蔵の街・喜多方より、歴史探訪のパート3です。24日(日)のコースに日向内記の墓碑を訪ねてとあります。日向家の墓碑は喜多方市内北町の龍宝山・満福寺の墓地に在ります。本日午後から行って来ました。簡単に草刈をして掃除をしてきました。
日向内記・ひなたないき(1826~1885)旧会津藩士・700石取です。戊辰戦争時、白虎隊(びやっこたい)士中二番隊隊長を務めていました。1868年8月22日会津戦争時二番隊を指揮し、滝沢本陣へむかうが、戦況思わしくなく、先発・後発隊と分かれ戸の口原へと出陣します。夜・ある任を持って隊を離れますが、その時「食料調達」と言ったとかで、後々まで、非を招きます。彼は隊へ戻る事が出来なかったのです。食料調達を理由に逃れたとする逃亡者説です。彼は藩主容保の護衛の任も有ったとする説もあり、あるいは本陣に在ったのかもしれません。それが白虎隊士19名の自刃と言う悲劇を招いたと言われています。現在では逃れた説は否定されつつあり特命をおびていたとする説が有力視されつつあります。
会津藩は朝敵とされ、戊辰戦争(会津戦争)に敗北し降伏します。会津藩領は松平氏から没収されます。下北半島に斗南藩3万石を与えられますが、当時は不毛な土地で飢えと寒さで命を落とすものも少なくなかったと言われてます。後斗南県~青森県に編入されます。
歴史探訪ウォークは24日(日)喜多方駅前10:30~約5キロ。1時間30分の予定で行われます。では明後日喜多方駅で、お逢いしましょう。・・この稿おわります。
日向内記・ひなたないき(1826~1885)旧会津藩士・700石取です。戊辰戦争時、白虎隊(びやっこたい)士中二番隊隊長を務めていました。1868年8月22日会津戦争時二番隊を指揮し、滝沢本陣へむかうが、戦況思わしくなく、先発・後発隊と分かれ戸の口原へと出陣します。夜・ある任を持って隊を離れますが、その時「食料調達」と言ったとかで、後々まで、非を招きます。彼は隊へ戻る事が出来なかったのです。食料調達を理由に逃れたとする逃亡者説です。彼は藩主容保の護衛の任も有ったとする説もあり、あるいは本陣に在ったのかもしれません。それが白虎隊士19名の自刃と言う悲劇を招いたと言われています。現在では逃れた説は否定されつつあり特命をおびていたとする説が有力視されつつあります。
会津藩は朝敵とされ、戊辰戦争(会津戦争)に敗北し降伏します。会津藩領は松平氏から没収されます。下北半島に斗南藩3万石を与えられますが、当時は不毛な土地で飢えと寒さで命を落とすものも少なくなかったと言われてます。後斗南県~青森県に編入されます。
歴史探訪ウォークは24日(日)喜多方駅前10:30~約5キロ。1時間30分の予定で行われます。では明後日喜多方駅で、お逢いしましょう。・・この稿おわります。
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