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本質主義と進化的思考

2016年07月08日 23時08分08秒 | タクソン学/走書き・草稿
2016年7月8日-2
本質主義と進化的思考
2013年4月10日 12:20 =file created


 『種』はどこに存在するのか
 →或る法則はどこに存在するのか?
 より基本的な法則との居場所の関係は?
 法則たちにもニッチ(棲み場所 niche)が必要か?

 アラビア数字は見えるのか?
 数字を表記することや、音声を発音すること(たとえば経やマントラを唱える)は、力を持つのか、あるいは何らかの作用をするのか?


 科学では、その方法や構築内容の伝達のために、たとえば数式を含む言語を使う。言語体系は、なんらかの同一性のよって、差異性を表わす(逆に言えば、差異性によって相対的に同一性[の種類と程度]を示す)。したがって、科学は或る精度のもとでの同一性と差異性の体系を産み出すことになる。
 Ernst Mayr エルンスト マイア は、進化的考えを擁護するために、個体群思考 population thinking を唱え、類型主義または本質主義を排撃することを試みた。おそらく、進化的考えが多数の者に受け入れられていたため、本質主義は採用されることが少なくなった。
 しかし、生物分類学者は、たとえば種への検索表を作る。それは、その種に属する生物体はすべて、その種に同定されなければならない。望ましくは、まず種タクソンを定義する。よく行なわれるのは、諸形質(性質)を列挙することによる定義である。そして、手っ取り早い同定のためには、できるだけ明瞭に分かれるように、鍵対 key couplet での外的形質に大きく差異が出て間違いにくいような形質を選ぶことである。ここでの形質としては、種の定義形質が採用されるとは限らない。たとえば、或る群の二種の生物体の大きさが

 手っ取り早さを優先するならば、或る種の生物体たちの95%が『頭部は白い』という形質で他の或る群内の他種から区別できるなら、その形質を採用するかもしれない。

環状分布種 ring species [ring-shape distributed species]
 Mayr の本とPattersonの本
 重なる場所では二種で、全体としてみれば、一種。生殖隔離。
 アカネズミの染色体二型、構造帯沿いの数キロメートル幅で分布する雑種。
  →交雑個体の保全は?→交雑個体を保全せずとも二型の保全すればよい。いつでも交雑させれば、生産できる。動物の生殖自由権?。管理思想。


2. 理念界 idea world, idea plane に、種システムの『設計理念』は存在する
 個々の生物体または生物体のなんらかのまとまりよりもむしろ、この種理念の方が実在者である(プラトンのもともとの実在論)。


1. 本質主義の定義

  『進化の証拠が無いときには、或る種の属員たちが共通して持つ何かがあり、この共有する諸性質がその種の属員たちを属員としており、そしてそれが他種の属員からの区別性 distinctness を説明すると思うのには理由があった。
 種についてのこの本質主義的信念〔確信 conviction〕の確立は、進化的思考にとっての障害であった。それは、種の進化について、種内と種間の変化について語ることを困難にした。元素間の変化について語るのが困難であることとまさに同様である。或る量の物質が、崩壊によってラディウムであることからラドンであることへと変化したと言うことは、もちろん不可能ではない。しかし、元素ラディウムが元素ラドンへと変化するというようなことは無い。せいぜいのところ、ラディウムのすべての量がラドンへと崩壊するかもしれない、そしてその後にはラディウムの標本は残っていないであろう〔ということである〕。ただし、周期〔律〕表におけるラディウムの位置が消されることは無いであろう。変換〔変質〕 transmutation または崩壊によって、多量の他のもっと重い元素がラディウムの標本になるかもしれない。しかし、ラディウムという_類_がラドンという_類_に変化することはあり得ない。そのことの本質主義的見解では、種が進化するという概念は、生物体の変化ではなく、それらが属する類の変化という後者の意味で理解されるべきである。そういうわけで、種が進化できないのは、ラディウムという類がラドンという類に変化できないのと同じである。もちろん、多量の物質が或る元素から別の元素に変化することについて語るのと同様にして、種の進化について語ることを許すような種についての解釈を与えることはできる。血統の系列が特定の種タクサに入りそして離れると言わなければならない。もっとも、これは可能な語り方ではあるけれども、不自然であり、種の絶滅について言っていることと和解させることは難しいし、進化について考えることへの幾分かの障害をまさに反映している。この程度に、本質主義は進化的思考と反目している。」(Rosenberg 1985: 189〔OK〕)。


  「種に関する本質主義とは、各種には個々の生物体の一組の瑣末ではない* nontrivial 諸性質があり、それらの諸性質は生物体たちにとって中心的で特有 〔区別的、示差的〕distinctive であるか、あるいは属員であることにとってそれぞれの性質は必要で、かつ合わせれば十分である、という主張である。ゆえに、本質主義は、一つの特定の種名は、たとえば_Didus ineptus_ (ドゥードゥー)は、明示的な定義を与えることができるか、あるいは少なくとも、科学において得ることのできる定義に近いのである。種に関する本質主義は、極微物理学 microphysics の基本粒子または周期表における元素に関する本質主義と違わない。メンデレーエフがひとたび周期表を提案すると、物理学者と化学者は様々な元素の周期表における位置を説明する基本的特徴を探究することが可能となった。ついには、原子理論は、各元素の化学的および物理的諸性質を、元素を構成する原子たちの原子構造と結びつけることで、この説明を提供した。すなわち、陽子、中性子、そして電子のそれぞれの数と、核を囲む『殻』における配置である。こうして、分類のもともと〔当初 original〕の基礎であった化学的および物理的諸性質は、元素の原子的諸性質に取って代わられ、それらの特権的位置はさらなる説明がやり遂げられることで強化された。すなわち、いまだ発見されていない元素の諸性質の予測、同位元素 isotope の収容場所 accomodation、などである。或る元素の原子構造は、それゆえその元素の本質を提供し、本質的性質を運搬する convey と言われる。」(Rosenberg 1985: 188)。

 →暗黒物質 dark matter 〔暗黒とは正体不明という意味をかけているらしいが、光物質 light matterと名づけたいところである。lightは軽いという意味もある。〕と暗黒エネルギーが検出または同定されていないが、その存在を信じる物理学者は多いらしい。このことを考えると、

  「しかしこの主張は、きわめて強い形而上学的ないかなる意味で(少なくとも科学者の目的にとっては)理解されるべきではない。この主張は、原子構造は特定の量の或る元素の非原子的諸性質にとって論理的に必要であることを、あるいは、原子構造は或る元素の概念を思案することによって暴かれるのだということを、ほのめかそうとするわけではない。本質主義はここでは、学究的哲学がこの用語を用いるような仕方での、同一性を授ける非偶発的な関連、についての主張ではない。この点については、本質主義という用語は不運な〔unfortunate 都合の悪い〕用語である。というのは、それは中世哲学と合理的神学の刷毛で、完全にまともな科学的研究綱領 research program を汚しているからである。その綱領とはすなわち、より接近可能な現象の構成物を統御する基礎的一様性〔uniformity 斉一性〕を発見し、またそれらをより適切に体系化して説明する斉一性を発見するための綱領〔program 計画〕である。化学における本質主義はまさに、メンデレーエフ Mendeleev が明らかにした秩序の諸原因を発見するための実験的探究を企てる要求である。もしも20世紀の物理学がこのような秩序を暴くことに失敗していたならば、元素についてのメンデレーエフの分類学 taxonomy は疑いをかけられていたであろうが、当然である。同様に、メンデレーエフの周期表とは両立しない基本構造を20世紀の物理学が暴いていたならば、より基本的な原子理論を収容するように、周期表は調整されたであろう。原子理論が化学元素の本性の基本的説明を提供するようにみなされたので、それは化学元素の『本質主義的』定義を提供するのである。物理諸科学においては、本質主義はまた別個の用語であって、自然の統一性と単純性への信念に対する用語であり、そして本質主義的拘束〔制限〕を破る諸理論は、まさにそのことによって疑わしい。」(Rosenberg 1985: 188-189。試訳20130410)。

  「生物学においては、しかし、この教義は悪評に陥った〔has fallen into disreputeだが、「悪評散々となった」と誇張したいところである。〕。種についての『本質主義』は、



□ 文献 References □
池田清彦.2002/7.生命の形式:同一性と時間.245pp.哲学書房.[B20021120, 1,900円]

Rosenberg, A. 1985. The Structure of Biological Science. xi+281pp. Cambridge University Press.



w. 本質主義への Ernst Mayr による批判


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Liu, Y-S., Wang, Q-L., and Li, B-Y. 2010. New insights into plant graft hybridization. Heredity 104: 1–2. [doi:10.1038/hdy.2009.115; published online 26 August 2009][接ぎ穂[枝, 芽];接ぎ木]