(承前)
- 近年、演奏家は作曲家の思いをいかに正確に伝えるかということが最重要課題になっている、演奏家の自由な解釈、演奏は歓迎されないと書いてある。ピアノ独奏の場合はそういう悩みがあるが、コンチェルトの場合などは指揮者の方針とどう折り合いを付けるのであろうか。
- 二つの大戦頃からヨーロッパからアメリカに多数の指揮者や演奏家が逃れた、また戦後アメリカの音楽マーケットが成長して、演奏家も大規模ホールでの演奏、聴衆が望むわかりやすい曲が求められ、難しい曲や細かいニュアンスの出る音などは敬遠された、レコードならまだしも、CDはそのような細かいニュアンスの音を拾うことができないためこの傾向に拍車をかけた、と書いてある。その通りだろう。音楽評論家の石井宏氏は著書「誰がバイオリンを殺したか」で、19世紀以降のこのような傾向がもたらす弊害をいやというほど書いている。マーケットに迎合してクラシック音楽の繊細さがなくなったと。
- ただ、一方、本書の中では、作曲家の生きていた当時の演奏を再現するだけでは、博物館に入ったミイラを取り出すようなものだ、音楽は現在を生きるものだ、とも書いている。難しい問題だ。
- 主役の一人、風間塵という規格外のコンテスタントが出てきた時、審査委員も能力が問われる、と書いてあるが、そういう面は確かにあるだろう。審査で落として、後にこの風間塵が成功したら、あのときコンテストでこの子を落とした審査委員の○○だと一生言われるのだろう。審査委員も楽じゃない。
- コンクールを開催すると言っても簡単でないし、採算が合わない例はいっぱいある、また、権威ある国際コンクールと認知されるためにはジュネーブにある国際音楽コンクール世界連盟に加入しなければならないし、加入したからと言って世界的な認知されるとは限らない、とある。知らなかった。
- 良いコンテスタントが集まるコンクールは、その時代の国の勢いが反映されると書いている。最近では欧米よりもアジア系が多い。確かにそうかもしれない。その中で日本人は頑張っていると思う。スポーツのように日本人が上位を占めるとルールを変えるというえげつないことを西欧はやってきたが(スキージャンプや水泳など)、クラシック音楽ではそういうこともできないから、アジア人、特に職人肌の日本人は今後もどんどん国際舞台で活躍する人が出てくるだろう。
- 音楽家は自分がどんな曲が得意か、自分に合っているか、わかっていない、生徒に教えてみて初めて気づくこともあるという。自分が好きな曲と自分に合っている曲は一致しないことがあるという。示唆に富んでいる指摘だ。音楽に限らず、他人が自分をどう見ているのか知らない人が大部分だから仕方ない面もあろう。
- 主人公の一人、マサルは、自分は演奏もするけど作曲もするコンポーザーピアニストになりたいと書いている。確かに、現代ではピアニストは演奏するだけの人が圧倒的だ。しかし、昔はモーツアルトでもベートーベンにしてもコンポーザーピアニストだった。
- 更にマサルは、現代音楽の大部分は限りなく狭いところで活動する作曲家と評論家のための音楽になっており、必ずしも弾いてみたい曲ではないと言う。現代音楽は聴衆を感動させないこと、メロディーがあると軽蔑されること、人気がないことを誇ること、人気のある曲を軽蔑さえすることなどを批判している。マサルの考えるとおりだと思う。絵画でも同様な気もするが、我々の理解が少ない面もあるかもしれない。
(その3)に続く