生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

読書録:森田邦久 2012/6 科学哲学講義

2015年12月31日 22時20分46秒 | 生物哲学
2015年12月31日-2
読書録:森田邦久 2012/6 科学哲学講義

森田邦久.2012/6/10.科学哲学講義.202pp.[本体価格740円+税][B20120626] [20151229読始、20151230読了].

買って3年半後に、読み始めた。
第1章と第2章は、読みにくく、肝心のところが理解できなかった。
第2章の途中で止めて、 一時は放棄しようと思ったが、最後の章を読むと難なく読めた。そして、第3章以降もすらすら読めた。

森田 2012: 20頁。
白いカラス。
カラスはCorvus 属の種の個体か?。同属の数種は、種として一部が黒ではない。

種システムとしては、個体発生途上で事故(材料不足とか放射線が当たるとか)がなければ、羽根は黒くなるようになっている。メラニン色素の沈着によって。
ウォディントンの頑健な発生経路。

あるダイエット食品や民間治療法が、同じまたは同様の状態にたいして、一般的でなく、私に効果があるかどうか、が問題である。→諸条件の同定。

グルーという述語
変態する昆虫は、グルー的性質を持つ。
幼虫が蛹になり成虫になるのは、グルー的性質の発揮である。
→種システムの、種生物体発生システム、または形態形成システム。

「「投射可能な述語」をはっきりと説明するのは難しい」、で終わっている。しかし、この投射可能な述語を使っている。そして、
「投射可能な述語を用いることは、自然法則であるための必要条件であるが、十分条件ではない」(27頁)と述べる。

→渡辺慧の醜い家鴨の仔の定理、は投射可能な述語なるものは、相対的であることを含意する。

私見.
プルトニウム239をおよそ10kg以上集めると、ましてや1トン集めると、または1トンを集める前に、核分裂するので、1トンのプルトニウム239は存在しないというが、そうとは限らない。或る法則でも、或る日を境にして変わる、または成立しなくなるかもしれない。
また、環境条件が述べられていないが、絶対零度下では、プルトニウム239を1トン集めても、核分裂しないかもしれない。→理論的にはどうなのか?。理論的にはあり得ないと予想されても、実験結果は無いだろう。

→9kgごとのを作っておいてそれらを1トン分を一度に瞬間的に集めるとどうか?、やった人はいないだろう。日は明日も昇る、が保証が無いのと同じ。
核分裂を起こす、というが、これも帰納的推論で、次はわからない。→理論と根拠は相互依存。二項の同時分類。

31頁。私見。
法則とは?
他の法則が正しいとは限らない。
太陽が55億年後に消滅するかどうかは、一つの予想であって、確証されてはいない。その予想するより一般的な、恒星の大きさによって分類された、または数値で異なる結果となる一般的な理論、も確証されてはいない。→無矛盾性のみ。→後日には反確証されるかも。
→森田の議論は、厳密ではない。

種生物体の発生的条件が満たされれば、或る種システムが製作するすべての生物体は、一定範囲内の形態や機能を持つことになる。
→何らかの条件のもとに、または人が操作した結果として、脚が頭部に一つついていても、それはその種の生物体である。キメラなら、二種のシステムの合作である。それぞれのシステムの寄与割合を決めるのは難しい。二つの種の諸機構の(また或る環境下での)相互作用なので。

→ウォディントンの発生的結果の頑健性。

→カラスは黒い、は種固有的な「法則」?または、例外の無い規則である。発生結果は、発生機構による。機構は、存在する力を使って制御し、材料を変換もして構築している(諸結合関係による空間構造をもたらす)。
→物体間の結合関係の種類と程度。

「「すべてのカラスは黒い」も、じっさいにそれを否定するような事例があるのですが、それがなかったとしても、生物学的な法則からメラニン色素が欠如すればカラスでも白い場合がありうるので、法則とは言えません。」(森田 ?頁)。

私見。
→頭部に毛の無い、女王アリ、Pyramica。たまたま、発生途上での何かの条件違いで、そうなったのかも。
→種同定での注意点。

すべての人は死ぬ。
→キリストの肉体の再作動。チューリンの帷子の写真ネガみたいな像の焼きつけ痕。
→イオン化的エネルギー注入。細胞の再活動。生システムの再作動。

35頁。
結論が正しいとは限らないのが、アブダクション。
→良い指摘。
→ゆえに、試験されて確証または反確証されなければならない。架空の物語作りかもしれない。なんらの確証も無い、系統物語の花盛り。

私見。
本質的性質、本性 natureはその種システムが備える機構によってもたらされる。
→本質とは、種システムの機構の必然的結果である。障害がなけれは、種システムの(伝達経路を経て)諸力の操作の結果である。機構とは、定義により、そのような結果を一定範囲内の条件下で必然的にもたらすものである。
→発生経路の制御。

水は一つのタクソン名とすることができるが、H2Oは分子の元素構成を表わしたもの(化学式)であり、水と呼ぶものの本質を示した記号である。

可能世界は、実在するのか?
必然性という概念を考えるための、人が工夫した構築体である。また、言い換えにすぎないのか。しかし、実在しないなら、それによる推論は正しいと言えるのか?

41頁。
「1kgは1gの千倍である」というのは定義によって正しく、ア・プリオリには正しいのですが、必然的には正しくはありません。なぜなら、1kgの定義がこの現実世界と異なる可能世界はありえるからです。そこでは1kgは1gが100倍なのかもしれません。」

では、「この現実世界で「水がH2Oである」というのが正しいのなら、その他のあらゆる可能世界でも正しいはずだということです。」→?

ここでの議論は、40頁1行目からの、
「H2Oでないものは水ではありませんし、……」
であるが、まったく理解できない。
→或る現実世界についての可能世界の定義は?

41-42頁。
アブダクション、帰納的推論の一種だが、枚挙的帰納ではないということか?

53-54頁。
同じ可能世界を用いた議論を、因果について行なっている。ここでも、理解できない。

103頁。NO GO 定理。

「重力や磁力が、離れたものどうしに働いているように見えますが、今では「場」と呼ばれるものを介して働く「近接作用」として理解されているのです。」
(森田邦久 2012/6: 108頁)

116頁。確証性の種類と程度として理解すべきである。
→渡辺慧の信憑性、ベイズ。

117頁。検証可能性基準を「ゆるめた」(117頁)?、確証可能性基準。

私見。確証可能性基準でよい。
「このようにゆるめると、今度は、直感的には非科学的だと思われるような命題までが科学的になってしまうのです。たとえば、「神さまがこの世界の生きとし生きるもの、いまあるようにデザインしてお創りなさったのだ」という命題の「確からしさ」を上げるのは容易です。というのも、〔略〕生物というのはじつにうまくできています。」
(森田邦久 2012/6: 108頁)。

したがって、なんらかの設計が介在していると仮定して、試験し、確証または反確証(反証と同じ。文脈または考え方としては異なるが。下記に私見を参照せよ)すれば良い。

→森田邦久 201?.理系人に役立つ科学哲学.の32頁、に確証可能性基準についての問題を述べている、らしい。

私見。
或る命題が正しいとすると、それが間違っていると証明できないはず。間違っているとする証明の方が間違い。
→反証性基準は、役に立たない.
ポパーの考え方では、反証された理論だけが、科学的だった(過去形に注意)のである。Mario Bungeや渡辺慧のポパーへの批判を参照せよ。

「ラウダンは、そもそも科学と疑似科学を区別するのは不可能だと主張しています。」
(森田邦久 2012/6: 160-161頁)。

ラウダンの見解に同意する。

最後の方での森田邦久(2012/6)の結論も、科学と非科学との間の線引きは無理、というものだったと思う。
しかし、幾つかの基準によって諸段階を設けることは、できるだろう。そして各基準ごとの合致の程度を明示すると良い。
→何事についても、〈種類と程度〉を考えることを、心がけよう。