「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「倭寇の謎」アマゾン電子書籍紹介。角川BOOK★WALKER」

2020-02-20 12:07:37 | 温故知新
「倭寇の謎」アマゾン電子書籍紹介。角川BOOK★WALKER」
「倭寇は朝鮮半島・中国大陸および南方諸地域の沿岸や内陸で行動した海賊的集団に対して、朝鮮人や中国人がつけた呼び名で、語義「日本人の略奪」だが、用字例を見ると404年高句麗広開土王碑文(好太王碑)までさかのぼり、また豊臣秀吉の朝鮮出兵も日中戦争の日本軍も、全て倭寇の名で呼ばれている。歴史上の概念として倭寇が用いられるのは、主に14世紀から15世紀に朝鮮半島から中国大陸の北部に展開した倭寇と、16世紀に中国大陸・南海方面に展開した倭寇である。【14~15世紀の倭寇】朝鮮半島では13世紀初頭から倭人の略奪行為があったが、観応元(1350年)2月から11月に大規模な倭寇の船団による襲撃事件があり、これを「庚演の倭寇」として、その後固定観念としての倭寇が成立した。倭寇の行動範囲は、はじめは南朝鮮の沿岸に限られていたが、やがて高麗の首都開京の付近や内陸部の奥地にも及び、規模も大きくなり、400~500の船団、1000~3000の歩卒、千数百の騎馬隊が出現した。構成員⑴日本人のみの場合⑵日本人と高麗人・朝鮮人との場合⑶高麗人。朝鮮人のみの場合が考えらえるが、李氏朝鮮王朝時代倭寇の内倭人の割合は10~20%に過ぎなかったと言っていることから⑵⑶の場合が多かったと思われる。日本人は対馬・壱岐・松浦地方の住民、高麗・朝鮮人は禾尺・才人などの賎民や流亡農民を収める官庫と租粟を運搬する漕船や人民であった。捕られた人民を送還することによって反対給付をうけたり、倭寇軍に編入されたり、琉球まで転売されることもあった。高麗王朝は武力による防衛に努める一方、日本の要路に使者を送って倭寇の禁止を要請したが成果が上がらないうちに王朝は倒壊した。代わって李氏朝鮮王朝葉前王朝の政策を受け継ぎながら軍備を充実し、巧妙な懐柔策を取って倭寇の鎮静に導いた。倭寇は、朝鮮王朝に投降して官職・衣食などを与えらえ向化倭人、日本の大名や豪族の使者の名で行動した使送倭人、貿易業者として行動した販売倭人・興利倭人などに偏執分解した。明も建国当寺当初から倭寇に苦しみ、太祖は南朝征制西将軍懐良親王と交渉して倭寇を禁止させようとしたが、成果が上がらなかった。
またこれに似た「三浦の乱」が三浦の乱(さんぽのらん)
中宗5 (1510) 年,朝鮮の三浦 (薺浦〈せいほ〉,富山浦〈ふざんぽ〉,塩浦〈えんぽ〉) に起った日本人居留民の暴動事件。庚午の倭変ともいう。これより前,朝鮮王朝 (李朝) は海防を強化して倭寇にそなえ,懐柔や武力討伐などの倭寇壊滅策をとる一方,日本に使臣を送り倭寇禁圧を要請した。日本でも室町幕府の統制が強まり,西国の有力守護や豪族などが倭寇禁圧と倭寇に拉致された朝鮮人捕虜の送還に努力した。こうして朝鮮王朝と幕府,西国の封建領主間に交易関係が結ばれ,使節の相互往来も盛んとなった。朝鮮は薺浦 (現慶尚南道昌原郡熊川面) ,富山浦 (現慶尚南道釜山市) ,塩浦 (現慶尚南道蔚山市) に限定して日本人の貿易を許し,倭館を設けた。三浦に住む日本人は恒居倭 (こうきょわ) と呼ばれ,世宗 18 (1436) 年に 60戸の居住が許されたが,15世紀末には薺浦 347戸,2500名,富山浦 147戸,453名,塩浦 51戸,152名に達した。その人数が次第に増加するにつれて,密貿易など違反,非行者が続出した。片貿易や国庫の欠亡に苦しむ朝鮮王朝では中宗が即位すると諸政改革の一環として,日本貿易にも厳重な統制を加え,恒居倭の居住権も制限した。これに憤慨した恒居倭は,対馬からの兵船数百隻の応援を得て反乱を起したが,朝鮮の圧倒的な軍事力の前に敗退。その結果,日朝間の通交貿易関係は断絶した。2年後に壬申条約が結ばれ修交関係の復活をみたが,薺浦1港に限られ,歳遣船,歳賜米も減少し,恒居倭は認められなかった。



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