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池田清彦『38億年 生物進化の旅』2(未生の書評)

2010年07月22日 00時42分14秒 | 生命生物生活哲学
2010年7月22日-1
池田清彦『38億年 生物進化の旅』2(未生の書評)

 池田清彦氏の著書は、1999年くらいまではおおよそ読んだ。池田氏は、論理明快に、問題の核心を指摘する。感心する。
 たとえば、側系統の問題である。新奇な諸性質、とりわけそれまでの体制とは異なった革新的な生物体が出現した場合、旧来の体制の生物体は、いわば取り残される(『分類の思想』)。必然的にそれらは側系統となる。それらはなんら変化しなくとも、分岐学派によれば、それらだけではタクソンとして認めないらしい(ここでも、分類に使用するタクソンの構築体としてという存在上の地位と、生物体の実在物としてという存在上の地位との区別しないことの誤りがありそうである)。
 側系統については、他に認識上の問題がある。完系統との区別が実践上困難であることである。要は、『系統』なるものを基本にすると、物語作りに止めどがない。化石がでるとガラッと筋書きが変わる。考古学でも、『神の手』によってデータがでっちあげられると、歴史(少なくとも年代)が変わってしまう。データと理論は合い携えて進むが、捏造データを検出できるほどに整備された歴史的理論を構築することは困難である。そのような歴史の夢物語はロマンがあってよいので、歴史小説は面白いだろう。
 しかし、あなたの両親はこのような人だった、そのまた両親はあのような人だったとわかったとして、それはなにかの説明になるのだろうか? (二重に脱線。)〔→カメレオン説話〕

 さて、『38億年 生物進化の旅』では、様々な形質を持った生物体が登場する。それらを『系統』でつなぐわけである。したがって、歯切れが悪くなる。池田氏自身がどれかの著書で言っていたように、(種内変異ではなく、種水準での)進化は誰も見たことが無い。或る種(タクソン)Aに属する生物体a1の何世代か後の末裔b1が、その生物体とは別の種に属する生物体と同定されること、これが進化である。「種Aは種Bに進化した」とは、文字通りのことではなく、「種A属する生物体の末裔が、種Bに同定されるほどに異なる形質のものとなった」の省略記法である(マーナ・ブーンゲ『生物哲学の基礎』を見よ)。
 で、誰も種が進化する経過は見たことが無い。そうだとするのは、外挿的憶測である。むしろ、種システムは多少の苦難は乗り越えるような反応的メカニズムを装備している(実際に装備しているのはむろん、その種に属する生物体である)。種内変異は、そのような環境変動への種システムの適合的反応 aptive responseの結果である(もちろんここでも、フィードバックを考えてもよい)。すなわち、或る種に属する生物体は、別種になるような生物体を産むメカニズムも契機も持ち合わせていないと想定するのが妥当である。そこでまず、進化理論としての第一の仮定は、『進化は事実』仮説である(Lo/vtrup 1987 "Darwinism: the Refutation of a Myth"、またはこの本の(一部の)元となった、'Four theories of evolution'と題する論文を見よ)。そこで問題は、もし種Aに属する(一部の)生物体たちa1~alと種Bに属する生物体たちb1~bmが親子関係で結合され、さらに種Bに属する(一部の)生物体たちのbn~bpと種Cに属する生物体たちc1~cqが親子関係で結合されるとした場合、種A、種B、そして種Cのそれらの諸形質は互いにどういう変換関係になるのか、である。AとCの中間種であるCはどのような形態であるかを、AとCの形態から過不足無く決定できれば、判定や理論の(一部の)確証に使うことができる。
 (書評のつもりが、脱線した。)

 さて、池田氏はニッチという概念を、あちこちで説明に使っている。しかし、生態的地位という言い換えがあるだけで、ニッチまたは生態的地位の定義も、その使用法についての説明も無い。

  「既存の生物が大量に絶滅すればニッチ(生態的地位)が空く。そこでまだ比較的硬直化が進んでいないシステムを有する生物がこのニッチに適応して多様化していき、次の時代の生物相を作る。生物の進化史はこの繰り返しだと言ってよい。」(池田 2010: 211頁)。

と、終章の終わり近くに書いている。進化を生態的に見た場合に応用できるのは、空きニッチ(vacant niche, またはempty niche)という概念を許容するニッチ概念の方であるには違いない。しかしニッチの定義と、その実際的運用の仕方が提示されなければ、「比較的硬直化が進んでいないシステムを有する生物〔体〕がこのニッチに適応して多様化していく」が、何を具体的に意味しているのか、どのような生物体の出現(あるいは非出現)を予想するのか、皆目わからない。よって、この文は、わたしにとって無意味に近い。

 おそらく池田氏は、生物体の発生システムあるいは形態形成プロセスについて熟慮を巡らして、アッと言わしめるような考えまたは理論を構築中であろう。そう、期待している。