「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「高僧名僧伝・夢窓疎石」アマゾン・グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介。

2020-06-22 07:18:36 | 投稿済C

「高僧名僧伝・夢窓疎石」アマゾン電子書籍紹介。
夢窓疎石(1275年~1351年)鎌倉時代から南北朝時代の臨済宗仏光派の禅僧。夢窓とは道号、疎石は諱。朴訥叟とも称した。伊勢の人。宇多天皇の9世の孫で、母は平氏。甲斐平塩寺で出家し、1292年(正応5)叔父明真を頼って奈良に赴き、慈観について受戒。やがて禅を学ぶために、建仁寺の無隠円範に参じ、1295年(永仁3)鎌倉に赴いて、無及徳前全、桃渓徳悟、痴鈍空性らに参じたのち、いったん建仁寺の無穏のもとに戻ったが、再び鎌倉に赴いて来日僧一山一寧に参じた。さらに奥羽に赴いて苦行を積んだのち、鎌倉の高峰顕日に参じて、ついにその法を継いだ。そののち甲斐国龍山菴、土佐国吸江庵、相模国三浦泊船庵、上総国退耕庵などに穏棲したが、1325年(正中2)春、後醍醐天皇の勅を受けて南禅寺に住した翌年。鎌倉の南芳庵を開き、浄智寺、瑞泉寺、円覚寺に住し、さらに甲斐の恵林寺を開いたが、1331年(元徳3・元弘元)北条高時に招かれて建長寺住した。翌翌年6月、鎌倉幕府の滅亡により後醍醐天皇に招かれて上京、臨川寺開山塔の三会院を始め、門派の本拠とした。ついで翌年10月、天皇に召されて南禅寺に再住したが、1339年(暦応2)西方寺を西芳寺に改めて、ここに隠棲した。後醍醐天皇の没後足利尊氏は天竜寺を建て、夢窓開山とした。さらに1351年(観応2)天竜寺僧堂の完成により同寺を再住、後醍醐天皇の十三回忌を修し、同年9月30日没。後醍醐天皇など7代の天皇から国師号を受けた。


「高僧名僧伝・重源」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」

2020-06-19 05:49:01 | 投稿済C

「高僧名僧伝・重源」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
重源(1121年~1206年)平安末期から鎌倉初期に活躍した僧。勧進上人。房号は俊乗房、または南無阿弥陀仏と自称した。1181年(養和元)61歳で初代東大寺勧進職となってから没するまで、広範囲な勧進活動による資金調達や渡来人技術者の編成によって、治承・寿永の内乱後の社会復興に努めた。平氏が焼き払った東大寺の再建を始め、浄土寺など各地に寺院を創建・営繕し、所領経営、交通路・港湾・池溝整備など多くの成果をあげた。前半生は不明な点も多く、紀氏の出身、左馬允季重の子で俗名重定といったらしい。13歳で醍醐寺で出家、のち四国や大峰山・熊野・御嶽・葛城など聖地・霊山を回って修行を積み、勧進活動を行った。学僧というより、衆生救済のために宗教的実践を行う聖であった。1176年(安元2)の高野山延寿院の鐘に「勧進入唐三度上人重源とあるが、入宋回数についての確証はない。陳和卿らの宋人技術者や石工の伊氏らを率いて大仏様と言われる新たな建築様式を導入したのは入宋経験からであろう。「支度第一の俊乗房」と評された。生涯の事績については、晩年に著された。「南無阿弥仏作善集」に詳しい。建永元年6月5日に東大寺で没する。重源の墓と言われる三角五輪塔が残されている。



「江戸の絵師・歌川広重」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電

2020-06-18 05:49:55 | 投稿済C

「江戸の絵師・歌川広重」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電
「歌川広重」(1797年~1858年)江戸の後期の浮世絵師。歌川派のみならず浮世絵師を代表する風景画家(名所絵師)。安藤氏。俗称徳兵衛。定火消同心の子として八代洲河岸に生まれる。歌川豊広門人。一遊斎、一幽斎、一立斎、立斎、歌重の号を用いる。1820年代は、役者絵、武者絵、美人風俗画など種々の分野に手に染めるが大成せず1820年代末から名所絵のシリーズを発表し始める。葛飾北斎の「富嶽三十六景」とほぼ同じ頃1831年(天保2)頃に発表した「東都名所」は、俯瞰的構図にときおり極端に拡大した近景物を配し、鮮やかな色のコントラストで斬新な情趣をねらって成功した。1832年、幕府の八朔御馬進献に随行して上京。その折のスケッチを基に制作した「東海道五十三次」55枚の叙情的風景画が爆発的な売れ行きを示し、自己の洋式を確立するとともに、名所絵師の名を不動のものにした。その後は没年まで名所絵の第一人者として活躍し、日本の季節風土とそこに住む人々の織り成す詩情を細やかに表現した。とくに、雨、風、雪、月の景に優れ、「旅の絵師」の呼称も与えらえている。代表作はほかに、「近江八景」「京都名所」「江戸近郊八景」「木曾街道六十九次」などがある。晩年の1850年代には「名所江戸百景」「六十余州名所図会」など縦大判の風景画にも意欲を見せた。肉筆画も晩年に多い。広重は名所絵のほか、四条派風の花鳥魚貝版画も多数制作、詩画一体の世界を作り出し、この方面の独自の境地を開いた。名所絵と同種の趣をもつ物語絵や、清澄感のある美人画も見るべきものがある。



歴史の回想「江戸の絵師・写楽」電子書籍紹介。アマゾン・楽天・グーグル・角川電子書籍・BOOK★WALKER電」

2020-06-16 05:56:08 | 投稿済C

「江戸の絵師・写楽」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
東洲斎写楽(生没不詳)江戸後期の浮世絵師。寛政6年(1794年)5月から翌年正月まで、当時上演された歌舞伎狂言に取材して多くの役者絵版画(一部相撲絵)を集中的に制作、その後は浮世絵界との関係を絶って、消息をほとんど伝わっていない。「謎の浮世絵師」として関心をひかれ、同世代の有名・無名の人物に仮託する想像説が多く提出されてきたが、いずれにせよ根拠が乏しく仮設の域を出ていない。在世期に近い信ずべき文献資料としては、大田南畝原撰の「浮世絵類考」にみえる「写楽これまた歌舞伎役者の似顔絵をうつぶせが、あまりにも真を画館としてあらぬ様にかきしかば、長く世に行われず、一両年にして止む」の記事や八丁掘地蔵橋居城と文政元年(1818)以前に死没の事実を伝える「江戸方角分」報告例などが、わずかに上げらえるに過ぎない。幕末の斎藤月岑は「俗称斉藤十郎兵衛居江戸八丁堀に住す、阿波候の能役者也と考察(増補浮世絵類考)しており、注目されるが、未だ確認されていない。版画作品総計142枚(143~145枚と学者により数が異なる)が現存しており、いずれも蔦屋重三郎を版元としている。それらの作画期は取材狂言の上演時期に応じて、次のような4期に区分される。「第一期」寛政6年(1794)5月計28枚、すべて大判の黒雲母摺による役者大首(半身像)28枚落款は東洲斎写楽」「第二期」寛政6年7月~8月、景8枚、
8枚の大判雲母摺と30枚の細判はすべて全身像の役者絵。落款は「東洲斎写楽」「第三期」寛政6年11月~閏11月、計64枚、細伴全身像役者絵47枚、間伴役細伴役者追善絵2枚、間伴相撲絵1枚、大判相撲絵3枚(三枚続)落款は原則として「写楽画となる。「第四期」寛政7年(1795)計12枚細伴全身役者絵10枚、間判相撲絵2枚、落款は「写楽画」これらのうち、もっとも優れたもの内容もつは第一期の大首絵連作であり、妥協のない似顔表現と大胆なデフォルメ、戯画的な誇張の奥の深刻な心理描写など、前例のない個性的な役者絵となっている。以後世の不評判に逆らって出版点数を増大させるが、作品は質急速に衰えていった。写楽の役者顔絵の形式的な模倣は歌舞伎狂言作者2代目中村重助の画名によってなされているが、むしろ本質的な理解は先輩格の勝川春英や歌川豊国、さらに美人画家北川歌麿などによって深められた。


「江戸の群像・柳生宗矩」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」

2020-06-15 06:42:51 | 投稿済C

「江戸の群像・柳生宗矩」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
柳生宗矩(1571年~1646年)江戸初期の幕臣、剣術者。初代柳生藩主。柳生宗厳の五男。通称又右衛門。従5位下但馬の守、1594年(文禄3)徳川家康に拝謁。関ヶ原の戦に際し、大和地方の豪族を東軍に引き入れる工作に成功し、旧領2000石を安堵された。大坂夏の陣にも参戦し、夏の陣後坂崎直盛説得し手を自刃させたのは有名な話である。1632年(寛永9)には大目付に昇進し、石高もしだいに加増されて1636年には大名に列せられ、最終的には宗矩は、秀忠・家光の師範として信任厚く、また有力大名にも多く交わり剣技を教授した。以降、将軍師範地位は江戸柳生が世襲することになる。純粋に武術家というより政治家の側面が強いこともあって、当時からとやかく風評があったようで、父の後を受けて柳生流の地位を高めたことは確かである。技術ばかりでなく理論上の研鑽に努め「兵法家伝書」などの著書がる。理論上の深化には沢庵宗彭との交流があずかって大きい。「不動智神妙録」は沢庵が宗矩に与えたとされる。


「江戸の群像・伊藤若冲」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」

2020-06-13 06:12:13 | 投稿済C

「江戸の群像・伊藤若冲」「高僧名僧伝・天海」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
伊藤若冲(1716年~1800年)江戸中期の画家。当期の文化を代表する一人。名は汝鈞、字は景和。米斗庵、米斗翁とも号す。京都錦小路の青物問屋の長男に生まれたあg、絵画と禅に傾倒し、「若冲」の居士号を得たのち、40歳で家業を弟に譲り画業に専念した。最初に学んだ狩野派の画法を不足とし、京都の寺に伝わる宋元・明の中国画を模写した果てに実物写生を絶対視するに至り、自宅の庭に飼っていた鶏から始めて多数の動物・植物を写生したと伝わる。その背景には時代の実証主義的精神の高まりがあるが、実際の作品には当時長崎経由で流行した沈南蘋の花鳥画や、黄檗宗関係の水墨画などの影響も大きく、むしろ細密描写とデフォルメとの共存による幻想的・表現的な作風が高く評価される。40代の約10年間を費やして完成し、「釈迦三尊像」3幅とともに相国寺に寄進した「動植物彩絵」30幅が、その特色をよく示す濃彩花鳥画の代表作であり、天明の大火後に避難した大坂で制作した。仙人掌郡鶏図襖、西福寺蔵重文も金箔で覆いつくした画面に形態を誇張した濃彩の鶏とサボテンを構成する傑作である。相国寺に寿像、石峰寺に墓がある。



歴史の回想「高僧名僧伝・天海」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」

2020-06-11 17:29:46 | 投稿済C


「高僧名僧伝・天海」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
天海(?~1643年)江戸初期の天台僧。慈眼大師。東叡山寛永寺の開山。3代将軍徳川家光の熱狂的帰依を受けて、家康の神格化に大きな役割を果たした。陸奥国高田出身で、比叡山天台を学んだ後、園城寺や奈良で経論を学んだといわれる。さらに足利学校で儒学を学んだといわれる。1591年(天正19)び江戸崎不動院の住持となり、1599年(慶長4)武蔵国川越の仙波喜多院にうつる。この頃から家康の知遇を受けて、1607年、山門執行探題にとなり比叡山を掌握。1616年(元和2)家康の死に際しその遺言を受けたとして、家康を東照権現とし山王一実神道によりまつるべくことを主張し、大明神として吉田神道で祀るべきとする以心崇伝や梵俊と対立。家康の日光改装以降は輪王寺を建てて日光を管轄し、家康の祭祀を主宰する位置についた。さらに1625年(寛永2)には寛永寺を建てた。その後、寛永寺は1647年(正保4)寛永寺を親王門跡寺とし、天台宗を管轄するに至る。1637年(寛永14)木活字版の天界版大蔵経を刊行。1639年、家光の命令で「東照宮縁起」を起草(上皇・天皇・諸公家が執筆)1643年、寛永寺で没、108歳と言われているが信頼性は少ない。


「歴史の回想・滝沢馬琴」電子書籍紹介。アマゾン・グーグル・楽天・楽天・角川電子書籍・BOOK★WALKER電」

2020-06-11 06:19:51 | 投稿済C

「歴史の回想・滝沢馬琴」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
曲亭馬琴(滝沢馬琴)(きょくていばきん)(1767年~1848年)江戸時代の読本・合巻作者。本姓滝沢氏。名は興邦。俗称は左七郎、左吉、清右衛門。号は著作堂主人、蓑笠魚隠、飯台陳人、玄同など。父滝沢興義は松平鍋五郎源信成の用人、その五男として生まれ江戸深川の松平邸内で生まれる。9歳の時父が死に、長兄が他家に仕え、次兄も他家に仕え去り、場君が滝沢家を継いで主君の孫八十五郎に仕えた。14歳の時主家を出走し、儒学・医学に身が入らぬまま俳諧、戯策ににふける。1791年(寛政3)京伝門人大栄山人の名で処女作の黄表紙「尽用而二分狂言」を刊行。翌年地本問屋蔦屋重三郎に認められ幾つかの黄表紙出版。この年会田氏海老屋市郎兵衛の娘百を娶り清右衛門を名乗るが、やがて商売をやめ、滝沢姓に戻る。1804年(文化元)に本格的読本の初作「月氷奇縁」出版1807年、「南総里見八犬伝」の刊行が始まり、競合関係にあったかつての師山東京伝を凌駕して読本の第一人者の地位を不動のものにした。寛政の改革によって次々と戯作を断念していった同時代の作者に対して、馬琴は勧善微悪と理想主義を貫くことによって身をかわして読本分野を大成した。子息鎮五郎興継は医術を修めて宗伯と名乗り妻路との間に一男二女を設けた。滝沢家復興の期待を一身に負った宗伯は1835年(天保6)38歳で死去。1841年には妻百没。以降寡婦路は盲目となった馬琴を助けて「八犬伝」を代筆して完成へ導いた。滝沢家の記録は1822年(文政5)~1842年(天保6)の「吾賀仏之記」1835年(天保13)の「後の為の記」など多数の戯作を残した。


  



歴史の回想「高僧名僧伝・忍性」電子書籍紹介。アマゾン・グーグル・楽天・角川電子書籍・BOOK★WALKER電」「

2020-06-09 16:29:22 | 投稿済C

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「高僧名僧伝・忍性」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」「
忍性(1217年~1303年)鎌倉時代の律宗の僧。鎌倉の極楽寺開山長老。字は良観房。大和国の人。幼少より母の影響で文殊菩薩信仰に触れ、母の死を契機として出家を決意した。1239年(延応元)23歳で西大寺叡尊と出会い、戒を受けてその弟子になった。彼は母の解脱のため、大和国の非人宿に文殊菩薩の図像安置することに念願としており、忍性の文殊信仰が取り入られ、非人を文殊菩薩の化身とみなす西大寺流律宗による非人救済運動だ展開されていくこととなった。忍性も癩病(ハンセン病)のために足腰の立たない奈良坂の非人を、毎日奈良の市まで背負って送り迎えをし、乞食で生計が成り立つようになど、非人救済に奔走した。1252年(慶長4)36歳で律宗の東国布教を目指して関東に下向し、常陸三村寺に住した。1262年(弘長2)師叡尊の鎌倉下向に際しての活動で忍性も鎌倉幕府の北条氏の信頼を得、多宝寺を経て、1267年(文永4)生涯の活動の拠点となる極楽寺に住した。以降、鎌倉に有って非人救済・左道・殺生禁断などの慈善事業に努めた。彼が鎌倉に建立した療病施設・桑ケ谷療病では20年間に癒ゆる者4万6千八〇〇人、死する者一万四五〇人で五分の四が治癒したといわれている。彼の慈善事業は鎌倉和賀江島の律の修築のために升米を取り、桑ヶ谷療病所の費用として土佐国大忍荘を北条時宗から寄進されるなど、鎌倉幕府の交通政策や慈善事業政策を代行する体制補完的な役割も果たした。その勧進活動における事業家的能力を買われて、東大寺大勧進、四天王寺別当、摂津多田院別当などを歴任し、多くの寺社の勧進・復興を成し遂げた。彼の死後、その遺徳をしのんで描かれた追慕像とされる絹本着色像が残されている。



「高僧名僧伝・一遍」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」

2020-06-08 08:59:00 | 投稿済C

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一遍(1239年~1289年)鎌倉中期の念仏聖。時宗の宗祖。伊予国の豪族河野通信の孫、通広の子、幼名は松寿丸、10歳で出家して髄録と名乗り、1251年(建長3)大宰府に赴き浄土宗西山派の聖達や華台に師事して名を智真と改めた。1263年(弘長3)父の死によって帰国して還俗したが、数年後に再出発して聖戒(一遍の弟あるいは甥)とともに聖達を訪れた。1271年(文永8)信濃の善光寺に参籠して「二河白道図」写し、それを伊予国窪寺の草庵に持ち帰り念仏を専心した。やがて十劫の昔に阿弥陀仏が悟りを開いたことと、今の衆生が一念で往生できることが
同時一体であることを感得し十一不二頌を作成。1273年に伊予の岩屋寺に参籠し、翌年、超一・超二・念仏房の三人と遊行の旅に出る。四天王寺・高野山に参籠して、念仏札を配って歩いたが、札の受け取りを拒否されて困惑する。しかし熊野本宮で、衆生の往生はすでに名号によって定まっているので信不信、浄不浄にかかわらず札を配れ、との熊野権現の啓示を受けて信仰を確立。名を一遍と改めて超一らと別れて、「南無阿弥陀仏」【決定往生六十万人】ときされた札を配り賦算ながら、九州から奥州までほぼ全国を遊行して回った。1279年(弘安2)には信濃国小田切の武士の館、踊念仏を始めている。一遍は寺や道場を建立することなく遊行を続け始めた。一遍に付き添う時衆のための、1287年に生活必需品を12種に限定。宿所ではそれらを修める十二光箱を僧尼の間に置いて男女問題の発生を抑止しようとした。1280年(正応2)所持していた聖教を焼いて播磨国兵庫の観音堂で没した。伊勢や熊野などの神社信仰と親和的な点思想的の特徴がある。




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「歴史の回想・柳生十兵衛」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」

2020-06-07 13:32:52 | 投稿済C

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柳生十兵衛(柳生三厳)(やぎゅうみちよし)1607年~1650年)江戸初期の幕臣、剣術者。柳生宗矩の長男。幼名七郎、通称十兵衛。1616年(元和2)徳川家康に拝謁。1619年から家光に仕え籠があつかったが、1626年(寛永3)には勘気を受けて、柳生に帰って柳生流武芸の研鑽に励んだ。1638年までには許され、1646年(正保3)父の遺領の内8300石を継いだが、44歳で急死した。若いころからかなりの暴れ者であったというが、剣術には早くから才を示し理論上の研究も深めて「月之抄」などの述作がある。隠密として諸国を回ったとか、集眼の剣豪であったなど、伝説は多いが信憑性は薄い。


「高僧名僧伝・道元」アマゾン・グーグル。楽天・電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電

2020-06-05 06:02:40 | 投稿済C


「高僧名僧伝・道元」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電
「道元(1200年~1253年)鎌倉時代の僧。別名希名玄。日本曹洞宗の始祖。永平寺開山。父は内大臣久我通親。母は藤原基房の女。京都の木幡に生まれる。3歳で父を失い、8歳で母の死に目に会う。13歳の時、基房が養子を望んだが出家を決意して比叡山の麓の母方の良観の室に投じ、横川の首楞厳院の般若谷先光房で出家生活に入った。慾1213年(建保元)天台座主光円について得度、授戒したが、天台教学に疑問を持ち、園城寺の公胤を尋ねて入宋求法を進めらえて1217年の秋、栄西開創の建仁寺に入り、明全に師事した。承久の乱(1221年)を契機に明全は東大寺に受具の戒牒を制作し、道元は明全から師資証契の印可を受けて、入宋準備を始め、1223年(貞応2)明全とともに入宋した。明州慶元府に着き、船中で阿育王山の典座にあって禅に開眼。太白山天童寺景徳禅寺に赴き、臨済禅の無際了派の下で学び只管打坐を会得した。仏祖の命脈伝授を証明する嗣書の閲覧を許され、正師を求めて怪山万寿寺、天台山万年山寺などを巡錫したが得られず、天童山如浄を正師として師事した。如浄の下で厳しい修行の末、1225年に悟りを開いた。1227年(安貞元)秋、如浄の印可を得て帰国。建仁寺に身を寄せ「普勧坐禅儀」撰述して坐禅の本義宣言した。1229年(寛喜元)道元を訪れた達磨宗の孤雲懐奘に入門を約したが、延暦寺の圧迫、如浄の訃報などにより、1231年の春、山城深草の安養院に閑居し「正法眼蔵」「弁道話」を著し、宗旨の綱領を説示した。1233年(天福元)の春、正覚禅尼、弘誓院らの外護者の招請もあって、深草の地に観音導利興聖宝林寺を開創し、1236年(嘉禎2)僧堂を開き衆を集めて説法した。多くの信徒を集め説法や、六波羅蜜寺などで示衆、朝廷に「護国正法義」を呈するなどして積極的な教化活動を行った。そのため再び延暦寺に迫害され、洛外追放になり興聖寺は破却された。道元は京都での教化活動を断念し、如浄の遺訓により、京都を離れ在俗信徒の武士波多野義重越前の白山平泉寺を教化活動を行い、大仏寺が建立された。後に同寺を永平寺に改めて弟子の育成にあたった。所が北条氏の余勢によって鎌倉に下向、翌年病に帰洛し京都西洞院の弟子の邸で没した。






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2020-06-04 06:07:33 | 投稿済C

「高僧名僧伝・以心崇伝」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子」
以心崇伝(1569年~1633年)江戸初期の臨済宗の僧侶。円照本光国師。京都南禅寺の塔頭金地院に住したので金地院崇伝ともいう。室町幕府四職家の一色氏の出身。室町幕府滅亡後に南禅寺の玄圃霊三に師事、1605年(慶長10)に建長寺住持、ついに同年の内南禅寺住持となる。鹿苑僧録の西笑承兌の推挙で1608年駿府で徳川家康に面謁し、以降外交文書の起草に従事。1610年以降は板倉勝重らとともに諸寺院の取り締まりになど宗教関係の行政にあたった。また家康の指示で内外の古典を収集・調査し、伴天連追放令や禁中並公家諸法度、武家諸法度をきそうした。家康の死後は江戸に移り、1619年(元和5)禅宗寺院の住職の任命を管轄する僧録に任命された。1626年(寛永3)国師号を受ける。翌年紫衣事件では沢庵宗信彭らの厳罰を幕府に進言した。幕政における崇伝の役割は、五山僧として学殖と教養に基ずき将軍の諮問に答え、外交文章や法度などの文章にあたるとこにあり、政策決定に参加するものではなかった。僧侶でありながら幕政を左右したという意味では「黒衣の最相」という後世の評価は過大評価である。職業上の記録「異国日記」「本光国師日記」「出世大望之衆目子留書」は幕府の重要資料である。





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2020-06-03 05:50:20 | 投稿済C

「高僧名僧伝・聖宝」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子
聖宝(832年~909年)醍醐寺開祖で当山派修験の祖と仰がれる。平安初期の真言僧。理源大師。天智天皇6世の孫で俗名垣蔭王。847年(承和14年)16歳で東大寺に入り、空海の弟子真雅を師として出家、三論・法相・華厳の各宗を学んだ。869年(貞観11)興福寺維摩会の堅義を務めた。874年醍醐寺の密教修業の道場として開き、880年(元慶4)高野山で真然に密教の大法を授かり、実践面の山林修行により験力を得、加持祈祷により庶民を救うことに尽力。大峰修業路を復旧し、中世後期から修験道の中興と仰がれれる。東大寺東南院を建立、貞観寺座主・東寺長者等を歴任。


「高僧名僧伝・法然」電子書籍紹介。アマゾン・グーグル・楽天・角川電子書籍・BOOK★WALKER電子」

2020-06-02 06:08:40 | 投稿済C


「高僧名僧伝・法然」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子」
法然(1133年~1212年)浄土宗開祖。諱は源空、諡号は円光大師。父は美作国久米郡押領使の漆間時国、母は秦氏。9歳の時、夜討ちで父を亡くし、同国菩提寺の観覚のもとに預けられた。15歳で比叡山に登って持法房源光、ついで功徳院皇円に師事して天台三大部を学ぶ。1150年(久安6)18歳で遁世して、西塔黒谷別所の慈眼房叡空の室に入り、法然房源空と称した。叡空は融通念仏の良忍の弟子で、円頓菩薩戒を伝持した人物であり、法然は浄土教と円頓の両者を学び受けた。法然はこののち生涯持戒を貫き、授戒戎師としても活躍している。顕密諸宗を学んで南都に遊学したのち、1175年(安元元)43歳で善導の「観無量寿経流」により改心した。凡夫も称名念仏で往生できると確信し、浄土宗を開いて、東山大谷の吉水に移った。1186年(文治2)延暦寺の顕真の発議で大原の勝林寺で浄土教を論じ、この大原問答で一躍注目を集めるようになり、1189年からは九条兼実邸に出入りするようになる。1190年(建久元)には重源の要請で、東大寺で浄土三部経を講説し、称名念仏が弥陀に選択された唯一の往生行である。との選択本願念仏説を初めて披露した。1198年には三昧初得や夢中での善導対面などの神秘的体験によって思想的確信を深め、九条兼実の要請もあって「選択本願念仏集」を撰述本願念仏説を体系化するとともに、これを唯一の真の浄土教と主張した。しかし当時、最も低劣な行いと考えらえていた称名念仏を唯一絶対的価値を持つ往生行であると位置づけ、それ以外の一切の善行を往生行であるとしては無価値であるとした法然の主張は、当時の価値体系を根底から覆すものである。また「年貢を納めれば極楽往生できる」「領主に背けば地獄に堕ちる」という領主の民衆支配の論理を無意味化するものでもあった。そのために法然児は、治承・寿永の内乱後の社会的激流の渦の中に巻き込まれていくことになる。旧仏教は、諸行往生を否定する専修念仏を偏執の教えと指弾し、善行を妨げ念仏義を誤る悪魔の使いと非難した。1204年(元久元)には延暦寺が、翌年には興福寺が顕密八宗を代表して専修念仏禁止を上奏した。法然は七箇条制誡や送山門起請文を記して、弟子に旧仏教批判の自粛を求めて弾圧の回避を図ろうとした。朝廷は当初念仏と専修念仏の違いを理解できなかったこともあって、法然自ら自粛を求めるだけで処罰を行わなかった。1207年(建永2)に後鳥羽院の女房の無断出家が発覚して、院が激怒した。2月に専修念仏禁止令が発布され、弟子4名が死刑、法然も土佐に流罪となった。法然は同年12月に最勝四天王院供養の恩赦でで赦免され、摂津勝尾寺に寄萬。1211年(建暦元)11月帰洛を許され、翌年1月25日、大谷の住坊で「一枚起請文」を残して没した。