「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

歴史の回想「最後の将軍・徳川慶喜」電子書籍紹介。アマゾン・グーグル・楽天ブックス電子書籍・角川・BOOK★WALKER、電子書籍紹介」 徳川慶喜(とくがわよしのぶ)【1837~1913】

2020-07-30 12:43:20 | 投稿済C

「最後の将軍・徳川慶喜」アマゾン電子書籍・グーグル・プレイ電子書籍・楽天ブックス電子書籍・角川・BOOK★WALKER、電子書籍紹介」
徳川慶喜(とくがわよしのぶ)【1837~1913】
江戸幕府最後の将軍(第15代)の将軍、1866年(慶応2)~1867年在職。明治末期の公爵。水戸藩主徳川斉昭の七郎麿。生母は斉昭正室の有栖川宮吉子。1847年(弘化4)一橋家を相続して慶喜と改名。13代将軍家定の後継者候補だったが、紀州藩主の慶福(14代将軍家茂)に敗れ、安政の大獄で隠居謹慎処分となった。1862年(文久2)島津久光が率兵上京し、幕政改革を命じる勅使を擁して東下してくるという情勢下で一橋家を再相続し将軍後見人に任じられた。同年8月の参勤交代廃止などの幕政改革は慶喜後見職、松平慶永政事総裁職をトップとする新体制によって強行された。1863年の将軍家茂の上京に際しては旧暦前年末から先行入京し、将軍に政務を委任するとの言質を取り付けることに努めた。天皇と公卿の強烈な要求を受けて攘夷実行を約束し、帰府のうえ不可能を理由に辞表を提出するなどの駆け引きに苦心が多かった。1864年(元治元)には京都で島津久光や山内豊信らとともに朝議にあずかっていた参予会議、幕府の希望でやむなく内側から崩壊させた。同年後見職を免ぜられ禁裏守衛総督に就任して京都に常駐、蛤門の変では禁裏防衛の総指揮をとった。1865年(慶応元)から翌年にかけて長州親征を呼号して家茂が大坂城に滞在したときには、京都、大坂を往復して幕府と朝廷の間を調停することが多かった。1866年家茂が大坂城で病没すると、はじめは徳川家相続のみ、ついに1867年1月10日将軍宣下の2段階を経て戴5代将軍となったが、襲職後も京都にとどまり条約の締結諸国公使らの謁見は大坂城で行った。土佐藩の建白を受け入れて同年11月9日大政奉還を上表、しかし将軍職の辞表は諸侯会議まで待つようにと却下された。1868年1月3日(慶応3年12月9日)諸侯会議抜きで王政復興の大号令が発せられ将軍職廃止が一方的に宣言されると、大坂城に集結した旧幕府系の軍隊はこれは一部の大名の陰謀だと断じ、同月末討薩表を掲げて京都へ攻め上がったが、鳥羽伏見の戦で敗北し、慶喜は城と軍隊を放棄して江戸に戻り謹慎、徳川宗家を田安亀之助に譲って隠居した。謹慎解除後も長く静岡に閑居、狩猟や写真を趣味として1897年(明治30)東京に居を移し、1902年には家達の徳川公爵家とは別に公爵を親授され徳川慶喜公爵家の当主となった。1908年慶喜公爵家を七男慶久に譲って隠居、なお3年生きて「大正」に達した。


「江戸の名工・尾形光琳」アマゾン・グーグル・角川・楽天・電子書籍紹介」

2020-07-11 05:29:31 | 投稿済C

「江戸の名工・尾形光琳」アマゾン電子書籍紹介」
尾形光琳(1658年~1716)江戸中期の画家。後半生の一時期小形と改姓。名は惟富、惟亮、伊亮、50歳で方祝。通称は市丞。35歳の頃から光琳を称し、積翠、道崇等を号す。東福門院の御用を務める裕福な呉服商、雁金屋の尾形宗謙の次男として京都に生まれる。弟は陶工の尾形乾山。曾祖父道拍の妻は本阿弥光悦の姉で、父宗謙も光悦流の書をよくした。そのためか光琳は漆芸の分野で光悦蒔絵を倣った。「住之江蒔絵硯箱」(重文)などを遺し、そのほか「八橋蒔絵硯箱」(国宝)などの優品がある。また能をたしなみ、お伽衆的な存在として公家の二条家に出入りした。光琳が画家としてたったのは、父から譲られた莫大な遺産を蕩尽した40歳頃であったとみられ、1701年(元禄14)に法橋に叙せられた。光琳伝記が比較て明らかなのは、嫡子の養子先に伝わった「小西家文書」の古文書によるところが大きい。「尾形流略印譜」などに光琳が初めて本格的に絵を学んだのが狩野派の山本素軒だと伝えられているが、同文書に含まれる狩野派の紛本により確認される。「鳥獣写生図」も模写で、狩野探幽の原本によることが近年判明した。



「四天王・榊原康政」アマゾン・グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介」。

2020-07-10 05:26:01 | 投稿済C

「四天王・榊原康政」アマゾン電子書籍紹介」。
榊原康政(1548~1606)安土桃山時代の武将。徳川家康四天王の一人。小平太。式部大輔。祖父の代以来松平氏に仕え、康政も1560年(永禄3)徳川家康に初めて拝謁して仕えた。1563年三河一向一揆との上野も戦が初陣、のち家康から一字を与えらえて康政と名乗った。よく1564年三河国吉田城攻めで本多忠勝と旗本の先手となって、以後多くの戦で旗本の先手を務めた。1570年(元亀元)姉川の合戦では本多広孝と旗本勢を率いて朝倉軍の側面を攻撃、敗走させた。三方ヶ原戦、長篠の戦に功を上げ、1581年(天正9)遠江国高天神城攻略にも活躍した。小牧長久手の戦でも奮戦し、1587年従5位下隙部大輔に叙任された。1590年家康の関東転封により、上野国舘林10万石を与えらえた。関ヶ原の戦の際は家康の三男秀忠を補佐し中山道を進み、主戦の決戦には間に合わなかった。戦後は、本多正信ら家康側近の権勢の前に退隠したという。
 



歴史の回想「老中・本多正信」アマゾン・グーグル。楽天・角川・電子書籍紹介」

2020-07-09 05:49:17 | 投稿済C

「老中・本多正信」アマゾン電子書籍紹介」
本多正信(1538~1616)江戸幕府初期の年寄(老中)。通称弥八郎。佐渡守。三河国に生まれる。幼くして徳川家康に仕える。1563年(永禄6)三河一向一揆に加わり、家康に背く。後に加賀国に住むが帰参し、1570年(元亀元)の姉川の戦に従軍。家康の側近にとなり、1586年(天正14)従5位下佐渡守に叙任。1590年の家康の関東入国に際して1万石を領し。後に加増され2万2千石関ヶ原の戦に際しては中山道を進んだ徳川秀忠に従う。秀忠の将軍職後は大久保忠隣とともに秀忠付き年寄(老中)となる。家康の下にいた子の本多正純とともに幕政に深くかかわった。秀忠に従って大坂の冬の陣・夏の陣に参戦。家康の死後まもなく江戸で死去。「本佐録」は正信の著作東われているが、未詳。



「江戸の絵師・菱川師宣」アマゾン・グーグル。楽天・角川・電子書籍紹介」

2020-07-08 05:59:55 | 投稿済C


「江戸の絵師・菱川師宣」アマゾン電子書籍紹介」
「菱川師宣」(?~1694)江戸前期の浮世絵師。俗称を吉右衛門、晩年の号は友竹。安房国平郡郡安田村の縫箔師の子で江戸に出て狩野派や土佐派などの画風を自習自得し、寛永期(1624~1644)以来の近世初期風俗画の主題表現や構成にも学び、独自の美人画風を築いた。1671年(寛文11)刊の仮名草子「私可多拙」などの版本挿絵の人物表現の魅力を高めて、1枚摺挿絵の浮世絵版画を独立させ、文字と折浮世絵の元祖となる。大和絵師を自称した師宣は、「菱川や吾妻俤」と俳諧に詠まれる圧倒的人気を得、肉筆画の分野でも、優れた門人たちを育て質の高い作品を工房的に制作提供した。








歴史の回想「四天王井伊直政」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介」。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」 井伊直政(いいなおまさ)

2020-07-03 06:02:45 | 投稿済C

「四天王井伊直政」アマゾン電子書籍紹介」。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
井伊直政(いいなおまさ)
安土桃山時代・戦国時代~江戸時代(永禄4年2月19日(1561年3月4日)~慶長7年2月1日(1602年3月24日))に生きた戦国武将。安土桃山時代に徳川家康へ仕えた武将。徳川四天王の一人で、武田家から赤備えを引き継いだ。佐和山藩(後に彦根藩へ改組)初代藩主。子孫の方が知名度が高い人物。徳川家康に仕えた徳川四天王や徳川三傑に数えられる名将の一人。井伊家は江戸時代には譜代扱いになるが、ほかの四天王三人の家がより古い時期から安祥松平家(徳川家の先祖)に仕えていたのに対して、そもそも三河武士ではなく遠江出身で、元は今川家の家臣だった。また、先祖は南北朝時代には南朝側に付いていた古い家系である。
今川家家臣・井伊直親の長男として遠江国(静岡県西部)で生まれた。幼名は「虎松」。しかし、家臣といっても外様である井伊家は今川家との関係があまり良くなく、父は今川氏真から謀反の疑いをかけられ処刑された。断絶の危機にあった井伊家は信親の従兄妹(虎松のはとこ)の井伊直虎が女当主として井伊家を存続させ、虎松を養子に迎え育てた。その後、母が徳川家康の家臣・松下源太郎に再嫁したため虎松は所領と家督相続権を失ってしまう。
天正3年(1575年)、徳川家康に見出されて小姓として仕え、「万千代」と名を改め、井伊姓を名乗った。天正10年(1582年)3月、武田攻めの頃に22歳で元服して、「直政」と名乗った。天正10年(1582年)6月、本能寺の変が起こった際、堺から家康とともに伊賀越えに従い、無事に三河へ帰還した。北条家との外交交渉で手腕を発揮し、武田家から受け継いだ直政直属の精鋭部隊「赤備え」の大将となった。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは赤備えを率いて戦功を挙げ、勇猛な姿から天下にその名を馳せ、「井伊の赤鬼」と称され、豊臣秀吉にも評価された。天正18年(1590年)の小田原攻めでも活躍し、徳川家の江戸転封では上野(群馬)国高崎に12万石を与えられ、城を構えた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方として島津軍と戦い、島津豊久を追撃して討ち取った。しかし、戦いの最中に銃弾を受けた。戦後には敗将の毛利輝元の講和や長宗我部盛親の謝罪の取次ぎをし、真田信之の懇意を受け入れて、進退もかけて真田昌幸と信繁の助命に尽力した。のみならず、自らを銃撃した島津家と、徳川家との仲裁役を山口直友と共に担った。江戸幕府が開かれ、石田三成の居城・佐和山城と三成の所領・近江(滋賀)を与えられ19万石を領し、佐和山藩、次に彦根藩の初代藩主となった。非常時に皇室を守るため勤皇の家柄(皇室は北朝の系統で、南北朝時代は敵対していたのだが野暮な事は言わない)の井伊家を京に近い彦根に領地を配されたとされる。
慶長7年(1602年)2月1日に過労と関が原での古傷が原因で亡く


歴史の回想「漂泊の西行」電子書籍紹介」。アマゾン・グーグル・楽天・角川電子書籍・BOOK★WALKER電

2020-07-02 05:55:18 | 投稿済C

「漂泊の西行」アマゾン電子書籍紹介」。角川電子書籍・BOOK★WALKER電
西行(1118~1190)平安後期から鎌倉初期の歌人。父は藤原氏北家藤成流、左衛門尉佐藤康清。母は監物源清経の女。鳥羽院の北面武士を務めていたが、1140年(保延6)23歳で出家。法名円位。出家後しばらく東山や嵯峨野辺りにとどまっていたが、初度の陸奥への旅にを終えたのちは高野山に居を構えた。約20年の高野山の修行には中国・四国地方にも赴いている。1180年(治承4)頃、高野山から伊勢へ移住。その後1186年(文治2)東大寺復興のために砂金勧進を目的として再度陸奥に旅した。無地旅を終えたのち嵯峨野に庵に居を構える。伊勢神宮に奉納するために『御裳濯河歌合』『宮河歌合』の自歌合を編み、藤原俊成・定家に加判を依頼。1190年(建久元)2月16日「願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」という生前の願い通り河内国弘川寺で没した。西行の生涯とその詠歌は当時の人々に深い感銘を与えた。その後成立した『新古今和歌集』には最大の94首が選ばれた。




歴史の回想「高僧名僧伝・蓮如」アマゾン・グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介」。

2020-07-01 13:21:33 | 投稿済C

「高僧名僧伝・蓮如」アマゾン電子書籍紹介」。
蓮如(1415年~1499年)室町から戦国時代の浄土真宗の僧侶。本願寺第8世として布教を行い、教団の発展に寄与した。諱は兼寿。父は第7世存如。本願寺の本所である延暦寺青蓮院で17歳の時得度、20歳の頃から父存如の活動を助けた。存如「正信偈」「山帖和議」を勤行の中心とするなど作法を整備し、近江門徒へ教化を行い、室町幕府の有力者日野氏や将軍側近の伊勢下総守家と、姻戚関係を結び教団の地位向上を図った。その方針を連如も引き継いだ。その正妻如円尼は実子応玄を後継者にしょうとしたが、一族、家臣、門徒衆の衆議に支えられて蓮如が住持となった。蓮如の精力的活動によって近江の教線は拡大し、幕府奉公衆にも帰依するものが現れた。こうした発展は延暦寺を刺激し、1465年(寛政6)延暦寺衆徒によって京都東山の本願寺は破却され、近江門徒も多く弾圧を受けた。1467年(応仁元)延暦寺西塔院末寺として末寺銭を上納することで和解が成立した。1471年(文明3)越前国吉崎に坊舎吉崎御坊を構え、この頃から頻繁に御文を門徒たちに与えるようになる。また「正信偈」「三帖和議」を開板した。これらの活動によって教線は飛躍的に発展し、加賀で盛んだった高田派との対立が激化、高田派が守護富樫幸千代と結んだために、本願寺派幸千代と対立していた富樫政親を擁立し、1474年幸千代を追放した。翌年、蓮如は加賀国内の抗争を避けて北陸に去り、京都山科に本願寺の建設に着手、完成後はそこに住んだ。一家衆の制を設け教団は基礎を築いだ。著作「御文」真宗教義の書として広く親しまれている。


歴史の回想「猿楽の謎」アマゾン・グーグル・角川・楽天。電子書籍紹介」。

2020-06-30 06:37:57 | 投稿済C

「猿楽の謎」アマゾン電子書籍紹介」。
猿楽は奈良時代には中国より伝来した散楽から発展した芸能。曲芸や奇術を主体とする散楽は、平安時代になると「猿楽」と表記され「さるがく」「さるごう」と呼ばれるようになった。これは芸能が滑稽階位なものへと変化したことと関係していると考えられる。藤原明衡著「新猿楽記」は当時の猿で楽の様子を詳しく伝えており、それによると猿楽は秀句、物真似、寸劇などの要素を持っていた。鎌倉時代になると、猿楽は翁猿楽を中心芸とするようになる。これは翁、三番叟、千載、延命冠者、父尉が登場して舞う祝祷性の強い芸で、寺院芸能の呪師を継承は・発展させたと考えられていると、思われる。呪師は修二会で法呪師と呼ばれる僧が行った鎮魔・徐魔的所作が芸能化したものである。翁猿楽は寺社と結びつきを強め、翁猿楽を演じるための座が各地に誕生した。これらの座は本拠地によって、大和猿楽、近江猿楽、伊勢猿楽、宇治猿楽、越前猿楽、丹波猿楽などと呼ばれた。平安時代以来の娯楽芸としての猿楽も翁猿楽に従属する形で演じられていたが、鎌倉後期に劇形態の芸である翁猿楽が生み出され、その成長とともに翁猿楽の立場が逆転し、座に置いても猿楽を演じる役者の地位が向上した。田楽も鎌倉後期から田楽能を演じており、南北朝時代には京都ではしばしば勧進田楽が催されて将軍足利尊氏も見物するなど猿楽より優位にあった。田楽と肩を並べるまでに猿楽の地位を高めたのが大和猿楽結崎座の観阿弥である。彼は優れた演技力と音楽面の改革などで名声を上げ、将軍足利義満の公演を受けるようになった。その子世阿弥も物真似主体から歌舞伎主体へと能を転換を図って優れた作品を生み出したので、猿楽という語は江戸末期まで能・狂言やその役者、催しを表す語として用いられたが、明治初期からは能楽と呼ぶのが一般的になった。

 







歴史の回想「陰陽道の謎」アマゾン・グーグル。楽天・角川・電子書籍

2020-06-29 06:00:06 | 投稿済C

「陰陽道の謎」アマゾン電子書籍
「陰陽道」は広義には中国伝来の陰陽五行思想の日本における展開形態の総体。狭義には伝来の陰陽書を重視し。それを典拠に方術中心に習得実践を挙げた特定の人々を核として形成された文俗宗教という。【陰陽五行思想の伝来】陰陽道の成立について、中国民間成立説と日本成立説とが長い併行してきたが、近時では日本成立説が無理が少ないことから受け入れらえている。中国古来の陰陽思想五行思想という別々の思想が、前三世紀前半に騶衍によって陰陽五行説にまとめらえ¥れ、さらに前漢の薫仲舒が陰陽五行思想は、気の消長と環境を基礎理論とする哲学である。それが人事に拡張適用されて王朝交替の正統性を説明し、さらに十干十二支をも理論を苦こんだ自然、人間、社会の諸現象を幅広く説明するようになり、八卦も加えて未来予知まで含む複雑な陰陽五行思想に発展した。中国ではこうした思想を説く人を陰陽家と言い、この思想に基づいて神仙術、医術などの実践を行う人を方土と称しした。大陸の儒教、道教、そうした展開が日本に及んだものと考えられる。日本の陰陽五行思想の伝来は、中国および朝鮮における陰陽五行の伝来は中国および朝鮮における陰陽五行の天界の波状的伝番であり、最初は朝鮮半島経由が中心であった。



「高僧名僧伝・円空」アマゾン・グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介。

2020-06-27 05:30:20 | 投稿済C

「高僧名僧伝・円空」アマゾン電子書籍紹介。
円空(1632~1695)江戸時代初期の彫刻僧。修験者。北海道、東北、中部、近畿地方他、各地を遊行。鉈彫りと称する木彫仏(円空仏)を残した。出生地については諸説があり、美濃国中島郡中島(現岐阜県羽島市)が有力。初期作品(現岐阜県郡上)地区にある天照大神像ほか3体には寛文3年(1663)銘があり、ついで青森、北海道を巡って洞爺湖観音堂には観音像を安置した。三重県志摩市三蔵寺では大般若経扇絵を書き、奈良県大峰山では役行者像を刻み、群馬県富岡市貫前神社の大般若経(1681)には「壬申生美濃国圓空」と墨書した。滋賀県伊吹山でも修業し「江州伊吹山平等岩僧内」銘の作品がある。岐阜県関市弥勒寺で没した。円空仏は5000体近く数え、他に類をいない独創性に支えられた作品として「円空歌集」があり、「近世騎人伝」には大木に彫刻する円空の姿が描かれている。








「歴史の回想・東勝寺合戦」アマゾン・グーグル・楽天・角川。電子書籍紹介。

2020-06-26 05:51:29 | 投稿済C

「東勝寺合戦」アマゾン電子書籍紹介。
東勝寺合戦(とうしょうじがっせん)は、鎌倉時代末期の1333年(元弘3年、正慶2年)に相模国鎌倉(現在の鎌倉市)で行われた戦い。(元弘元年、元徳3年)8月、後醍醐天皇が笠置山で挙兵、これに応じて楠木正成も河内で挙兵して、元弘の乱が始まる。幕府は鎮圧の兵を上らせ、上野国の御家人新田義貞も加わった。9月には笠置山が陥落し、後醍醐天皇は捕らえられて隠岐へ配流とされた。
1333年(元弘3年、正慶2年)、楠木勢は千早城で再挙し、幕府の大軍を相手に奮戦する。これに触発されて播磨では赤松則村(円心)が蜂起し、伊予でも反乱が起こる。幕府はさらに北条一族名越高家と下野国の有力御家人、足利高氏に大軍を率いさせて西国に派遣する。閏2月には後醍醐天皇が隠岐を脱出して船上山に拠り、4月には高氏が篠村八幡において幕府に反旗。足利勢らは京都の六波羅探題を滅ぼし、都を制圧する。


歴史の回想「信康自刃事件の謎」アマゾン・グーグル。角川・楽天・電子書籍紹介。

2020-06-25 06:11:00 | 投稿済C

「信康自刃事件の謎」アマゾン電子書籍紹介。
信康自刃事件とは徳川家康の嫡男でありながら家康の嫡男で勇猛果敢に戦果を挙げながら、突如自刃に追い込まれた謎に包まれた事件である。
一説に武田氏など敵に内通で味方の情報を漏らした疑いを信長に咎められ、自刃に追い込まれたとも言われているが、詳細な証拠や確証がない。
また父親家康との不仲説もささやかれるが、嫡男を自刃に追い込むほどの理由は見つからない。また家臣や一族の身の回りへの不行状、素行の悪評によるもささやかれたが、自刃するほどの事案が見つからない。また嫡男であるが上に、徳川家の家督相続による策略に嵌められた事など推測の域を出ていない。
信長から強かで武将としての才覚を認められ、今後の戦国時代に徳川家に対立し邪魔な存在を小さなうちに芽を摘む、徳川方への布石だとも思われている。何しろ岡崎城の城主とし間もない信康は突如岡崎城を出ることを促され、大浜城・二俣城と移され切腹を申し渡されている。



歴史の回想「江戸の絵師・歌川国芳」アマゾン・グーグル・楽天・角川・グーグル・楽天電子書籍紹介。

2020-06-24 05:31:31 | 投稿済C

「江戸の絵師・歌川国芳」アマゾン電子書籍紹介。
歌川国芳(1797年~1861年)江戸後期の浮世絵師、初世歌川豊国の門人で、幕末の浮世絵界に幅広い作区域で活躍した。江戸・神田の染め物業柳谷吉右衛門の子として生まれ、俗称を井草孫三郎という、1811年(文化8)15歳で豊国門下になり、14年頃画壇にデビューした。しかし幾年かは振るわず、27年(文正10)ごろから版行され始めた「通称水滸伝豪傑一百八人之一個」のシリーズにより一躍人気を博して、武者絵の国芳と呼ばれ、この分野に地歩を固めた。別号には一勇斎、朝桜楼ほかがあり、風景画、美人画、役者絵、花鳥画、武者絵、風刺画、戯画、版本の挿絵、肉筆画などの作区域は広範であった。その性格も豪放淡泊であり、逸話が多く残されているが、天保年間(1830=44)ごろより多くの風刺画を描き、この方面における第一人者としても活躍した。また風景画にも「東都名所」ほかのシリーズが知られており、洋風表現を駆使したその画風にはみるべきものがある。文久元年3月5日に没。



「高僧名僧伝・親鸞」アマゾン・グーグル・楽天・角川。電子書籍紹介。

2020-06-23 05:25:35 | 投稿済C

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親鸞(1173~1262)鎌倉時代の僧。浄土真宗の開祖。はじめは綽空と名乗る。房号は善信。1876年(明治9)見真の大師諡号を与えらえれた。日野氏に生まれ。9歳の春、慈円の坊舎で得度し、範宴少納言と称したという。比叡山では常行三昧堂の堂僧を務めていたが、29歳の時自ら進路を見失い、「後世を祈る」ため、山を下り京都六角堂にて百日の参籠を試み、聖徳太子の夢告を得て、法然の門下に入り、専修念仏の道を歩むことになる。33歳には法然より『選択本願念仏集』の書写と肖像画の制作は許されるが、35歳の1207年(建永2)法然門下の密通事件に端を発する念仏弾圧(建永の法難)によって越後国に流された。この時愚禿を姓として、非僧非俗を自ら信条とする。5年後赦免されるが、京都には帰らず、1214年(建保2)頃から関東に移る。法然が死去したことと、門弟たちの群会を禁じたその遺徳守るためであった。ただ関東が選ばれた理由については諸説があって定説を見ない者の、近年は科の善光寺の勧進念仏聖一行に加わって行動する見解が有力となりつつある。関東では主として常陸国稲田を拠点都市、約20年間に渡って各地を遍歴し、念仏聖として教化伝道を行った。その結果多くの門弟が生まれた。南北朝期の史料「親鸞聖人門侶交名牒」によると、指導者格の直弟は下野、常陸、下野、武蔵などに49名を数え、それに帰依した民衆は数万賭される。彼らは地域ごとに集団を形成したので、その地名を冠して間に「教行信証」著し、思想体系の樹立に努めている。単なる勧進目がるといえよう。1234年(文暦元)~1235年(嘉禎元)頃関東を離れ京都に帰っているが、その理由については詳らかでない。京都では五条西洞院に住み、「教行信証」の推敲改定や和讃の制作など著作活動が中心だったと考えらえる。関東の門弟たちに対して書写聖教や書状を送って教化の継続を図っている。所が80歳に入ったころ自分の名代として関東に派遣した滋信房善鸞が異議を言いふらし、古い門弟らが鎌倉幕府に提訴するという事件が持ち上がり、関東教団は大きく動揺した。これを知った親鸞は、1256年(建長8)5月29日付け善鸞に縁を切る旨の書状を送り、これを門弟らにも周知させ動揺を鎮静化させた。その前後から住居を実弟に尋有僧都の三条富小路の坊舎に移し、1262年(弘長2)11月28日死去した。年齢90歳。奇瑞も何もない平静な最期だったという。