テキスト主体

懐中電灯と双眼鏡と写真機を
テキスト主体で語ろうとする
(当然、その他についても、語ったりする)

誤り

2012-05-23 23:45:24 | 脱線して底抜け
ワタシが誤りだと思い始めた事柄に資本主義と民主主義の今の形態があります。

100年以上前の封建社会において、重い租税や厳しい身分制度、社会的な不安や、疾病への恐怖に苦しめられているヒトに対し、現代人は憐憫の情をもつコトがある。
貧しく厳しい暮らしの中で簡単にヒトが傷つけられ殺され、伝染病でばたばたと死んでいく。そんな様子に優越感を持って、情けを掛ける場合がある。

昔、子どもながらに、数百年先のヒトからみれば、現代の自分たちも、重い枷をはめられた哀れなヒトに見えるのかもしれないと考えたとき、そのような傲慢さを思い知った。
当然、ワタシごときが思い知るまでもなく、カウンター概念として社会主義、共産主義は湧き上がりながらも、すでに敗色濃厚な時代であって、その後、非常に悪い後遺症を民主主義、資本主義に与えながら、ケロイドのような矛盾をまき散らしつつ、社会、共産主義とも、遺物にしか過ぎなくなった。
(日本を唯一成功した共産主義の一形態だと揶揄するむきもありますが、喩えとしてすらおかしいと思う)

全地球的な即時的コミュニケーションの発達が、資本主義にグローバリズムといういびつな怪物を味方として与え、民主主義の価値観の敷衍こそが、その怪物の毒性を緩和してしまい、車の両輪のように、ひたすらに、違っているかもしれない道を猛進していく。100年前より何もかも進歩しているはずの現代社会において、未だに食や健康に満たされない貧困があることや、自らの命をストップしてしまう先進社会に蔓延る病理に、殊更に不安を感じないことこそ、資本主義民主主義の負の効果そのものだと思います。

この数十年、ヒトの社会の形態は、ものすごく大きな変化をはち切れんばかりに内包させながらも、少なくとも外面的には、さほど変わることができずに来ました。情報、伝達の極端な過剰とでも呼びたい現状の弊害こそ糾弾されるべきだと思うのですが、自らもどっぷり浸かりきってしまっているのも事実なので、困っているのです。
コメント
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