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樋口陽一東大名誉教授【憲法】、「日本は独立後も準占領体制が継続」。日米安保体制はどのように「準占領体制」か
A事実関係
『天皇と軍隊』という映画が上映されている。製作:2009年,フランス、日本公開:2015年8月8日
この中、樋口陽一東京大学名誉教授の発言が引用されている(注:専攻憲法学、比較憲法学。「近代立憲主義と現代国家」によって、41歳で日本学士院賞を受賞)。
・ひとことで言えば、この条約(日米安保条約)締結後62年間(映画製作時までをいう)の準占領体制の継続。
準という言葉は、いうまでもなく平和条約発効後の日本は法的には主権国家ですから、単純な占領という意味ではなく、準。しかし事実上の占領状態、ということの意味は、何よりも日本外交がいまだにその独自性を見定めることが出来ないでいるという状況。
B本件については『戦後史の正体』に記述しているので、その部分を摘出。
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ダレスの考え:「われわれ(米国)が望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保する、それが米国の目標である」
トルーマン大統領は一九五〇年九月十四日、新聞記者との会見で「『対日講和条約のため、関係諸国と予備交渉を開始するように』という指示を出した」と発表します。
翌九月十五日、ニューヨーク・タイムズ紙は責任ある人からの情報として、対日講和の次のような方針を報道しました。
〇再軍備に制限を設けない。経済と通商の自由を最大限認める。国連加盟などの参加を促進する〇米軍が日本に駐留する許可を得る。
ここで米軍が日本に駐留することが独立の条件になってきます。
こうして米国側も用意ができ、日本側も用意ができたところで、一九五一年一月二五日、ダレス国務省政策顧問が訪日し、日米交渉が開始されます。
ここでダレスがどのような姿勢で日本との交渉にのぞんだか、この点はきわめて重要です。豊下楢彦著『安保条約の成立』は次のように書いています。
「一九五一年一月二六日、日本との交渉に先立ち、ダレスは最初のスタッフ会議において『われわれは日本に、われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保できるだろうか、これが根本問題である』と指摘した」
歴史学者のシャラーも『「日米関係」とは何だったのか』のなかで同じことを書いています。そしてダレスのスタッフたちは「つづく二週間半をこの回答を得るためについやした」と。つまり一九五一年二月の段階で、米国は日本から「われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利」を勝ちとったということです。
私たちはいま、過去の歴史をふり返っています。しかし、先にE・H・カーの言葉を引用したとおり、過去の歴史を学ぶのは現在を理解するためです。
そこで質問です。
ダレスが日本との講和条約を結ぶときにもっとも重要な条件とした「われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保する」という米国の方針は、その後どうなったでしょうか。
いまでも変わっていないのです。
その後、日本側から「われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保する」ことを変えようとする動きが出ると、そうした動きはかならずつぶされてきたのです。
一九五一年からもう六〇年以上経過しています。しかし米軍とそれを支える日本側の関係者は、六〇年も前にダレスが決めたこの方針から、どうしても抜け」だせないようです。
二〇〇九年九月から二〇一〇年五月まで、鳩山由起夫首相が普天間基地問題で「最低でも県外」とし、「国外移転」に含みをもたせた主張をしました。これは日本の首相として、歴史的に見るときわめて異例な発言でした。日本側から米軍基地の縮小計画をもちだしたケースは、これまでほとんどないからです。ですから鳩山由紀夫首相のこの主張は、米軍側とその日本側関係者から見れば、六〇年つづいてきた基本路線への根本的な挑戦でした。それだけに、鳩山首相の主張をつぶすための大きな動きが生まれ、その工作は見事に成功したのです。
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