女が抵抗すれば、容赦なく殴りつけます。
そのような趣味がありますので、すっかり有名になってしまいまして、表の妓楼はもちろんのこと、この界隈でも、その男が顔を出しただけで、店に足を入れるのを断るくらいなのでございます。
しかし、阿片のために体を売る女は、たとえ痛い目に遭わされても、とりあえず、金払いはよいので、男を拒みませぬ。しかし、その男」
と、ここで景は言葉を切り、肩を揺らして、気味悪く笑った。
こうして声を殺して笑う癖は、あてにはならぬが噂によれば、洛陽でついたものなのだそうだが。
「生意気にも、たいへんな面食いなのでございますよ。ですから、見栄えの悪い女には見向きもいたしませぬ。まあ、阿片のために身を持ち崩した女というのは、そもそも、わけのわからぬことを口走るもの。それゆえ、噂が広がるのが遅かったのでございます。おそらく、これは嘘であろう、とそう思われてしまったのです」
「ふむ、女たちのことばを、なぜにみな、信じるようになった」
「押し込み強盗の噂はあるのに、どこのだれが被害にあったのか、誰も知りませぬ。それなのに、その男は、どこそこの家の女をやっつけてやった、と、具体的に口にいたします。
あまりに詳しすぎますので、わたくしめが調べましたところ、たしかに、男の言ったとおり、なにかその家は様子がおかしい。縁談が決まっていた娘が、突如として浮屠教に入信してしまったり、あるいは、理由もなく自害したり」
「それだ!」
偉度は思わず腰を浮かせて、劉備を見る。
「間違いございませぬ。その男、いますぐ捕らえましょう。今宵も、どこかの家に忍び入っているやもしれませぬ。いいえ、この界隈をうろついているかも」
おう、と意気込み、うなずく劉備と、さっそく、と席を立とうとする偉度に、景はおだやかに手で二人を制した。
「お待ちを。それだけであれば、わたくしとて、すぐさま偉度様にご報告申し上げました。問題がございます」
「うむ?」
「その男の身元は、判っております。その気になれば、いますぐにでも捕縛は可能でございましょう」
「まことか」
景はこくりと頷くが、劉備と、それから偉度を、なにか試すようにして交互に見る。
その視線にぴんときたのか、劉備が口を開いた。
「その野郎、金払いがいい、と言ったな。もしや、士大夫なのではないかい」
「さすが左将軍さま。しかし、もっと悪い。漢嘉太守の黄元のご子息で、名を淵というお方が、賊の正体でございます」
「なんだと?」
「正嫡ではございませぬ。妾腹なのでございますが、正妻にずいぶんつらく当たられて育てられたのを、父の黄元さまが不憫に思い、できうる限りのわがままを尽くさせたそうでございます。ところが、その結果が、とんでもない暴虐の徒になってしまったのですよ」
偉度は、思わず机に座りなおし、景の淹れた茶を一気にすすり、ため息をついた。
「黄元か…成都の黄家は、軍師と仲が悪い。黄元は、揚武将軍と軍師の両方に賄賂を送りつけ、軍師には不潔の徒と蔑まれ、揚武将軍には、軍師と両天秤をかける不届き者といわれ、どちらにも嫌われておる男でございます」
「ああ、知っているよ。なんだか手前勝手な面をした男だろう。あんまり気に入らなかったのだが、黄家がうるさくなるといけねぇので、特に問題のなさそうな漢嘉の太守に据えたのだが」
「黄家の者に手を出せば、おそらく何らかの形で、旧来の豪族どもが反抗して参りましょう。これを抑えるには、法揚武将軍にお話をせねばなりませぬ。となると、やはり女たちのことを、公にしなければならなくなりまする」
「でなけりゃ孔明か? しかし益州の豪族を押さえつける役は、やっぱり法正だろう。となると、四角四面なあいつのことだ、豪族の名誉優先で、女たちのことを民草にばらしてしまうだろう。ああ、八方塞だな。その黄元の息子とかいうのは、ちゃんとそういうのも、弁(わきま)えているにちがいねぇや。忌々しい」
たしかに忌々しいことはまちがいなかったが、巴蜀の主たる劉備、細作の若き長・胡偉度、元宦官の景の三人で、ああでもない、こうでもないと相談したところで、よい知恵が浮かぶわけもなく、結局、その夜は、なにもできないままとなってしまった。


忸怩たる想いを抱えたまま、それでも喧騒の日々は過ぎていく。
ちょうど左将軍府の仕事が増えたこともあり、偉度は蕭花と、卑劣な盗賊について、考えずによくなった。
考えずによくなったところで、安堵していたわけではないし、偉度は面倒を忌避したかったのではない。
想いをかけた娘、というほどのつながりもなく、不正も変わらず世にはびこり、いつもどこかでだれかが泣いている。『よくある話』であった。
それなのに、偉度の胸の中に、火傷のようにじわりと、にじむような痛みがある。それが、ふとした瞬間に…たとえばものを書き付けるときに、薛の納めた筆などをふと見て、蕭花の、恥じらいの笑みを思い出し、おもわず手を止める。そんな類いの、静かな、それでいて決して消えない痛みである。

とはいえ、よい知恵は浮かばない。

よほど孔明に相談しようと迷ったのだが、やはり劉備の、公にしてしまえば、女たちが哀れに過ぎる、という言葉にためらって、口を開くことができなかった。
薛は、蕭花が死んでから、しばらく左将軍府に顔を出さないでいたが、喪が明けて、ようやくあらわれた。
偉度が意外に思ったのは、その表情が、ずいぶん、さっぱりしているふうに見えたことである。
明るさはない。
しかし、なんらかの決意をかためた、いさぎよさが、薛の、白髪の増えた姿にあらわれていた。
商人仲間は、蕭花の死の原因を知らないから、あえて口をつぐんで、ふつうにお悔やみを述べて、あたりさわりのないところで薛に接している。みなは蕭花には、誰にも言えないことがあったのだろうと察し、父の薛に深くは聞こうとしなかった。
しかも、薛が、むしろ周囲に気を遣って、笑みさえみせるので、気の利いた言葉を言うのになれた者も、かえって何も言えなくなってしまう。

偉度は、なにもいわず薛の様子を見ていたが、蕭花のときと同様に、なにか奇妙な直感がはたらいて、薛が左将軍府を辞し、出て行ってからも、こっそりとあとをつけた。
薛は、左将軍府にいたときは、しゃんと背筋を伸ばして、しっかりとした足取りで歩を進めていたが、ひとたび、知り合いのいない大路に出ると、しょんぼりと背中を丸め、足取りもよろよろと、危なっかしい。
手にした荷物も重そうに、ぶらりと片手にぶら提げている。
薛が川べりの道を歩き始めたとき、偉度はもしや、と思い、距離を詰めてあとをつけたのだが、ほっとしたことに、薛は、一度だけちらりと川のほうを見たものの、飛び込もうとはしなかった。

このまま、ちゃんと家に帰るのだろうか。
そして、薛の屋敷にほど近い路地に入ったときである。
家の垣根に芙蓉の花の咲き乱れ、軒先の洗濯物がひらひらと風に泳いでいる。
子供たちが遊んでいる楽しそうな声が、路地の奥のほうから聞こえてきた。
風になぶられて後れ毛が視界を邪魔する。それをかきあげた瞬間、偉度はどきりとした。
薛の姿がない。
見失ったのか? 
あわてて飛び出し、狭い路地の、家々の連なる付近を見回す。すると、軒先に野菊の咲く家から曲がった先にあるちいさな袋小路に、薛はいた。
若い男がその肩を、つよく揺さぶっている。
まさか、あれが賊か?
偉度は身構え、隠し持っていた得物を取り出そうとしたが、様子がおかしい。
若い男は、地味ながらも、こざっぱりとした印象の、いかにも実直そうな、誠実そうな男であった。
それが、必死の形相になって、薛の両肩を揺さぶるようにして、言っている。
「お教えください、養父上、蕭花に、いったい何があったというのですか? 最後に会った時は、死ぬ素振りなんてどこにもなかった。婚儀の支度も順調であったでしょう。わたくしになにかしら落ち度があったというのなら、どうぞお教え下さい。そうではない、というのならば、なにがあった、というのです!」

つづく……

生まれ出(いず)る心に 4

2018年07月14日 10時45分05秒 | 生まれ出る心に
この声。
偉度は、刃は突きつけたまま、すばやく顎を持つ手を離し、ぐいっと男の顔だけをこちらに向かせた。
ぐき、と男の首が嫌な音をたてて軋んだが、頓着しない。
「痛え! 鞭打ちになったぞ、絶対に!」
「主公? なにをされておいでですか!」
偉度は、刃を突きつけたのとおなじ速さで、素早く短刀をしまいこみ、そうして、今日は、悪趣味な赤頭巾をかぶっていない劉備の真正面に立った。だが、拝跪はしない。
こんな路地で、こんな状態の家でウロウロしている、このひとが悪いのだ。
主公だろうとしるものか。
そうして、ふてぶてしくしていられるのが、偉度という青年であった。

劉備は、といえば、イテェ、イテェ、と言いながら、妙な具合にひねった首をさすっている。
「孫の悪戯です。笑って許してください」
「おまえなぁ…まったく、孔明の苦労が偲ばれるというか、あいつはやっぱりすごいというか…しかし偉度よ、おまえが薛家にいるということは、例の姑娘のことか」
「主公のお耳には、なぜに入ったのでございますか」
「そりゃあ、おまえ、左将軍府の出入りの商人ってのは、宮城と同じやつもいるからな。そいつらが、まあ、あの美人が川に身を投げた、って話をしているじゃねぇか。それで、おどろいて来て見たのだよ。ちゃんと、おまえの言うとおり、赤頭巾だって脱いできったって言うのに、これかい」
偉度は、ちらりと、劉備の長い特徴的な手足を見た。
蜘蛛のような…なるほど、あの賄い女、素朴な顔をしてはいたけれど、詩人だな。
「しかし、途中でよく、だれにも見咎められませんでしたな」
「そりゃおまえ、ここに来るまでは、赤頭巾でいたからよ」
「左様で…」
劉備は腕をぐるりと回し、それから偉度をしっかりと見据えた。
「なにか判ったらしいな」

軍師は、この方には、人の心が透けて見えるのだよ、とおっしゃっていたが、本当だな、といささか薄気味悪く思いつつ、偉度は、賄い女から聞いた話を劉備に包み隠さず、すべて話した。
話しているうちにも、ふつふつと怒りが沸いてくる。
声が震えなかったり、狼藉者に対する、乱暴な言葉がでてこなかったりするのは、やはり偉度の偉度たる所以である。
すべてを聞き終わったあと、劉備は路地の隅に座り込み、深い深いため息をついた。
「ひでぇ話だな。でもって、腸ン中が、煮えくり返りそうな話だぜ」
「おそらく、ほかに被害に遭った家には、すべて妙齢の娘がいるはずでございます。主公の気にかけておられた女官も同様に。
賊に押し込みをされたうえに、娘を辱められたとあっては、家人がみな、世間の目をおそれて沈黙するのもわかり申す。被害に遭ったと声をあげれば、生涯にわたり、傷物になった女と蔑まされる。
しかも縁談が決まっていた娘となれば、夢も希望もなくしてしまったのでございましょう」
「賊…か。そいつ、狙いは女で、金品なんかじゃねぇんだな」
「多少はほかのものも盗みはするでしょうが、おそらく本来の目的は女かと」
劉備は深いため息をついたあと、じっと地面を見つめたまま、言った。
「偉度よ」
「なんでございましょう」
「儂は、ここにくるまで、いいことばっかりやってきたわけじゃねぇ。中には、とてもじゃねぇが、お天道さまに顔向けできないようなことまでやったこともある。でもよ、たったひとつだけ胸を張っていられるのは、女子供にだけは、どんなときだって、絶対に手を出さなかったってことだ。
俺たちは、武器をもつ野郎どもだけを相手に戦ってきた。戦う理由だって、女を掠め取ったり、子供を殺してまで金品を奪ったりするためじゃねぇ。
張飛が、夏侯氏のトコから今の嫁を攫ってきたときだって、いくら一目ぼれしたからって、誘拐は誘拐じゃねぇか。わしは、あいつが血の小便を垂らすほど、殴りつけてやったくらいなのだ。女に無理強いさせる男なんてな、その場で宮刑にしてやっても足りねぇくらいだぜ」
偉度は、不意に泣きたくなっている自分に気付いた。
おなじことを言ってくれる人が、『村』にいたら、と思ったのである。
よわよわしい感情に流されそうになる己をぐっとこらえ、偉度は怒りをじっと抑えている劉備に言った。
「これは、成都太守たる法孝直さまか、軍師将軍の管轄の話かと。お二人のどちらかに、相談されるべきでございます」
「いいや」
劉備はすぐに、きっぱりと偉度の言葉を否定した。
「ダメだ。被害を受けた家は、みんな、コトが公になることを恐れて、沈黙をしているのだ。コトを公にして、だれが一体、得をするってんだ? だれも得なんかしやしねぇ。いまだって、娘なり、女房なりの恥が、どこからか漏れるのじゃねぇかと、びくびくしている者たちがいっぱいいるのだ。わしは、この地の主として、そんなことを許すわけにはいかねぇよ」
「しかし、それでは法が」
「偉度」
劉備は、顔を上げると、厳しく偉度を見据えた。
「本音で話そうぜ。法だのなんだのというのなら、なんだっておまえは、わしにさっき、刃を向けてきた。わしがちょいとでも抵抗したら、おまえはわしを殺すつもりであっただろう。それは法か」
偉度は返事に詰まりつつ、首を振った。
「いいえ」
「被害を受けた人間は、沈黙を守っている。なのに、噂があちこちに流れている、ということは、その盗賊の大馬鹿野郎は、てめぇのやったことを、誰かに自慢したくて、自慢したくて、仕方のねぇ野郎なのさ。そういうふざけた野郎が、粋がってそうな場所は、どこだと思う?」
「妓楼か……賭場か、闇市でございましょうか」
「蛇の道は蛇、ってものだ。妓楼のいちばん多い場所…長星橋へ行くぜ」





長星橋の賑わいのなか、偉度は迷わず裏路地に入ると、入り組んだ、あまり人気のない界隈の、さらにまた、支流のように、うねうねとつづく路地に入っていく。
そこは、いわゆる特殊な妓楼がならぶ界隈でもあった。
ふつうの妓女では満足できない客を相手にする店があったり、あるいは、表立って商売をすることのできない女ばかりが、集っている店であったり、あるいは、表通りでは旬が過ぎ、うれなくなった妓女たちが集められている店もある。
いわゆる孔明や董幼宰の、もっとも嫌うところの、どんな時代の都市にも、必ず存在する『必要悪』をあつめた界隈が、このあたりなのである。

一度、あれで、あんがい潔癖な揚武将軍が、このあたりを徹底的に取り締まろうといったことがあった。
それを聞き、偉度は孔明に、言ったものである。
撲滅や排除などしてしまえば、かえって彼らは、その姿を闇の奥に隠してしまう。いまの、そこにあり、おぼろげに見える程度の距離に置いておくことが、いちばんなのだ。
見えなくなった彼らは、いつしかあなたも知っている、『壷中』のように変貌してしまうかもしれませんよ、と。
孔明は偉度のことばに従い、揚武将軍と話し合って、この界隈の取締りを徹底的に、ではなく、営業時間などをきびしくする程度に留めようと決めた。
孔明が、そのとき偉度をどう思ったか、偉度は考えていない。
考えたくなかったから、切り捨てた。
『必要悪』こそが、自分の故郷なのだ。好むと、好まざるとにかかわらず。

先立って連絡をしていたせいか、呼び出しの相手は、偉度たちがやってくると同時に、てっ、てっ、と規則正しい足音をさせて、背中をまるめてやってきた。この界隈でも情報通の男である。
前身は、漢王室につかえた宦官であったとかいう噂だが、本人はなにも語らない。ただ、偉度は、この小太りの中年男の胸と背中に、ひどい切り傷があるのだけは知っていた。
名前を景という。
「偉度さま、お久しゅうございます。そして」
と、景は、暗い路地のなか、皇帝にするように、丁寧な礼を劉備にした。
どこからか、脂臭い料理のかおりと、か細い女の歌声、筝の音が流れてくる。
劉備は、長星橋に行くのなら、これだ、といって、偉度がさんざん嫌がっても聞かず、例の赤頭巾をふたたびかぶっていた。
なので、いささかうろたえて、畏まる景に言う。
「おまえさん、わしを誰かと勘違いしてないか」
すると景は、くぐもった声で、肩を揺らして笑った。
「ご冗談を。その長い手足、星のように輝く双眸、たとえそのような珍妙な頭巾でお顔を隠していらしても判り申す、あなたさまは、劉左将軍さま。景は、ひとたび見た者の顔と名は、決してわすれませぬ」
「そうかい、そりゃあ、たいした特技だな。で、景よ、さっそくわしたちに教えて欲しいことがあるのだが」
「なんなりと。しかし、ここで立ち話もなんでしょう。偉度さま、主公をこのあたりの店にお連れするのは、心苦しい。ろくなおもてなしはできませぬが、我が家へいらしてくださいまし」
甲高い声で言う、元宦官という男のことばに、偉度はいささかびっくりした。
景は、決して自分の内側を人に覗かせようとしない男である。
偉度は、景がどこに住んでいるのか、一人なのか、家族がいるのか、それすら知らなかった。

こちらへ、と言いながら、景は、軽やかな足取りで、蛇のようにうねっている路地を進む。
それについて行きながら、途中、雨のように降ってくる、どこかの店の哄笑にぎょっとしつつ、偉度と劉備は道を行った。
やがて、まるで岩のように人々がうずくまって、動かなくなっている広場に突き当った。
広場、というよりは、広場であった、というべきであろう。
あきらかに、阿片の類いで心を壊された者たちが、寄る辺なく、場末中の場末たる場所からも見捨てられ、そこに集っているところであった。
さすがの偉度も、ここまで深部に入り込むのは、はじめてであったから、うつろな目をした者たち、うずくまり、ぶつぶつと何事かをつぶやいたり、意味もなく地面や壁を叩いたりしている人々を、避けて進んだ。

だれとも目を合わせることができない。
単純に、気味が悪かったからではない。
だれか、見知った顔を見つけてしまうのが恐ろしかったのだ。
孔明の元に残った『兄弟たち』は、みな結束が固かったから、問題なかったが、残らないと決めた者、あるいは故郷を目指した者の、その後の消息は知らない。
実は、孔明はかれらに、気持ちはわかるが、すこし時間をおいて、仲間たちと共に普通の生活に慣れてから、故郷に帰れと説得をした。
しかし、父母を恋しく思う気持ちには、どんな言葉も勝つことができなかった。
だが、孔明が心配したとおり、かれらが、すぐに普通の生活に適応できたかどうか…この中に、だれかの顔を見つけてしまったら、どうしたらよいのだ。
もう、ここまで流れ着いてしまった人間は、すっかり闇と同化してしまっている。陽の当たる場所には戻せない。

不意に、背中を、ばん、と強く叩かれた。
脇を見ると、背中を叩いたまま、自分の肩を抱き寄せるようにしている赤頭巾が、強い口調で言った。
「しっかりしろい。これだって、この世の有り様なのだぜ。わしたちは、こういう場所をほんのすこしでも、そしてここに来るやつを一人でも減らすのを目指しているのだ。結果ばかり見て嘆くな!」
「申し訳ございませぬ」
素直に、謝罪の言葉がでた。
と、同時に、肩を掴んでくるその大きな手が、優しく頼もしく思えた。
「お二方、ご不快をお許しくださいませ。もうすこしの辛抱でございます」
景はそう言って、広場の奥にある、石畳の階段をたんたん、と上っていく。
古びた建物、崩れかけた廃屋が並ぶ一角であるが、以前は、成都において、このあたりこそが繁華街の中心であったことが知れる。
かなり昔の話ではあろうが。
階段を登りきると、意外に清潔な構えの、元は妓楼であったものとおぼしき家に突き当たった。

つづく……

生まれ出(いず)る心に 3

2018年07月13日 14時03分35秒 | 生まれ出る心に

殺すのはたやすい。だが、生かすのはむずかしい。
そう言ったのは誰であったか。『村』の人間か? 
ちがう、軍師だ。あのひとが、いつだったか、そう言っていた。
偉度は、いまこそ、その意味を理解した気がした。
名前を読んでも、振り返ることを途中であきらめ、死を選んだ娘。
なぜ死ななければならなかった? 
最後に見たときは、とてもそんな様子ではなかったのに。

蕭花の父親の薛は、それから喪に服しているとかで、左将軍府にも顔を見せなかった。
代わりにやってきたという男に話を聞いたところ、わたしはまったくの臨時の雇われで、くわしいことはわかりませんが、縁談が、破談になった、とかいう話でもないそうですよ、と言う。
商売が立ち行かなくなった、というわけではない。左将軍府の筆の仕入れを一手に任されていた家だ。
となると、博打かなにかの借金が、実はあったので、家門が傾いた、という話だろうか。

偉度は主簿の仕事は、ほかの主簿たち(孔明は複数の主簿をつかっており、それを束ねる仕事を偉度はしていたのである。ちなみに全員が偉度よりずっと年上であったが、この限りなく有能かつ毒舌な青年に、従わない者はだれもいなかった)にいつもの仕事をまかせ、薛家へと足を運んでみることにした。
はじめて足を運ぶ薛家は、立派な門構えの、清潔で規律正しい家人のひとがらをしのばせる、大きな屋敷であった。
しかし、喪に服している、というだけあって、家は沈黙し、なにやらそこだけが、ぽつりとすべてから取り残されて、凍りついた空気に閉ざされているようですらある。
偉度は門を叩き、中の者を呼ぼうとしたが、だれも出てくる気配がない。
しばらく粘って門を叩いていると、やがて裏口のほうから、迷惑そうな顔をして、小太りの中年女が姿をあらわした。
見慣れぬ来訪者の姿に、中年女は、あからさまに胡散臭そうに、剣呑な眼差しをむけてきたが、名乗るとおどろいて、ここではなんですから、といって、屋敷の中ではなく、人気のない路地に、偉度をぐいぐいと引っ張っていく。

「あたしは、あの家に、通いで雇われている賄(まかない)なのでございますが」
と、中年女は、偉度の名と役職を聞いた時点で、すっかり興奮している様子で言う。
「ひどい話でございますよ。ええ、間違いはないのでございますが」
「なにがだ」
「あの家に、強盗が入ったことでございます」
「強盗だと? いつのことだ?」
「お嬢様のお亡くなりになる二日ほど前でしょうか。あたしがいつものように、お屋敷に参りますと、旦那様が一晩中起きていなさったのか、ずいぶんやつれた様子で出ていらして…いいえ、あれははっきりと泣いておられました。
そうしていきなり、あたしに、今日はよいから、もうかえっていい、とおっしゃるのです。しかも、小銭までくださったのですよ。もちろん、突っ返しましたとも。その日のお給金をいただけないのは、たしかに苦しいですけれど、それじゃあ、まるで口止め料のようではありませんか。それで、帰るフリをして、こっそり庭にまわって、中を覗いてみたのです」
と、ここで賄い女は、はっと気づいたらしく、手をぶんぶんと振って、偉度に言い訳した。
「もちろん、旦那さまたちが心配だったからですよ。ええ、それだけですからね。ともかく、いったいなにがあったのだろうと思ってみたら、驚くじゃありませんか、旦那さまが、たったひとりで、めちゃくちゃになった家の中を片付けしてらっしゃるのです。
酔っ払いの喧嘩でそうなった、なんてものじゃありませんよ、あれは。もうあたりはぜんぶひっくり返されて、ぼろぼろになっている、というふうなのです」
「そのとき、蕭花どのはいらしたのかね?」
「お嬢様は、奥にいらしたようで、あたしは見ていません。旦那さまに声をかけようかと、よっぽど迷ったのですけれど、家に入ってほしくない様子でしたから、あたしとしても引き返すしかありません。それでもだいぶ迷って、どうしよう、どうしようとお屋敷のそばをうろうろしていたら、お医者さまがいらしたようなのです」
「医者?」
賄い女は、偉度の目をまっすぐ見て、頷いた。
「そうしましたら、旦那様がやはり応対に出られたようなのですけれど、とたん、お嬢様の声がいたしまして、それはもう、すさまじい剣幕で、誰にも会いたくない、帰って、帰ってもらってと、まるで気が狂ってしまわれたかのような声で」
と、その声を思い出したらしく、賄い女はぶるりと身体を震わせた。
そうして、偉度の顔をまたじっと見つめると、言う。
「お役人のところに行くべきか、ずいぶん悩みましたけれど、でも、お分かりになるでしょう。もしや、と思いまして。お嬢様の名誉に関わることです。あたしで力になれることは、お嬢様のご様子を見守ってさしあげるだけですわ。それで、次の日もお屋敷に参りましたら、お嬢様は、お部屋に閉じこもりになって、一度も顔を見せてくださいませんでした」
「家の中の様子は?」
「旦那さまがお片づけになったのでしょう。ちょっと片付きが悪くなっている程度でございました」
「待て。屋敷にあった、金目のものが盗まれたようだ、というのには気づかなかったか?」
偉度に問われ、賄い女は、ああ、そういえば、おかしゅうございますね、と首をひねる。
「旦那さまが一番大事にしてらした、銀の妓女のお人形や、茶葉の入った壷は盗まれておりませんでした。あたしが泥棒だったら、ぜったいに見逃しやしないのに」
「金目のものが目当てじゃないのだろう」
そうつぶやいた途端、偉度は体中の血が沸騰するかのような、はげしい怒りに捕らわれた。

感情を抑えること、つねに冷静であること。
そう躾けられて刺客として育てられた。
苛烈な生活のなかで、死にゆく者に対しての感情は薄かった。
いや、もっとも無感動になるようにと育てられてきたからだ。
いま、偉度は、樊城で味わった、あの永遠に癒されぬ傷を負ったのとおなじくらいの、冷たく深い傷を負ったのを覚えた。
劉備の話していた、仏門に入ってしまったという女官のこと、そして、左将軍府で、恥らった笑みをみせていた蕭花の、振り返らなかった、わずかな横顔が頭をよぎる。
『盗賊』はいるのだ。
だが、だれも訴えない。
なぜか。
訴えられないからだ。
訴えられないことをわかっていて、狼藉を働いて、去っていく。

「薛家の主人は、いまどうしてなさる」
ひどく乾いてはいるが、それでも冷静で、震えてもいないおのれの声に、偉度はうんざりした。
ここまできて、熱を覚えるということがないのか、わたしは。
「ひどく落ち込まれております。あの医者でしょうか。どうしてか、うちに盗賊が入ったのではないかと噂が立っていて、興味本位に訪問してくる者が、あとをたたないのでございますよ。今朝だって、なんだか蜘蛛みたいな体型の男がやってきて、いきなりご主人にお会いしたい、なんていうものですから、もちろん、野良犬を追っ払うみたいに、水をぶっかけて追い返してやりましたけれど」
「そうか。ご主人が、姑娘のあとを追おうなどと考えないよう、おまえ、ちゃんと見ていてやってくれ」
「ええ、それはもう。うちの親戚の者にも頼んで、二人で目を離さないようにしておりますから、安心してくださいませ。で」
「で?」
賄い女は、強い眼差しで偉度を見据える。
人は、ときに残酷で、ときにひどく優しい。
世の中の複雑さに、戸惑いを覚えるのは、こういうときだ。
「わかっておる。左将軍府事の主簿たる、わたしが動くのだ。蕭花殿の仇は、きっと討ってくれようぞ」
「ありがとうございます。とてもおやさしくて、あたしの自慢のお嬢様でした。あんなふうにお亡くなりになるなんて、とても黙っておられません」
「だが、しばらくは沈黙を。よいな」
賄い女は頷くと、偉度が立ち去るまで、深々と頭を下げたまま、その場に留まりつづけていた。

偉度は、立ち去りざま、薛家の屋敷を見上げた。
薛は、娘のために沈黙を守ったのだ。
それのに、どこからか話が漏れていく。
あの賄い女ではなかろう。
おしゃべりはたしかだが、口を閉ざすべきには、閉ざすことができる性質の女だ。
と、すれば、話を漏らしているのは、狼藉者本人であろう。

村での生活は悲惨をきわめた。
顔立ちのよいものは、十歳を越したあたりから『特殊な仕事』をするために選ばれて、仕込まれて、『荊州を守るため』に己の身体を穢しつづける。
これが、ほんとうにみなのためになるのか、疑惑を抱くことすら許されなかった。
ひたすらよいことなのだ、よいことなのだと自分に犠牲を強いて、それがじつは偽りだったと知ったとき、偉度の中にあった純粋なものは砕け散ってしまった。
堕ちるところまで堕ちたってよかった。
人を殺してもなんとも思わなかった。
だれが何をしようと、だれと何をしていようと、喜怒哀楽、すべてがつながらない。
バラバラになった体と心を持て余し、それでもなんとか繋げて、心を傾けてみた相手もいたけれど、その者は自分を選ばず、そして死んだ。

軍師は、わたしを育てなおしている、と、主公はおっしゃっていたな。
偉度は思わず苦い笑みを浮かべてしまう。
そうではない。あのひとは、きっかけを作っただけ。
胡偉度という人間は、いま諸葛孔明という胎盤をとおして、生み直されている最中なのだ。
女ではないし、母でもないからわからないけれど、感情が生まれ出る瞬間は、こんなに苦しく悲しいものなのか。
怒りがおさまらぬ。
朝に、薛家を訪れた、野次馬が、いったい、どこから話を聞きつけてきたかが問題だろう。
そいつを辿っていけば、あるいは…

と、考える偉度の目の前に、まさに僥倖。
怪しげな男が、暗がりにて、薛家の塀の外で、ぴょんぴょんと飛びながら、中をうかがおうとしている。
手足が異様に長い。
蜘蛛のような体型の男…こいつか。
偉度は、そっと忍ばせていた短剣を抜き放つと、しずかに男の背後に忍び寄っていった。
もとより、偉度の足音は、よほどの手練れでなければ、感知することのできない類いのものだ。
手に馴染む短刀をさっと宙にふりあげ、自分より背の高い男の背後より、ぐっと顎を掴んで上を向かせるようにして、その咽喉笛に、ぎらりと光る刃を突きつける。
「何者ぞ」
ありったけの殺意をこめた一言であった。
この一言を聞いただけでも、歴戦の将でさえ、粟肌を立てずにはいられないだろう。
男は答えない。
怯えて声も出ないのか。それとも、単なる野次馬か。
どちらにしろ、只で返すつもりはなかった。
偉度はさらに顎を掴む手を強くし、動脈のぎりぎりのところで刃をちくりと肌に刺す。そして二度目の誰何をした。
「何者ぞ。答えよ」
「ほ、ほはへなは」
意味不明の言葉が返ってきた。
なるほど、あまりに顎を上に向かせすぎたため、まともな発音ができずにいるらしい。そこで、偉度は顎を掴む手を緩めた。
が、刃を突きつける力は、いっそう強くなる。
この暗い路地で、咽喉笛を切り裂いて捨ててやっても良いのだ。
男は、すこし口が自由になったらしく、ようやく言った。

「お、おまえなぁ、いつも、こんなことをしているのか」

つづく……

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