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福島原発と東北地方太平洋沖地震96

2011年04月22日 00時53分26秒 | 生命生物生活哲学
2011年4月22日-1
福島原発と東北地方太平洋沖地震96

 1998年の著書の『罪つくりな科学』で、核物理学者の武谷三男氏は、安全問題についての原則的な法則を挙げている。

  「1. 性能がよい新技術はより安全なものかというと、逆に危険も大きい。
   2. 新技術では人体に対する影響が各時点では微小でほとんど検出されないことが多いが、それが長期にわたって蓄積されると、恐るべきことになる。
   3. 「危険が証明されていないから使ってもよい」という考え方ほど危険なものはない。
   4. 「この技術は安全だ」と言う人間の手にかかるほどその技術は危険になる。」(武谷 1998: 22-23頁)。

 放射線に関して、

  「許容量の考え方が成立するのは、その人個人に放射線を受ける健康上の「メリット」がある場合だけである。科学的には放射線の許容量など存在しません。いかに微量であっても、害がないと証明できない限り、よけいなものを体に受けることを「許容する」理由などないのです。」(武谷 1998: 50頁)。


  「ビキニ実験の際、リビーの許容量というものは、天然にある放射線を基準として考えられたものでした。〔略〕人が一年間に受ける放射線は約一・一〔ミリが抜け?〕シーベルトとされています。もともと自然にこれだけ存在しているのだから、そこにちょこっと付け加えたって大丈夫だろうという論理です。〔略〕天然の放射線は、当然ながら白血病や各種ガンのもとになっています。そういった有害なものと微妙なバランスを取りながら、生物は暮らしてきたのです。」(武谷 1998: 54-55頁)。

  「原子力発電所は、「便所のないマンション」のようなものだと、私はずいぶん前から言ってきました。〔略〕

  いったいトイレはどこにもっていくのか?
  原発の商業運転がスタートしたのは一九六六年ですが、廃棄物をどうするかの検討が始まったのは何と一九九五年。」(武谷 1998: 59-61頁)。

  「たとえば一時間に一〇〇万キロワットの電気出力をもつ発電所では、一日の運転で広島型原爆が三発ないし四発爆発した分の死の灰が作られるのです。」(武谷 1998: 63頁)。

  「「原子力発電所で大事故が起る確率は、隕石がぶつかって人が死ぬ確率と同じである」
   これが有名なラスムッセン報告と呼ばれるもので、かつて原発推進派が金科玉条としていたものです。〔略〕
   個別の系統の小さな事故を、それぞれ独立のものとして扱って、それが起る確率をかけあわせて大事故の確率を出したために、こんな結果になったのです。
   けれども巨大システムの事故は、一ヶ所がおかしくなれば隣もおかしくなるといったぐあいで、各部分を独立したものとして扱ってはいけないのです。」(武谷 1998: 64頁)。

  「だいたい一〇〇万キロワット級というのは収拾のつかない大きさで、どんなタイプの原子炉であろうと、こんな規模でやること自体が正気の沙汰ではありません。
   エネルギーの集中度の高いもの、ある空間の中にエネルギーが集中しているものは、それ自体が危険なのです。」(武谷 1998: 65頁)。

 電気エネルギーの獲得は、かなり生命線に関わる。一軒に一台の機器で供給できるような研究はされていないのだろうか。また、小規模地域で共同発電できるシステムは作れないだろうか? 寡占体制は危険である。

 
[T]
武谷三男.1998.罪つくりな科学:人類再生にいま何が必要か.229+11pp.青春出版社.