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種と環境との関係/ニッチ/生息場所

2010年05月25日 23時42分26秒 | 生命生物生活哲学
2010年5月25日-6
種と環境との関係/ニッチ/生息場所

 ホイッタカー 1975(宝月欣二 1979.5)『生態学概説:生物群集と生態系(第2版)』の68頁では、種と環境との関係が、三つの視点から考察されている。それを私流にわかりやすくまとめると(しかし原著を参照しないと文意が汲み取れないところがある)、
 1. 種の分布域(種が占める地域)。地図に示せる地理的広がり。空間的位置。
    〔或る種タクソンに属する生物体が分布する位置を、地図上に表示する。〕
 2. 種の生息場所。その種〔に属する生物体〕が出現する環境の一種。その環境は物理的および化学的用語で記述される。ときには、高度、地形的位置、共同体〔訳書では、群集〕の種類で記述されることもある。一つの種は、分布域中の一種類以上の生息場所を閉めることがある。
    〔一種類以上かどうかは、生息場所の分類体系に依存するはずである。〕
 3. 種のニッチ。その種の、共同体を構成する他種との関係。一つの種の、空間的位置、出現時期、そして生息場所を占めている自然共同体との機能的関係。

 人間の職業との類推(類比)を述べている。人は職業で特殊化すると、仕事に熟練し、能率が上がり、生活資源を確実に得ることができる。二人以上(原文はtwo or more だろう)がそれぞれ違う仕事に従事すれば、互いに競争することなく、各人が収入が確実になって具合がよい。
 以上のように、R.H. Whittakerは述べる。さて、同種に属する生物個体 individual organismsは良く似ているだろう。ゆえに、食物などを取り合う。共倒れになるかもしれない。ただし、「種」から見れば、どの個体が子供を残して死のうが、どれかが生き残ればよい。そのことは、どれかが、生きているうちに子を産み、さらにその子が生殖したら死んでもよい。種は、このようになれば不滅である。
 (脱線した。)
 人は職業で特殊化しなくとも、資源量に応じて分かち合えば、生きることができるだろう。仕事に熟練せず、能率が上がらなくて、さらには捕食されることが多くて、存続の苦しいときもあったに違いない。しかし、存続している。むしろ、原子力爆弾で人類絶滅できるほどまでに、分業も進み、能率は大変上がっている。ただし、天国の沙汰も金次第、金の切れ目は、縁の切れ目である。
 (脱線した。)
 Whittakerはいずれの用語についても、種にもとづいている。ここでの種は種タクソンのことであるから、正しくは、種→種に属する生物体としなければならない。
 実際の調査では、種=種に属する生物体として、生物体について観測する。それらの標本sampleをもって、その種に属するすべての生物体について観測すべきところを、少数の生物体で推定しようとするのである(標本抽出)。母集団は、その種に属するすべての生物体である。しかし、ここに問題がある。正しくは、過去に存在した生物体、これから出現するであろう生物体についても標本抽出、願わくば全数調査をしなければならない。このことを考えると、種とはそれに属するすべての生物体と同一視すべきものではないことがわかる。
 つまり、種とはわれわれが分類作業をしているときには、種タクソンを用いているのであり、名義尺度の測定をしているのである。そして、有性生物体が交配できるのは、同一の種に属しているからである(Mahner & Bunge『生物哲学の基礎』を見よ)。交配できるから種を形成している、のではない。生殖隔離をもって種を定義するのは、生殖隔離の度合いという指標を用いているのであって、定義ではない(Mahner & Bunge『生物哲学の基礎』を見よ)。そしてまたすでに述べたように、話は逆であって、種(システム)が生物体を産出するとするほかはないのである。
 結局、種についての話になってしまった。しかし脱線ではない。生態学はもちろん、生物学ではまずタクソン概念を理解しなければならない。なぜなら、タクソン概念を使うことなくしては、どんな生物についての話かが、他人に伝達できないからである。また、直示的定義は、あり得ないからでもある。