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日々感じた心の軌跡と手作りの品々のコレクション

10月の「源氏物語を原文で読む会」

2009-10-24 20:28:30 | 
「源氏物語」は谷崎潤一郎、与謝野晶子、田辺聖子、円地文子、瀬戸内寂聴、などたくさんの作家が現代語訳を出されているようですね。
私は田辺聖子と円地文子、寂聴さんのをほんの一部チラチラと読んだことがある程度で、原文と現代文の比較の考察などできる資格も能力もないのですが、事実として一番大きな違いといえるのは、男女の場面に関して原文は「微にいり、細にわたり」という表現が一切ないことだと思います。
いよいよ源氏が若紫と新枕をかわすという場面、“しのびがたくなりて、心苦しけれど。”がすべて。
次は“男君は、とく起き給いて、女君は、更に起き給わぬ朝あり、”とあるだけなんですね。
まだ無邪気な「紫」をかわいそうかもしれないがと源氏の気持ちは表現してありますが、「いざ鎌倉」の際の「紫」の驚き、ショックは一切書かれず、翌日の「紫」の打ちひしがれた様子に読者は何があったか悟るという構図になっているんですね。
しかし、考えて見ればこういった手法はわりと最近まで当たり前の「暗黙の了解のルール」的表現方法だったような気がします。
いつ頃から変わってきたのかという疑問に答えられるだけの教養にはまるっきし欠けてますが、例えば、乳首を描くのも長いことタブーとされていた少女漫画の世界で「新條まゆ」が初めて描いてみせて、「それは読者が望んでいたこと」と理由を述べていたのをテレビで見たことがあって、確かに小説にしろ、漫画にしろ読み手側の「もっと、もっと」という要求にこたえる形で表現法も進化していくものだろうということは理解できるのです。
ただ、わたくしの場合、自分がからっぽなので、何とかその空白を埋めようとして、あれこれ詰め込もうとする意識は今も自分の中で働いていて、おおらかに余白を味わうだけの度量がないという現実には自身苦笑せざるを得ません。
しかし、自然がすぐ手に届く時代、「いにしえびと」の感性は我々現代人のそれよりはるかに鋭く豊かなものがあったのではないかと想像するのは難くないことではあります。
原文の表現は「原文の時代」にふさわしい表現だったに違いありません。
写真は本日の茶菓子。「あわや」の“栗坊主”と“和三盆の干菓子”でした。
コメント
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