「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「歴史の回想・済南事件」グーグル・楽天・角川・アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍

2020-03-15 13:15:37 | 温故知新


「歴史の回想・済南事件」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍
日本の山東出兵で起こった日中両軍の武力衝突。1928年’昭和3年)の国民革命軍の北伐再開に際し、日本が第二次山東出兵を断行すると、(第一次山東出兵の昭和2年(1927)北伐の国民革命軍が山東省に迫ると、東北(満州)権益の動揺を恐れた田中儀一内閣は、邦人保護を名目に5月に2000人を同省に送り、7月には2200人を増派した。この間東方会議で対中強硬方針が確認されたが、中国側が北伐の矛先を緩め、内外の出兵批判も高まって、9月撤兵した。第二次出兵の際1928年の北伐再開で田中内閣は再度出兵を決め、4月、5000の兵力で山東の要所を占領。その結果5月、済南で日中双方の武力衝突が起こった。第三次では済南事件の発生で日本は師団単位の兵力を送って山東省全域から華北各地に展開させる一方、国民革命の東北への波及を実力で阻止するとの声明を出した。しかし1928年6月、関東軍参謀河本大作が政府の思惑を超えて東北の実力者張作霖を爆破、軍閥を継いだその息子張学良を石未革命支持の方向に追いやることになった。結局出兵は日本の侵略姿勢を印象付けただけに終わった。国内ではこの出兵を反対して対支非干渉運動が起こった。)5月3日済南で日中間の市街戦が起こった。8日には全面戦闘に発展、日本軍は総攻撃し済南城を占領。この一連の戦闘で一般市民・在留邦人、中国外交官にも犠牲者を出した。一方、国民革命軍は済南を迂回して北上し、戦闘は11日には終息したが、日本はこの事件を契機に出兵兵力を増加させ(第三次山東出兵)中国の反日民族意識を決定的なものにした。国民革命へ武力干渉という意味で、日中十五年戦争の端緒になった銭湯といえる。



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